「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

半日仕事 老人の国立病院への通院

2018-04-12 05:35:04 | 2012・1・1
昨日は年に4回の大腸がんの事後チェックの日であった。血液検査の結果は腫瘍マーカー(CEA,CA19-9)の安全値内で、ほっと胸をなでおろした。しかし、80歳半ばを過ぎると、一人だけの通院は一苦労であるのを痛感した。いつもは同行してくれる老妻が、来客があって付き添って貰えぬため、一人で杖をつきバスに乗り、診断予定の午前11時半の30分前に病院へ到着した。ところが、採血室が混雑して1時間待ち。さらに、僕の腕は左右とも採血しにくいらしく専門の看護師の採血に回された。その結果、医師の診断が終わったのは午後2時半過ぎ、まさに半日仕事だ。

国立病院は年度末過ぎなのか模様替えしていた。老人にはこれが対応できず、案内所の女性に聞いたところ、僕の聞き方が悪かったのか、”私は最近ここに移ってきた”との答え。病院正面1回の案内所である。一番困ったのは、新しくなった自動支払い機である。若い人には何でもないのだろうが、目も悪くなっている僕には大仕事だ。マゴマゴしていたら、後ろの行列待ちの60代とみられる男から大声で怒鳴られた。

支払いの順番を待って椅子に腰かけて周囲を見渡すと、患者はほとんど年寄りばかりだが、僕みたいな単身はすくない。誰か付き添いがいて患者は車イスに乗せれている。まさに今の日本社会の縮図を見るみたいだ。僕の場合は大腸がんのほか、5年目に入った膀胱がんと左膝の人工関節の事後チェックもある。自分ではもう大丈夫だとは思うのだが、やはり可能な限りは通院せざるをえない。

”消えかかった”僕の年金 日本年金機構からの謝罪

2018-04-11 05:26:34 | 2012・1・1
”消えた年金“以来、僕には不信がちな日本年金機構から“時下ますますご御清祥”のきまり文句で始まる文書が届いた。日本年金機構からあまり、”御清祥“と言われるスジあいはないのだがと読んでみたら、やはりそうだった。僕の2月15日に支払うべき年金が扶養家族等申告書の処理のミスから”高い”徴収税金を源泉徴収してしまったという詫びの文書である。僕は新聞で年金機構が、中国の業者のコンピューターの入力ミスで全国で10万人が被害にあったという記事をよんでいたが、まさか自分がその一人とは思ってもいなかった。

詫び文書によると、”末筆ながら”の断り書きで”源泉徴収しすぎた徴収税額は3月15日にお返しており、金額については別途送付しております振り込み通知書をご確認ください”と書いてあるが、僕にも老妻にもその記憶がない。あわてて書保存類を見直してみたら、4月15日支払い予定通知の中に書いてあった。これでは老人にはわかりにくい。今年は4月15日は日曜日なので13日の金曜日に支払い額を確かめてみよう。

詫び文書は”今後同様な事案を二度と発生させないよう再発防止に取り組む”と書いてあるが、社会保険庁時代から、何度も同じ言葉を聞いている。国民の大切な年金に関する業務をなぜ、外国の下請け業者に委託するのか。テレビの報道番組で、今回の入力ミスについて反省会をひらくそうだが、いまだに社会保険庁時代のお役所仕事が残っているのであろうか。「森友」「加計」「日報」あいつぐ行政への不信、日本人のどこかタガが緩み始めたのではないか。

今日は「女性の日」だそうだが

2018-04-10 05:44:12 | 2012・1・1
今日4月10日は「女性の日」である。昭和21年(1946年)4月10日、女性がが初めて参政権を得て39人の衆院銀員が誕生、これを記念して労働省(現在の厚労省)が24年に制定された。当初は「婦人の日」だったが、平成10年,現在の「女性の日」に改名された。しかし、どれだけの日本人が「女性の日」について知っているだろうか。今朝のNHKの早朝コーナー”今朝は何の日”でも紹介はなかった。

今年は「女性」について注目が集まっている。大相撲の舞鶴巡業の土俵の上で、市長が倒れ、救命に駆け付けた女性に対して、相撲協会が早く降りろと場内アナウンスした。これをめぐって是非の意見がマスメデイアをにぎわあせた。ついで宝塚市の巡業では、女性市長が相撲協会から土俵上での挨拶を協会から断られ、土俵の下から”伝統という理由で女性を土俵に上げさせないとはけしからん”と挨拶した。

僕ら昭和1ケタ世代は女性に対する蔑視が強かった戦前日本人の最後の世代である。しかし、その最後の世代からみても今時、伝統だからという理由で女性を土俵に上げないのはおかしい。いわんや人命に関する緊急時のことである。今年の「女性の日」には、もっと反対世論が高まるのではと思っていたが、あまりそうでもなさそうだ。

それよりも僕が驚いたのは、ネット情報で我が国の女性国会議員の比率が世界193か国中163位という低さだ。かって、戦後一番強くなったのは女性と靴下だと揶揄して言われた時代があったが意外である。女性の政界進出に関する限り、途上国なのである。女性が参政権を得た第一回選挙の記録は72年たった今もまだ破られていない。

季節の移り変わり 老人の独り言

2018-04-09 04:50:34 | 2012・1・1
季節の移り変わりは早いものだ。つい先日満開だった近所の呑川緑道(目黒)の染井吉野はいつの間にか葉桜とまり、代わって今、八重桜が咲き誇っている。バス通りの歩道脇のツツジまで咲き始めた。この晩春をカメラに収めブログで紹介しようとしたが出来ず、やっと一枚、小手毬だけが偶然できた。(写真)

先日、7年間使用したパソコンの機器を買い換えた。老体と同じように色々とガタが出始め故障がちとなり、子供たちからも新品を買うよう勧められてきた。やっと、孫がネットで格安品を取り寄せ、勤めの合間をみて取り付けてくれた。しかし、80老の悲しさ、新品に馴染めない。従来のPCにはカメラのSDカードの直接の取り付け口があったが新品にはない。何とかという部品を買い求め、やり方を教わったがいまだに頭に入らない。

新品は新品だけあって、従来の機器にはなかった便利なアプリがあり、若い世代には便利なのだろう。しかし、メールのやり取りとブログで目いっぱいの老人には宝のもちぐされに過ぎない。でも気分的に助かるのは、これまでは年に数回ダウンして修理店にでかけていたのが、すまずにすみそうなことだ。修理店行きは、老人にとっては、ガン検診を受けに行くようなものだった。何事もプラス思考。PCの買い替えも年寄にっは経済的負担だが、一つの延命策。新しいアプリに挑戦するのもボケ防止かもしれない。

ハバロフスク ラララ ハバロフスク  ロシアの不誠実

2018-04-08 06:15:08 | 2012・1・1
厚労省のホームページにロシアから提供された資料を基に戦後捕虜として旧ソ連地区に抑留中死亡した57万5000人のうちの一部550人の新しい名簿が公表されている。昨日の新聞に、そのカタカナ書きの名前が掲載されているのを見て、戦後70余り年経っているのにいまだに、こうして小出しに犠牲者の名前を発表しているロシアの不誠実な態度に驚きを越して怒りを感じる。

発表された名簿を地域別にみると、シベリアのハバロフスクが一番多い。ハバロフスクがどこなのか僕にはピンポイント出来ないが、戦後すぐの昭和20年代、ラジオの「のど自慢」番組から”ハバロフスク ラララ ハバロフスク”で始まる「ハバロフスク小唄」を思いだす。同じシベリア抑留を扱った「異国の丘」の哀調あるメロデイとともに国民の心を打ったものだ。

半世紀以上も前のことだから若い世代の中には、シベリア抑留のあったことさえ知らない者が出てきた。「ハバロフスク小唄」を歌った僕ら世代でさえ、シベリア抑留は、はるか遠い過去のことになりかけ始めている。しかし、ロシアがこの問題で謝罪したのは1994年、死亡者の名簿を発表しはじめたのは2003年である。善意に考えれば国民性の違いである。しかし、謝罪してからでも24年の歳月が流れている。

安倍総理は、自分たちの世代で日ロ問題を解決したいといい、プーチン大統領と20回も首脳会談をしている。先年、シベリア訪問のさいは慰霊碑にも参拝している。北方領土問題とは別である。国民性の違いだけではない。抑留者死亡者発表のやり方は姑息で、誠意があるとは思えない。安倍総理は抗議すべきである。





”働き方法案“ ザル法への懸念

2018-04-07 07:04:00 | 2012・1・1
残業時間の制限などを盛り込んだ働き方法案”が昨日、閣議決定され国会へ上程された。骨子の一つは 残業時間に上限を設け、原則月45時間、年360時間とし、企業がこれに違反すれば罰則を課すというもの。もう一つは、高年収の専門職(高プロ)制度を設け、この時間規制から外すというものだ。これを見て、世論の期待にに反するかもしれないが、ザル法への疑念をもった。

特異の例かも知れないが、僕の現役時代は、労働k基準法に反する労働の連続だった。昭和28年、学校を出て新聞社の地方支局に勤務したが、支局は下宿の一室で、部屋代はいらなかったが24時間勤務で残業代はゼロであった。記者職という性質上、休日出勤もあったが、特別手当を貰ったことはない。完全な労基法違反行為である。東京本社の仕事も大同小異で、会社側は残業代を頭打ちにしていたが、特に問題にはしなかった。仕事が国際ニュースということもあって宿直勤務が多かったが、これも厳密には労基法違反ではないのだろうか。

マスコミの仕事を50歳で辞めて国際交流の仕事を約10年間、派遣社員として勤務した。これも勤務時間が不規則で、時には24時間勤務に近いこともあったが、残業時間はなかった。「働き方法案」による「高プロ」制度に野党は反対しているようだが、世の中にはいろんな職種がある。それよりも僕が体験上心配しているのは、厚労省東京労働局長のマスコミ関係者に対する”なんなら、皆様の会社に行って(労基法違反)の是正勧告をしてもよい”という意味深長な発言である。局長は”働き法案”のザル法を見越しての発言としか思えない。問題は現実に即した法案であり実施である。

放置されている政府建立の戦没者慰霊碑

2018-04-06 05:19:18 | 2012・1・1
インドネシア西パプア州の首都マノクワリに8年半の間、台座から落ち放置されたままだった戦没者慰霊碑が復旧されたという朝日新聞(4月4日付け夕刊)の記事を友人がネットで送ってくれた。マノクワリは先の戦争中、極悪なジャングルの中の転戦命令で2万人もの日本軍将兵が命を落としている地だ。2003年、僕は有志のご協力で「南方各地慰霊碑一覧」を出版したが、これによると、マノクワリには1956年政府遺骨収集団が訪れた際、サンゲン岬に建てたが、悪環境のため移転とある。多分、移転のさい台座を据えたものだろう。マノクワリには第35師団221連隊戦友会が1990年に現地と管理契約を結んで建立しているが、現状はどうなのだろうか。

今回の慰霊碑復旧は朝日新聞の指摘により、厚労省が行ったものようだが、朝日の記事によると、1953年から56年までの3年間、太平洋各地の島々に遺骨収集に派遣、そのさい21か所に慰霊碑を建てている。僕らが編纂した慰霊碑一覧のPNG(パプア.ニューギニア)だけでも1955年2月ー3月ラブウル、、ブナ、ウエワク、アイダべなど7か所に建立した記録がある。短期間の滞在のため、日本から運んだ簡単な石碑が多いが、中には英語の碑文のスペルが間違っているのもある。

厚労省はこれら海外の慰霊碑について、民間が建立して現地での管理ができないものに対しては処理する方針のようで、数年前、知人(100歳)がカリマンタンの華人に永久管理費を支払い保存してもらっている碑が杜撰な調査で壊されかかった。慰霊碑は僻地が多く、管理が大変である。しかし、8年半の間、台座がら落ちて放置されていても平気ななのは尋常ではない。政府が建てた慰霊碑だけでも現状を調査してはどうか。
(写真左はPNG政府建立ノ碑 右はマノクワリ221戦友会建立の碑)

今、なんで「カジノ」法案なのか

2018-04-05 05:35:52 | 2012・1・1
「森友」についで今度はイラク派遣日報をめぐる防衛省の杜撰さが露出した。意識的な忖度なのか、それとも本当に間が抜けているのか信じられない。しかし、国会ではあまり問題にはならないらしく、自公与党政権は、予定どおり今国会に「カジノ」(統合型リゾート施設)法案を上程し、可決する運びらしい。自公間でもめていた入場料金も6000円でメドがついたとのこと。80歳半ばをすぎてギャンブルにはあまり関心がないのだが、「北」の問題など内外に問題山積なのに心配だ。

公営ギャンブル花盛りだった昭和20年代後半から40年代にかけて、僕も競馬、競輪、オート、競艇にはまり、北海道在勤中は「ばんえい競馬」(輓馬)にまで手を出したことがあったが、最近はファンの高齢化と趣味の多様性から、公営ギャンブルはジリ状態で、主催していた自治体中には、手を引くところも出てきたのに今、なぜカジノなのだろうか。

競輪が始まったのは、まだ町に焼け跡が残っていた昭和23年だが、たちまち庶民の人気になり、これにこって競輪が犯罪の温床だと批判された。無頼派作家、坂口安吾らがもてはやされていた時代だ。覚醒剤のヒロポンが流行し社会問題化したのもこの時代であった。戦後のあの混乱期とは違うが、賭博は人間の本能である。カジノによって、どれだけの税収になるのか寡聞にして知らないが、公営ギャンブルはもう十分なような気がするのだが。政治への不信が高まっている時だけに上程は見送るべきだ。




“撃ちてし止まん” 75年前、中学に入学した時代

2018-04-04 06:27:20 | 2012・1・1
昨日、すでに葉桜となってしまった近くの自由が丘の”桜まつり”を旧友二人と見物しながらカフェーで昼食を共にした。ぼくら三人は75年前の昭和18年4月5日旧制中学の校門をくぐった仲だが、三人とも禿頭白髪、かっての”紅顔の美少年”の面影はない。しかし、多少、耳は遠くなったとはいうものの、元気に来し方、行く末を語りあい、素直に長寿を祝った。
 
亡父の日記によると、この年は異常に寒い年で、東京では4月3日に桜が咲いている。中学への初登校は5日と記されているが三人とも入学式の記憶がない。当時、東京では中学の入学試験には筆記試験がなく、懸垂などの体力試験と口頭試問だったが、競争率は3倍近くあった。見事難関を突破したのだから入学式は記憶にあってよいはずなのだが。理由は3人ともわからないが、多分、時代は”撃ちてし止まん”(18年3月発表)で、式どころではなかったのであろうか。

振り返ってみると、18年という年は、緒戦の大勝利に陰りが出てきた。その象徴ともいうべき事件が、僕らが入学して間もなくの山本五十六連合艦隊司令長官の南方の前線での痛ましい戦死であった(4月13日)元帥の戦死は1か月近く秘匿され、6月になって日比谷公園で国葬が行われた。5月12日から15日まで連続4日間、東京ではアラスカ.アリューシャン列島のアッツ島への米軍逆上陸に併せてか警戒警報のサイレンが鳴っている。5月31日の亡父の日記には、アッツ島守備隊の玉砕㋨報を受けて父は”二千余り壮烈な英霊に合掌、飲んでいた配給のビールの酔いも醒めて憂鬱の気になる”と記している。

戦局は日を追うごとに悪化、僕ら中学生にも動員令が下り、学業を捨てて軍需工場で旋盤を回したり、線路工夫になったりして3年生の20年8月15日敗戦を迎えた。波乱の時代であった。











「神武天皇祭」忘れられた皇室の歴史儀式

2018-04-03 04:59:28 | 2012・1・1
今日4月3日は戦前まで「神武天皇祭」という国の祭日であった。初代の神武天皇が崩御された日である。皇室の儀式を中心に制定された戦前の祭日は戦後改正されて今ではほとんどの日本人が知らない。しかし、僕ら80歳以上の老人にとっては「神嘗祭」(かんなめさい)「新嘗祭」(にいなめさい)などの祭日とともに懐かしい。

先日、来年に予定される天皇陛下の譲位と皇太子殿下の即位についての基本方針が決まり、「大嘗祭」(だいじょうさい)が11月14,15日に行われることになった。戦前「神嘗祭」「新嘗祭」の名前に馴染んでいる僕ら世代はなんとはなく理解できるが、「大嘗祭」は、天皇が即位後初めての「新嘗祭」で、天皇家にとって皇位継承の重要な儀式とのことだ。

民主党政権時代に自民党の山谷えり子議員が国会で当時の枝野幸男官房長官に今上天皇は第何代かと質問を受け答えられなかった。戦前、歴代の天皇の、名前を”ジンム、スイゼイ、イトク、コウショウ、コウアン、コウレイ、コウゲン、カイカ、スウジンーと丸暗記させられた僕ら世代にとっては極端な皇室主義には抵抗があるが、憲法で、国の”象徴”と定められている天皇について、国民の知識が薄すぎる感じがする。

今では一般用語化されている「金鵄勲章」という言葉も皇室の歴史を知らなければ理解できない。戦後の行き過ぎた教育の中で、綿々と続く世界にも誇れる皇室の歴史、儀式が”民主主義”の名の下に軽視され過ぎている感じがするが、どうだろうか。