今、東京のホテルにいます。昨夜は新幹線に乗って東京の九段下で開催された「杉田水脈衆議院議員」の講演会に参加しました。詳しくは現状の杉田議員の安全を考えると書けないでいます。
しかし、私自身、この今までにない「言論の自由」に強く圧力がかかっているのを肌で感じます。
今から新幹線に乗って関西に帰るのですが、ためいきと強い憤りを強く思います。また今回の騒ぎは「杉田議員」潰しが明らかであり、反日の国内は勿論、国際勢力も考えられるのではないか・・・ここまでが私の推測であり、皆さまもお感じのことと思います。
私はなにげなく反日思考に染まってしまった(私など足元にも及ばないような)超インテリの女性たちと、地元で何日もかけて杉田議員のことを誤解であることを説明し、さすがインテリ女性たち、何と!!すぐにナットクされたのです。「マスコミのいうことが正しいとは言えないわねえ」って!!
ついでに「乃木希典は戦争が下手だったってね」と違う話も出たので、「司馬史観」について少し説明するとそれはなかなか・・・これは医師である「西村正」氏の本のページをコピーして説明しないといけないと思いました。文学作品と歴史書がゴチャゴチャになっていることなど、説明しましたが、このことはついでだったので次から時間をかけて説明。
これは杉田議員個人への執拗な攻撃、とだけとらえてはならない・・・今はこれだけ書きます。
杉田水脈議員はお元気で颯爽とされていました。それにしても私は絶対に今回の理不尽な攻撃を許しません。
そうそう、有〇香という評論家?が、思いっきり上から目線でツイートしていましたっけ。
タイミングのせいで誤解されているが、新潮45の休刊は商業的に成り立たないことが最大の理由。一方Hanadaは完売続きで、新潮45の何倍も売れている。その2誌の違いもわからないのに、ただ傲慢なこと言う書き手が連載もっていた45からの原稿依頼を、私はお断りしといて正解だったと今つくづく思う。
雑誌は売れてナンボです。当たり前の話。そして方向性が似ているように見えても、売れている雑誌と売れない雑誌にははっきりと違いがあります。プロならその違いは容易に分かるはずなんだが。(以上)
あははは・・・このお偉い女性にコメントしておいた。「東京ではHANADAは完売なんですか?」と一言だけ。だって関西の大型書店ではたくさん積んでいますもの。私はHANADAもWILLもよほど読みたい記事がない限り購入しないし、買ってもすぐに処分していたことが多い。だって「ホシュ風味」のプロパガンダにおカネを払う気はないし。
ネットで下記のような記事を見たので転載しました。
『新潮45』休刊に異議あり
9月25日夕刻、『新潮45』の休刊ニュースを聞いて、正直、驚いてしまった。どんな圧力にも屈しなかった新潮社がこれほど脆弱(ぜいじゃく)な会社になってしまったのか、と新潮社OBとして信じられない思いだ。(以下続く)
新潮45は、8月号で自民党の杉田水脈氏の『「LGBT」支援の度が過ぎる』という論文を掲載し、国が「LGBT」支援を意識し過ぎており、少子化への対策その他がおろそかになっている実態を痛烈に告発した。
その中に、同性愛者について「生産性がない」と非難していると誤解される表現があったことから、各方面から批判が巻き起こっていた。
これは、一部の「言葉」や「文章」を引っ張り出して来てそれを論難する、一種の“ストローマン手法”と言える。ツイッター全盛時代の今、論文全体を読むことなく、一部を取り出して非難して騒ぎを拡大していく「炎上」による方法は、一部の勢力が得意とするものである。
新潮45は10月号で「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」と題した特集を組んで、これに反撃した。いかにも、世間からの批判を「真っ向から受けて立つ」新潮社らしい編集方針である。
その中には、文芸評論家の小川榮太郎氏が得意の逆説的、かつ皮肉を交えた難解な表現による論文『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』が掲載されていた。
これが、さらなる誤解を生んだと言えるだろうが、私は、もっと諧謔(かいぎゃく)的な表現方法で書けばいいのに、と思ったが、それが文芸評論家たる小川氏の持ち味であり、それを「買っている」からこその編集部の執筆依頼だったのだろう。
いずれにしても、賛否両論を巻き起こすことを承知の上での編集だったわけである。しかし、これへの非難に対して、新潮社の社長が9月21日付けで「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」があった、と認める声明を出してしまった。
「社長がなぜ?」――さすがに、これを知って私は絶句してしまった。出版社の社長が、いちいち編集問題について、外部に対して自らの見解を表明することなど、「厳に慎むべきこと」だからだ。やりたければ、「外部」に対してではなく「内部」でやればいいことである。
今から21年前、神戸の酒鬼薔薇事件でFOCUSが少年の顔写真を掲載して新潮社が“総バッシング状態”に陥った時も、児童文学作家の灰谷健次郎氏をはじめ、作家が作品を新潮社から引き上げる騒動に発展したことがある。
だが、新潮社は一貫して「超然」としていた。編集出身の人間が会社を牛耳っており、言論や表現の自由は、それ自体が民主主義国家の「根本」であり、たとえ反対する人間や政治勢力が大きかろうと、それをどこまでも守らなければならない「毅然とした姿勢」が会社を支配していたからだ。
しかし、今の新潮社には、おそらくその“根本”がなくなったのだろう。当時も、今も、社長は同じ佐藤隆信氏なのに、一体、どうなってしまったのか。
これから新潮社社内に「萎縮」という名の絶対にあってはならない空気が蔓延するだろう。それは、圧力をものともしない日本の一方のジャーナリズムの「衰退」をも意味することになる。あまりに残念な事態というほかない。http://blogos.com/article/327447/
ブログのティールーム
本日はヴェルディ作曲「シモン・ボッカネグラ」より、最高の名場面をどうぞ。
実在した歴史的人物で、イタリアの都市国家の時代、総督シモン・ボッカネグラは議場で二つに分かれて争う現状に力を合わせてジェノヴァを愛し盛り立てることを説く場面です。(この中にパオロという裏切り者がいます。シモンはパオロだけに分かるように裏切り者に呪いを、と言います。会場全員の唱和の中、パオロは自分自身に呪いをかけてしまうのでした)
Giuseppe Verdi:SIMON BOCCANEGRA Muti Roma
Simon Boccanegra: George Petean
Maria Boccanegra (Amelia): Maria Agresta
Jacopo Fiesco: Dmitri Beloselskiy
Gabriele Adorno: Francesco Meli
Paolo Albiani: Quinn Kelsey
Pietro: Riccardo Zanellato