自分の半生を振り返って綴る自分史がブームである。先日、知人が主宰するその研究会に参加した。参加者の中では僕が最高齢だったが、80歳代の参加者のテーマには、やはり幼児に体験した空襲のことが多かった。終戦時、中学3年であった僕から見れば、幼児体験はそれなりに興味深かったが、史実かどうか疑問に思われるものもあった。
僕が今住む近所に江戸時代からある末広稲荷(目黒区柿の木坂2丁目)という無人の小さな神社がある。その境内の神社由来によれば、社殿が昭和20年3月の空襲で焼失したとある。僕はこの町に当時から住んでいるが聞いたことがなかった。そこで調べてみたら、3月4日、日曜日の午前10時5日頃の空襲で、B-29の落とした爆弾で破壊され、学童疎開地㋨甲府から、受験のため帰宅していた八雲学校6年生の少女(13)も自宅で爆死されていた(小ブログ2013年2月7日既述)
この空襲は公式記録にもあり、たまたま当時、被災地点近くに住んでいた警視庁カメラマン、石川光陽氏も被災地の整理にあたる警防団をレンズに収めているが、目黒区の公式記録にはない。時間をつくって調べようと思っていたら、ネットで、改めて"っ柿の木坂空襲”で検索してみたら「柿の木坂 空襲体験」というPDF資料を見つけた。爆死された少女の実弟の当時の体験の絵まで添えた資料だが、読んでみると、被災時間が4日深夜とと誤述がり,防空壕避難の記述も白昼空襲ではない。多分、実弟の絵から見て幼児の絵であり、空襲時4,5歳ではなかったおだろうか。
自分史もそうだが、実際、自分がはっきりた体験だと思っても70余り年経っと、記憶があいまいとなり誤解も出てくる。仕方がないのだが、注意して書き、読まなくてはならない。ちなみに、当時の東部軍管区情報は3月4日午前7時から10時10分まで関東地方に空襲警報を発令しているが、5日深夜は警戒警報だけで空襲警報には至っていいない。
忘れられない体験だとしても、人の記憶は曖昧ですね。
僕ら同じ80歳代でも終戦時何歳かによって体験記憶が違います。例えばノーベル賞作家、大江健三郎(84歳)が愛媛県の田舎の村での体験と、多少なりとも動員先で機銃掃射を受けた僕とでは戦争観が違います。70余り年経過して、記憶違い、思い違いが出てきあした。まして、また聞きの情報は危険ですね。自分史を書く場合は要注意だと思います。