東日本大震災から早や2年である。テレビの画面をみると、被災地の瓦礫は一応片づけられているが、津波の爪痕は残されたままだ。特に福島の東京第一原発事故の周辺地区は痛ましい。除染されても中間貯蔵施設さえ解決されていない。避難地からいつ故郷に帰れるか、そのメドさえついていない。いまだに31万人以上の人が避難所暮らしをしている。
2011年3月11日に発生した、この大震災は日本人にとって永遠に忘れられない。しかし、僕にとっては、もう一つ忘れられない「3.11」がある。それは47年前の1966年(昭和41年)3月11日、ジャカルタで体験した「Superaemar」(3月11日付け大統領に対する権限移譲書簡)である。当時インドネシアはスカルノ初代大統領の外交政策、経済政策の失敗から混乱状態にあった。これを打開するためスハルト戦略軍司令官(のちに2代目大統領)が非常措置としてスカルノに権限を委譲するよう求めた書簡を送った。一種のクーデターみたいなもので、これによってインドネシアの政情は正常化し、脱退していた国連にも復帰、マレーシアなど近隣諸国との友好関係を取り戻し、ASEAN設立への道を開いた。
僕は新聞社の特派員としてジャカルタに赴任した直後に、この政変に遭遇した。前任者もなく現地の言葉も判らない。正式に取材を許されるプレスカードもない状態であった。臨時に支局にしていたホテルの前の大通りの前には連日、学生たちがデモを展開、中国大使館などが焼き討ちにあったりした。夜間は外出禁止令が出ていて一歩も外へ出られなかった。IT時代以前で、電話も英語で会話するよう制限されていた。「Supersemar」はインドネシア現代史では重要な事件で、中部ジャワのソロの大学は校名に「Supersemar」を冠している。
2011年3月11日に発生した、この大震災は日本人にとって永遠に忘れられない。しかし、僕にとっては、もう一つ忘れられない「3.11」がある。それは47年前の1966年(昭和41年)3月11日、ジャカルタで体験した「Superaemar」(3月11日付け大統領に対する権限移譲書簡)である。当時インドネシアはスカルノ初代大統領の外交政策、経済政策の失敗から混乱状態にあった。これを打開するためスハルト戦略軍司令官(のちに2代目大統領)が非常措置としてスカルノに権限を委譲するよう求めた書簡を送った。一種のクーデターみたいなもので、これによってインドネシアの政情は正常化し、脱退していた国連にも復帰、マレーシアなど近隣諸国との友好関係を取り戻し、ASEAN設立への道を開いた。
僕は新聞社の特派員としてジャカルタに赴任した直後に、この政変に遭遇した。前任者もなく現地の言葉も判らない。正式に取材を許されるプレスカードもない状態であった。臨時に支局にしていたホテルの前の大通りの前には連日、学生たちがデモを展開、中国大使館などが焼き討ちにあったりした。夜間は外出禁止令が出ていて一歩も外へ出られなかった。IT時代以前で、電話も英語で会話するよう制限されていた。「Supersemar」はインドネシア現代史では重要な事件で、中部ジャワのソロの大学は校名に「Supersemar」を冠している。
1965年の9.30事件のとき、Tg.Priokに停泊してました。丁度その頃、インドネシアの海上通信網の調査て、プリオクの無線通信局を訪れてました。
何人か友人が居たんです。
其の通信局(海岸局)のコールサインが”PKI”って言うのです。
つまり”インドネシア共産党と同じ名前でした。
調査のメモ・ノートには”PKI”の文字が随所に書き込まれてました。
帰途、プリオクの港の入口の検問所で持ち物検査、ノートも開かれ、日本語の書き込みに混ざり、”PKI”の書き込みが随所に在りましたので、大騒ぎ、即逮捕、危うく銃殺かも・・・の危機でした。 インドネシア共産党の関係者と疑われたらしいです。
懸命に弁明、通信局の友人に来て貰い、説明して貰い、やっと釈放されました。
今、想い出しても、危機一髪でした。
さて、スカルノさんは、若いころ(戦時中)スラバヤからマカッサルまで私の輸送機に乗せたことが御座います。
戦後、スカルノさんとデビ夫人の”ヤソオ宮殿”には一度、ボイラーの修理を頼まれて訪問したことが御座います。
スカルノさんもデビ夫人もお留守でしたが、”スギヨ夫人”と仰る御付の方からジョニ黒を頂いた記憶が御座います。
宮殿の中も拝見させて頂きました。
会議室の大統領の座る椅子に、チョットだけ腰かけさせて頂いた記憶が残ってます。 ヒマツブシでした。
大変な時代でしたね。デビ夫人子供が生まれたとき,ヤソー宮殿に取材に出かけたことがあります。”スギヨ”夫人にも会いましたが、何もくれませんでした。あの頃ジョニ黒は、ジャカルタの免税店で4ドルで買えました。日本では1万円ぐらいしていました。
戦時中のスカルノのマカッサル行きは、本でよく存じていますが、大正生まれさんが、その輸送機に同乗していたとは驚きです。歴史ですね。
あれから2年。あんな災害がなければと思います。
ジャカルタの激動の時代ですね。
そんな激動の時代を生きたデヴィ夫人が、今は日本のお笑い番組に出ているのですから拍子抜けというか、女はたくましいなと思います。
インドネシアの3.11前の体制は、北京、ピョンヤン、プノンペン、ジャカルタでした。北京、ピョンヤンはそのままのようですが、体制から抜けたジャカルタ、プノンペンはその後、経済的には発展しています。当時も中国の文化革命、ベトナム戦争など激動的でした。