「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

      混乱の日イの歴史70年を生きてきた日本女性(2)

2011-06-20 12:36:49 | Weblog
ウスマン一家は厳しい監視の下で西ジャワのガルットなどの収容所を転々と移動させれたあげくバンドンの刑務所に入れられた。幼子二人を抱えての生活は極限に近く、支給される食料は粗末で,コンクリートの床にあけられた穴がトイレットだったと、長田さんは当時を回想する。

日本軍が3か所からジャワに上陸作戦を開始したのは3月1日で、1週間でたちまち連合軍を席捲。8日連合軍はカリジャティ飛行場で無条件降伏した。ウスマン一家は収容されていた刑務所から他の政治犯と一緒に脱出、一家は日本軍の第16軍の先遣隊と接触できた。長田さんの話では、そこで柳川宗成中尉と遭遇、柳川中尉は、まさか占領した異国の地で日本女性と会えたことに驚愕した、と後日語っていたという。ウスマン一家は数日、バンドンの鉄道管理局の手伝いの通訳をした後、ジャカルタへ行き知人宅に身を寄せた。  

ウスマン一家が故郷のパダンに戻ったのは5月中旬だった。第25軍軍政部が戦後編纂した「赤道標」という本の中で軍政部の副官(通訳)だった若松市太郎氏は「オランダによってベンクーレンに幽閉されていたスカルノがジャカルタ行きを希望、スマトラ出身でジャカルタにいるウスマンがパダンに戻ることを希望」と記している。

これについて長田さんは”二人の交換”と表現しているが、パダンに戻ったウスマンは第25軍の軍政顧問に迎え入れられ、引き続き7月、日本から新しく民間人の矢野兼一氏(富山県知事)が西海岸州知事として赴任した後も顧問としてとどまった。

      波乱の日イの歴史70年を生きてきた日本女性(1)

2011-06-20 05:46:06 | Weblog
大東亜戦争を挟んで日本とインドネシアの間の70余年の歴史を生きてきた長田周子(おさだ・ひろこ)さん(97歳)が、いまジャカルタから東京の長女宅に帰国中である。先週僕は二回にわたって長田さんに会う機会に恵まれ、戦中戦後の彼女が生きてきた波乱万丈の半生について聞き取り調査することが出来た。長田さんは高齢にもかかわらずかくしゃくとしていていて記憶力抜群である。

長田さんは大正3年、山梨県のかっての「多額納税者」の旧家に生まれ、戦前では珍しく日本女子大学(社会事業学部)を卒業している。昭和9年、彼女は大学のセットルメント(貧者救済)運動活動中に、たまたま蘭領インド(現在のインドネシア・スマトラ)から明治大学に留学中のマジッド・ウスマン青年と知り合い、お互いにに恋に落ち結婚した。戦前の日本では国際結婚は珍しく、南洋の住人は土人と蔑まされていた時代。いわんや田舎の素封家のお嬢さんである。長田さん結婚にはものすごい反対があった。それを押し切っての結婚であった。

長田周子さんは結婚してシティ・アミナ・ウスマンと名前を変え、夫が大学を卒業すると二人の間で生まれた子供を連れ、夫の故郷である西スマトラへ渡った。ウスマン家は西スマトラ(西海岸州)の首都パダンに近いバトゥ・サンカルのダトウ(王様)であった。西スマトラにはミナンカバゥという部族が住んでおり、女系家系の独特な伝統文化があった。長田さんは、おそらく最初のうちは、この文化の中で躊躇われたに違いない。それに宗教は彼女にはなじみの薄いイスラム教である。

こんな生活の中で昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発した。ウスマン・マジッドは蘭印政府から反オランダ民族主義者としてマークされており、まして夫人が日本人である。日本の開戦と同時に一家は逮捕され、船に乗せられジャワへ送られた。

          引き篭もり老人からの脱却法(1)

2011-06-19 07:06:55 | Weblog
一念発起、スポーツ・クラブへ通い出してから1週間経過した。左膝の痛みから外出が億劫となり、どうも昔に比べて家にいる日が多くなってきた。自転車に乗る分には痛くないのだが、歩くと10分も持たない。老妻に"散歩しなさい”といわれるのが、苦痛である。しかし、このままでは"引き篭もり”老人になること間違いなしだ。

6月10日、老妻の勧めでスポーツ・クラブへ入会した(小ブログ6月11日)。老妻のフラダンス仲間の一人が室内プールの水中歩行で膝の痛みがとれたということからであった。月1万5千円もの会費は年金中心の生活の老人には痛いが仕方がない。昨年二回の膀胱がん手術後、運動不足がたたって、スポーツ・クラブで恐る恐る体重計に載ったら、なんと90㌔を越えていて、購入した水泳パンツのLLがやっとはいける見苦しい巨体になっていた。

スポーツ・コンサルタントの指導で僕はマッサージと器械運動、それに水中歩行を組み合わせたメニュに従って毎週火、木、金の三日、1時間ほど減量運動を開始した。まずは減量からということである。長い間、手入れをしていなかった"天罰”である。たいした運動量ではないのに30分も水中歩行のレッスンを受けると息があがってしまう。

1週間を終えた成果である。初日に測ったときには、91・10㌔あった体重が90・25㌔に減っていた。膝の痛みはマッサージ直後にはなくなるが、すぐに戻ってしまう。コンサルタントの女性は3か月も続ければ大丈夫だという。僕はそれを信じて"年寄りの冷や水”といわれないようがんばってみる。そして、ときどきこのブログで成果のほどを紹介してみたい。

          大江健三郎とACジャパンのCM

2011-06-18 06:22:03 | Weblog
先日、床屋の順番待ちの間に朝日新聞に載っていた"お抱え"作家の大江健三郎の書いた随筆を読んだ。僕より5歳年下のこの作家は、最近身体機能が衰えたと書いていたが、頭のほうも弱ってきたのではないか。原稿の中で、彼は3・11大震災後のACジャパンのテレビCMから戦時中の大政翼賛会を想起すると書いていたが、この作家の悪い点は知りもしない戦時中のことを知ったかぶりして書くことだ。

大江氏は多分ACジャパンがどのような組織か知らないに違いない。また、なぜテレビ各局が震災後、視聴者から苦情が殺到するほどACジャパンのCMを流さざるをえなかったかという民放の事情を理解できていないのだ。商業放送にはステーション・ブレーキというCM枠がある、その構造を知らないだ。

大江氏は昭和10年生まれ、しかも戦争中の少年期は愛媛県の田舎(現在の内子町)で育っているから空襲体験さえない。戦争という不条理も知らないで「沖縄ノート」の中で他人の経験を自分の頭の中のものとごっちゃにして記述している。彼は戦後他人が書いた大政翼賛会を自分の体験に置き換えている。

商業放送である民放は、なにも好き好んでACジャパンのCMなんか頻繁に放送したくはない。出来れば高い値段のスポンサーつきのCMを流したいのだ。この作家は戦争にからむものは、すべて悪とし偏見に基づいてものを書いている。誰でもが戦争なんか好まない。しかし、現実には60数年前、過酷な戦争がこの国にはあった。体験もない世代がお説教まがいのことを書くべきではない。

           無責任な酒気帯び外交

2011-06-17 06:11:08 | Weblog
高橋千秋外務副大臣が東日本大震災直後の3月15日、宿直勤務なのに外郭団体の女性と都内の飲食店で酒を飲み食事をした。そして週刊誌によるとセクハラ行為をしたという。本人はセクハラは否定しているが飲酒は認め深く反省しているとのことだ。しかし、反省だけで済むものなのだろうか。明らかに酒気帯び外交である。ウイキぺデイアによると、酒を飲んで運転すると、理性、自制心が低下し、認知能力、状況判断も落ちるとある。外交だって同じである。

高橋副大臣が酒気帯びで公務についていた13日夜、枝野官房長官が突如東京電力の「計画停電」を発表、高橋副大臣が宿直明けの14日には、東京を中心とした首都圏は公共交通機関がスットプした。僕のブログは"首都圏はまるで無政府状態"と書いているが、よくこんな状況の中で公務前に女性と酒を飲む気になるものだ。無責任も甚だしい。

大震災の直後、東京の外交機関はまるで示し合わせたように、館員が日本を脱出したり、関西方面へ避難している。わが家の階下に住むアフリカの一等書記官氏も一時京都へ避難し”おたべ”をお土産に買って帰ってきた。多分、震災直後、原発事故について日本政府からきちんとした情報を外国に対して流さなかったのが原因しているようだ。

こんな無責任な酒気帯び副大臣では、外国に対する正確な情報の発信力などなかったのだろう。この結果が日本製品の輸入制限や観光客のキャンセルにつながっている。本人は責任の重大さに気がつかず"引き続き職務をまっとうしたい”といっている。親分が大震災後の復旧、復興の遅れの責任をとらず、居座りを続けているから子分までが同じである。必罰が当然である。

          超高齢者は運転免許を返上せよ!

2011-06-16 07:18:05 | Weblog
痛ましい限りである。昨日、東京の江戸川区で81歳の老人が運転する乗用車がブレーキとアクセルを踏み違えて暴走、歩道に乗り上げて通行人3人を死傷させ、本人も負傷した。高齢者の運転事故は毎年増えており、特に75歳以上の後期高齢者が運転する事故は10年前の2・2倍に増加しているという。反対者は多いと思うが、80歳を超えた老人の一人として僕は80歳以上の超高齢者は運転免許の返上を義務ずけるべきだと思う。

人によって多少個人差はあるが、後期高齢者になると誰でも心身ともに弱ってくる。僕は車の運転はしないが、日常、買物などに自転車を使用している。その自転車の運転でさえ、運動能力の衰えからか、こちらが注意していても若い人に猛スピードで追い越されると咄嗟の判断を誤ることもある。

警察庁の調べによると、昨年1年間で約6万5千人が自主的に運転免許を返上している。僕の友人、先輩もすでに免許を警察にお返ししている。東京のような都会では車がなくても日常生活には不自由はない。しかし、商売をしている人の中には車が不可欠な人がいるのも事実である。でも出来れば、今回のように自分だけでなく他人に大迷惑をかけることになる。やはり運転は中止したほうがよい。

高齢者運転者に対して今年2月から、評判の悪かった「紅葉マーク」に代わって「四つ葉マーク」をつけることに道路交通法が変更になった。「紅葉」は枯葉を連想するという反対からのようだが、幸運のシンボル「四つ葉」になっても、マークをつけなくと罰則はないという。江戸川の老人の車が「四つ葉マーク」を携行していたかどうかは知らない。かりに「四つ葉マーク」をつけていても不幸である。免許は返上すべきであった。

           落梅 近隣の絆(きずな)

2011-06-15 06:08:21 | Weblog
落梅の季節である。わが家の裏の高台にある隣家の梅の実が無惨にも舗装された道に落ち梅雨に濡れている。車に轢かれたあとなど街の美観をそこなうので、朝晩老妻が掃除をしている。隣家も先代が存命中はきちんと枝の剪定をしていたが、若い当主になってからはそれをしないので、枝が道路の上にまで延び落下してくる。通行人の頭に落ちてくると怪我をしないか心配でもある。

戦前の昭和10年代はじめに開発されたわが街も、月日の移りで住民も二代目、三代目と変ってきた。先日、近所に残っていた最後の開発当時の古家が壊された。わが家が戦争中強制疎開でこの地に来た時からあった古い建物であった。先先代までは、わが家ともお付き合いがあり、季節の届け物の交換もしていた。しかし、家が壊された後、この家で生まれた若い当主は近所に挨拶もなくどこかへ引っ越していった。

時代の移りとともに日本人の気持ちにも変化が出てきたのであろうか。結婚55年の老夫婦は、お茶を飲みながら落胆して落梅の話をしていたら、老妻が老人会で知り合いお付き合いを願っているご婦人(85歳)から電話があり”家の庭の梅の実が実ってきたので、よろしかったらどうぞ”とのお誘いである。老妻は早速お伺いし、枝をゆすって沢山頂戴してきた。(写真)

老婦人の話では、せっかく梅の実が実っても娘婿夫婦は、面倒ぐさがって梅酒や梅干造りをしないのだという。共稼ぎでは忙しくてそんな時間がないのかもしれない。どうも昔あった近所同士の絆が崩れてきたのも、こんなところに原因があるのかもしれない。寂しいことである。

       南シナ海”波高し" 南沙諸島領有権

2011-06-14 06:31:48 | Weblog
ベトナム海軍は昨日、南シナ海での海底油田探査船のケーブルを中国船が実力で切断したことに抗議して実弾演習をした。このところベトナム各地では、日曜日ごとに中国の南シナ海での不法行動に抗議して反中国デモも起きており、中越間の紛争が表面化してきている。どうも紛争の構図は昨年の尖閣諸島をめぐる中国の覇権主義に原因しているようだ。

南沙諸島(スプラトリー諸島)というと、日本ではなじみが薄いが、戦前生まれの世代は「新南群島」の名前で、日本の領土として地理で学んだ。戦後、敗戦により領有権を放棄したが、1938年(昭和13年)から45年までは、この地域でリン鉱石の開発を行ってきた。

わが国が領有権を放棄した後南沙諸島は、周辺諸国であるベトナム、フィリピン、ブルネイ、台湾、中国が互いに領有権を主張するようになった。この情勢は1970年代に入り、この水域の海底で石油資源が発見されたことにより、いっそう激しくなった。特に、覇権主義の中国は年々、海軍の力を誇示して他国の石油探査などに対して妨害行動に出て、アセアン会議でも問題視されていた。

ベトナムと中国との間には1979年、カンボジア問題をめぐって武力衝突したことがある。この"中越戦争”は1か月で終わっているが、歴史的にも領土問題で紛争の火種を抱えている。ベトナムの実弾演習に対して中国が対抗措置として、どのような行動にでるか。南沙諸島で同じく領有権を主張するフィリッピンも中国の妨害活動に抗議して28日に南シナ海で米国との合同演習を実施するという報道もある。南シナ海波高しである。

         避難所生活と町内会(隣組)組織

2011-06-13 07:01:04 | Weblog
岡山市に本拠を置く国際医療ボランティア組織「AMDA」の菅波茂理事長が昨日のNHKラジオ「深夜便」の中で東日本大震災での避難生活が組織だって円滑に運営されているのを、海外から来日した救援ボランティアが驚いている、と述べていた。菅波氏は”これは多分、日本独特の町内会組織がうまく機能しているからだ”と指摘していた。

町内会組織は、日本に昔からあった「結」(ゆい)に起源するといわれるが、日中戦争の直後、大政翼賛会の末端組織として整備され、全国的に広がりをみせた。当時小学生だった僕も「隣組のうた」(岡本一平作詞、飯田信夫作曲 昭和15年)を通じて町内会組織の活躍をよく覚えている。
                   ♯ 「隣組のうた」の三番
           とんとんとんからりんと隣組  地震かみなり 火事泥棒
           互いに役立つ用心棒 助けられたり 助けたり

この隣組組織は大東亜戦争中,日本の軍政下のインドネシアにも移植されRT(RukunTetenga)RW(Rukun Warga)として、今でも行政の下部組織、住民の親睦機関として機能しており、2004年12月のスマトラ沖巨大津波の際には救援からその後の復旧復興活動に役立ったと、インドネシア側の資料にも記述されている。

残念ながら、日本の「隣組」は戦後連合軍によって全体主義に通ずるとして解体され、その後復活されたが、都会では団地など集合住宅が増えて「隣組」本来の機能が失われてきたところが多い。しかし、今回の大震災によって、はからずも「結」(ゆい)の大切さが再確認される結果となった。

           仮設住宅は完成しても!

2011-06-12 06:38:36 | Weblog
被災地での仮設住宅への入居率が僅か40%だという。”8月のお盆までに全部作る”とい約束した菅総理だが、震災から3か月経過したというのに、完成したのは6万1千戸の必要戸数に対してやっと半分の3万戸である。それより問題なのは約束どおり完成しても被災者が入居を望まなければ意味がない。

極端に仮設住宅への入居率が低いのは宮城県南三陸町で、巨大津波で壊滅状態の被害を受け、用地難をおして仮設住宅をいち早く建設したのに、70%の町民が入居を希望していないとのこと。様々な理由があるようだが、第一の理由は今住んでいる避難所を出ると、食物など支援物資が支給されなくなり、光熱費などが自己負担になるからだという。

巨大津波で町民は住んでいた住居だけでなく、生活基盤まで失ってしまった。これに対して義援金や補償金は依然、被災者の手に届いていないようだ。これでは被災者は、仮設住宅に移りたくと移れない。

ひとりよがりの使命感に燃えて菅総理は、昨日、被災地を再度視察したが、わが家で購読している新聞は一行も報道していない。ことほど左様に、菅総理の下では、復旧も復興も前に進まない。仮設住宅に入りたくとも入れない被災者の現状などおそらく菅総理の目には入っていないし、耳にも届いていないのだろう。仮設住宅が完成するお盆を、退陣の一つのメドにされているようだが、被災者が入居を拒みそのまま避難所生活を望めば、どうなるのだろうかー。