「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          「ゲゲゲ」とラバウル哀愁

2010-08-21 05:23:49 | Weblog
NHKの朝のドラマ「ゲゲゲの女房」が今、作家水木しげるが戦争中兵隊でいたラバウル
の回想シーンを放送している。僕も老妻のご相伴で時々、このドラマを見ているが、戦争
中軍国少年だった僕らは軍歌「ラバウル小唄」「ラバウル海軍航空隊」を通じてラバウル
の名前をよく知っているが、僕はこの歌になにか哀愁を感じる。歌のメロディは勇ましい
のだが、子ども心に当時、戦争が必ずしも勝ち戦ではないことを読み取つていたからであ
ろうか。

ラバウルはパプアニューギニアのブリテン島にある島で、戦争中は軍歌にもあるように”銀
翼つらねて”一時はわが国の航空隊が大活躍した”南の最前線”だったが、戦局の悪化と
ともに、激戦地となり水木しげるも戦闘で片腕失っている。だが、一方では水木は、この地
をこよなく愛しているようで、人気作家になった後も本気でラバウルへの移住を考えたようだ。

水木の気持ちを僕は解るような気がする。僕はラバウルに出かけたことはないが、20年ほど
前、JICA(國際協力事業団)の技術研修でラバウルの研修員の面倒を1年間みたが、とても
ナイーブな人なつっこい人たちで、彼らが戦争中、日本軍が発行した新しい軍票をたくさん持
参したのを覚えており、なんとはなく申訳なく思った。

ラバウルには陸海あわせて9万人の日本軍が駐屯していたが、1994年、日本当時”花咲山”
と呼んでいた火山が大爆発して、日本軍が使用していた飛行場は火山灰に覆われ現在は使
わていないそうだ。しかし、日本軍の戦跡は一杯のこっており、観光資源として利用されてい
るとのこと。機会があれば昔の研修員とも再会したく出かけてみたい。

       民主党の烏合の衆の変な気合

2010-08-20 06:06:30 | Weblog
民主党の鳩山由起夫・前総理が主催する「研修会」の模様をテレビでみた。僕がびっくり
したのは、会場の庭園に議員が集まって”気合だ””気合だ”と、例の女子アマレスの父親
みたいな気勢を上げていたショットだ。まさに陣笠議員の討入式みたいだ。我らが選良も
落ちるところまで落ちたものだ。

なにに気合をいれろと、いうのだろうかー。「研修会」には衆参議員160人も集まったとの事
だ。その中には菅総理から”当分静かにしてくれ”と言われている小沢一郎・前幹事長の姿
もみられた。民主党の”小鳩体制”が終焉を遂げたのは、僅か2か月前であう。”カネと政治”
”普天間”で迷走を続け、どうにもならなくなって政権を投げ出したのではなかったのか。

鳩山研修会には小沢一郎前幹事長が出席したことをめぐって、またぞろマスコミが9月の民
主党代表選に、すでに立候補を決めている菅総理の対抗馬として小沢氏が出るのではない
かと憶測を流している。{研修会」で挨拶した鳩山氏は、さかんに挙党一致を力説していたが、
それをいうなら発足したばかりの菅政権を支持して、いたずらに小沢復権を匂わす研修会など
開かないほうがよい。

戦前の帝国議会からあった言葉だそうだが、選挙で選ばれた代議士のことを”選良”といった。
しかし、鳩山研修会で”気合だ””気合だ”と変な気勢を挙げていた連中は、まさに”ガキっ子”
であり烏合の衆である。こんな連中は”選良”ではなく”選悪”である。嘆かわしい。

      ”電車通りを畑に” 戦時下の食糧増産

2010-08-19 05:10:43 | Weblog
今年も階下に住む娘一家の庭にゴーヤがたわわに実った。ここ当分は店で買う必要
はないと、老妻は大喜び。わが家の食卓には毎日ゴーヤ料理が登場する。幸い僕ら
夫婦は14年前、仕事先の石垣島で初めてゴーヤ・チャンプールを食べて以来、すっか
りゴーヤ・ファンになっており、毎日でもあきない。

今、ゴーヤが実っている場所は、戦時中の食糧難の時、亡母が丹精こめてかぼちゃを
作っていたあたりだ。うらなりの水っぽいかぼちゃだったが、ハラがへって”口に入る”
物はなんでもといった時代だ。今でもその味を覚えている。

たまたま家に昭和18年6月23日発行の「写真週報」があった。戦時中政府が発行して
いた戦意昂揚のための雑誌だが”電車通りに畑を”という見出しで都民が畑作りに励
んでいる写真を紹介している。うち一枚は都心の昭和通りのまん中を開墾している。もう
一枚は”見る庭より実る庭”というキャプションで、どこかの庭園での畑つくりを紹介して
いる。

僕の通学していた中学(旧制)では多摩川の河川敷に学校農園があった。かっての讀賣
巨人軍の練習グラウンドがあったあたりだ。僕らは月に何回か農園に通い、野菜つくりを
させられた。たしかサツマイモ、かぼちゃ、トウモロコシなどを作ったのだが、なぜかあの空
腹の時代なのに収穫物を食べた記憶がなく、むしろ肥料用の”田舎の香水”の桶をかつい
だほうが記憶に残っている。

むろん、あの時代東京にはゴーヤなどなかった。かりにあってもつくらなかっただろう。とに
かくハラにたまるもの優先の空腹時代であった。




        昔もあったのか老人の熱中症

2010-08-18 05:20:26 | Weblog
今年の暑さはまさに異常である。昨日、東京の練馬区では水銀柱は38・2℃まで
上がった。秋のフラダンスの発表会を控えて目下特訓中の老妻は、よせばよいの
に、この猛暑の昼下がり、日傘をさしても”逃げ場”がない、とふうふう言いながら
帰宅してきた。焼き付くほどの暑さである。昔はこんな暑さが連日続くことはなかっ
た気がするのだがー。

東京の行路死や変死を調べる医務観察院の発表によると、東京23区内の7月17
日から1か月間に熱中症で死亡した人が100人を越えたという。これは昭和21年、
同観察院が記録を取り出して以来の記録だとのこと。そして亡くなった方の9割が
65歳以上の老人である。これは、僕らにとってはショックだ。

昔は熱中症という言葉はあまり聞かなかった。熱射病とか日射病とかいって子ども
の時、帽子をかぶらずに、外で遊ぼうものなら、母親から叱られたものだが、年寄り
が日射病や熱射病にかかったり、死亡したりしたりしたことなど聞いたことはない。

老人が熱中症で死亡するケースは外より家の中で、それも午後5時から翌早朝にか
けてが多いのだという。素人で判らないが、昔は今より住宅構造は劣っていた気が
するのだが、逆に劣った構造のほうが、熱中症にかかりにくいのかもしれない。

まだ、この猛暑はあと1週間は続くとのこと。お年寄り諸君、熱中症にかからないよう
頑張りましょう。

     インドネシア独立記念日に紀元節を想う

2010-08-17 05:09:12 | Weblog
インドネシアが独立して今日が65回目の記念日である。在日大使館からの招待を
受け,早朝8時からの記念式典に今年も参加した。広い大使公邸の庭で行われる
式典は、毎年、昭和20年8月17日、ジャカルタのスカルノ(初代大統領)邸で行われ
た独立宣言当日の模様をそのまま再現した形で行われる。午前8時という時間まで
65年前のジャカルタ時間(日本軍政下では午前10時)にこだわっている。

今年はイスラム教徒の断食月(ラマダン)の最中だが、朝早くにもかかわらず在京の
インドネシア人が大勢集まり、国歌が流れる中での国旗掲揚式に参加した。例年だと
この後、大使を交えて軽食をたべながらの懇談があるのだが、今年は断食中なので
中止となった。

戦前、僕らが子どもだった頃、現在の建国記念日(2月11日)は「紀元節」といって国を
挙げ盛大に祝ったものだった。学校でも「君が代」を歌い”雲にそびゆる高千穂”で始ま
る「紀元節」の歌を歌い、帰りにお祝いの紅白のおまんじゅうを貰った。インドネシアの
独立式典に参加すると、いつもこの「紀元節」を想い出す。

「紀元節」は戦後廃止になり、代わって昭和41年「建国記念日」が制定され、2月11日が
国民の祝日になったが、残念ながら、今ひとつ国あげて建国を祝う空気ではない。それは
一つには学校で建国の神話を教えないからである。建国にまつわる神話がそのまま戦
前の天皇制の復活に結びつけるのは短絡しすぎる気がするのだが。世界どこの国でも
名前は異なるが「建国」「独立}記念日があって祝っているが、日本だけは建国記念日が
ありながら国を挙げて祝えないのは不幸である。
(写真は国旗掲揚式)

      谷垣自民党”総裁”の靖国神社参拝

2010-08-16 11:05:20 | Weblog
自民党の谷垣総裁が終戦記念日の昨日、大島幹事長とともに靖国神社を参拝した。
谷垣氏は2006年、自民党の総裁選に立候補したさい”アジア外交を立て直すために
私は総理になっても靖国神社に参拝しない”と公約していた。谷垣氏は、現在は自民
党の総裁だけで総理ではないから、公約違反とはいえないが、違和感を感じる。

民主党の菅内閣は総理以下、申し合わせたように一人も参拝しなかった。終戦記念
日に閣僚が一人も参拝しなかったのは史上初めてのこと。鳩山由起夫前総理は昨年
代表時代”私は総理になっても靖国には参拝しない。閣僚にも自粛して貰うと公言し
ていた。多分民主党では閣僚の終戦記念日の靖国参拝は一つの不文律になっている
のだろう。

小ブログ靖国神社を政治問題化するのには一貫して反対する立場をとっている。参拝
するかどうかは、個人の心の問題である、今年も超党派でつくる「みんなで靖国神社を
参拝する会」の議員41人が参拝したそうだが、参拝後、同会の代表が閣僚が参拝しな
かったことについて批判的なコメントをしていたが、これもおかしい。

靖国神社は国のために尊い命を捨てた方々を祀る神社である。その心があればなにも
終戦記念日にこだわる必要はない。むしろ神社には春と秋の例大祭があり、かえって、
この時お参りすべきである。一番大事なのは、神社と最も密接な関係がある天皇家が勅
使ではなく、ご自身で直接参拝された方が英霊も喜ばられるのではないだろうか。そのた
めに神社を始め関係筋が努力すべきである。


     空襲被害者の補償はどんなものか?

2010-08-16 05:28:57 | Weblog
戦争中米国軍の空襲で被害を受けた人たちが初の全国組織「全国空襲被害者連絡
協議会」を結成、被害者救済のための法案を年内にまとめるよう国会に働きかけると
いう。戦争が終わって65年、たしかに今まで被害者たちが国から謝罪もなく、援護も
なかったのは、おかしな話だ。

サンフランシスコ条約が発効した1952年以降、旧軍人、軍属とその遺族には総額約
50兆円の恩給や年金などが支給されてきているが、民間人の空襲被害者に対しては、
訴訟などでは”戦争で受けた損害は国民等しく我満しなければならない”という判決だ
そうである。これも矛盾した考え方である。

僕も空襲を体験し、勤労動員先で機銃掃射にもあっている。しかし幸い被害を受けてい
ない。だから空襲被害者ではないが、戦争中住んでいた家は強制疎開で壊されている。
また一人の姉も食糧難と動員による過労から結核で失っている。

戦争中の米国軍による無差別な都市空襲は「戦時国際法」違反である。だが、サンフラ
ンシスコ条約は、これに対する補償請求権を放棄している。だからというわけではないが、
戦争を知らない現在の世代に対して、そのツケをまわし、請求しようというのは、どんなも
のだろうか。

        65年前、スカルノの8月15日

2010-08-15 06:19:01 | Weblog
65回目の終戦記念日である。戦争体験世代にとって、この日にはそれぞれの思い
があるが、それは日本人に限らない。インドネシアの初代大統領スカルノにとっても
昭和20年8月15日は、独立を達成した2日後の17日とともに生涯忘れられなかった
一日であったにちがいない。 

スカルノは日本の敗戦4日前の11日、当時仏印(ベトナム)のダラトにあった南方軍
総司令部の寺内元帥に呼ばれ、日本政府が決定したインドネシア独立に関する決
定と独立までの日程表を渡された。これによると、8月18日に独立準備委員会を開
催し9月7日に独立を宣言することになっていた。

スカルノ、ハッタ、ラジマン三氏は寺内元帥と会談後、念願の独立がかない喜び勇ん
で14日ジャカルタに帰り、第25軍長野司令長官にその旨報告した。ところが、翌15日
になって日本の敗戦を告げられる。まさに青天の霹靂であった。すでに18日の独立準
備委開催の手筈も整っていた。

日本の敗戦を知り、若手グループから独立は、日本の手を離れて達成すべきだ、という
意見が出てきた。そして、これに反対するスカルノ、ハッタは16日早朝、若手グループ
によって拉致される事件まで起きた。結局、最終的にはスカルノが若手グループを説得
17日、独立宣言を発表するわけだが、文字通り”産みの苦しみ”の一日であった。

それにしても寺内元帥がスカルノらに独立を通告した11日は、すでに広島、長崎に原爆
が投下され、ポツダム宣言が受諾された後である。敗戦直前とはいえ、いかに情報が混
乱していたかが判る。


   アブダビ 交通事故が死亡原因の三位の国

2010-08-14 06:33:24 | Weblog
UAE(アラブ首長国連邦)の首都アブダビで日本の大手プラントメーカー日揮の
社員4人が交通事故にあい死亡した。痛ましい限りである。心からお悔やみ申
し上げる。僕は昨年、一昨年と2回UAEを訪れ、知人の運転する車でドバイから
隣りのシャージャ首長国まで砂漠の幹線道路を往復したが、猛スピードで行き
交う車に生きた心地がしなかった。

今回事故のあったアブダビでは、死亡原因の1位は糖尿病(甘いコーヒーのせい
?)、2位は癌、3位は交通事故だそうだ。事ほど左様にこの国では交通事故が
多い。砂漠の中を片道数車線の一直線の道路を走れば、ドライバー心理として、
追抜き車線変更をしたくなる。ドバイ、アブダビ間の高速道路の制限速度は120
㌔だが、実際は160㌔から200㌔でとばしている車が多いという。2008年には、こ
の高速道路で300台が関係する事故が発生、数十人の死傷者を出している。

1962年、僕はドバイからカタールまで小型のプロペラ機に乗り、途中アブダビの飛
行場で給油したが、管制塔だけしかなかった。検査に来た英国人の若い外交官が
”ここは文化はつる所です”と僕らに泣き言を言っていたのを想い出す。アブダビで
石油が発見されたのは1958年、アブダビ市内に初めて舗装道道が誕生したのは
僕らが訪れた前年の事だというから、まさに隔世の感がする。



       サンマの不漁 イワシの豊漁

2010-08-13 05:50:16 | Weblog
”秋の味覚”サンマが今年は高い。例年だとスーパーの目玉商品として一匹100円
で売られているのに、今年は倍の200円もする。これでは簡単に口に入らない。新聞
報道だと、今年は猛暑続きのせいか海水の表面温度まで上がり、そのせいで冷水を
好むサンマが日本近海に寄りつかず、その品不足から値段が上がっているとのことだ。

戦中の食糧難の時は、ほとんどサカナを食べた記憶がない。戦後も暫くは食糧難だっ
たが、カネを出せば食べられた。駅前の闇市では大きなイワシが、目も飛び出す高値
で売られていた。ラジオの”配給だより”では、なぜか毎日、スケソウダラの名前をいっ
ていたのを想い出す。あの時代は、イワシとスケソウダラが豊漁だったのだろうか。

今年はサンマは不漁だが、イワシは当たり年のようだ。九十九里にサーフィンに出かけ
た若者が、イワシが群遊していた、とブログで書いていた。イワシは高温の海を好むの
であろうか。僕の住む目は”サンマ”で有名だ。このままサンマの不漁が続くと今年の
サンマ祭りは開催できるかどうか心配だ。イワシが豊漁だからといって、イワシ祭りにす
るわけにはゆかない。

いずれにせよ、今は豊かな時代である。あの食糧難の時代がウソのようだ。