ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

フレーニ、そして最近の読書、フラグスタートと二ルソンの自伝

2015年04月23日 | オペラ

★ ミレッラ・フレーニ、カラヤンの指揮で歌う。プッチーニ「ボエーム」~私の名はミミ
Mirella Freni H V Karajan "mi chiamano Mimi"

・・・フレーニの歌も初々しいころだったが、あのカラヤンの優雅な指揮に注目。
二ルソンに対するときのカラヤンとは違うようだ。



最近往年の名ソプラノ、フラグスタート、二ルソンの自伝を取り寄せて読んだ。
両ソプラノは20世紀に君臨した偉大な芸術家であったが、特にフラグスタートはワーグナーを歌った比類ない歌手であり、また政治情勢に巻き込まれて誤解されたことを綴っていた。

二ルソンの自伝はフラグスタートの時代より後になるが、名指揮者カラヤンやあのフランコ・コレッリとの「声の果し合い」が興味深い。このことはまた次回に書きたいと思っている。

私は二ルソンのゲネプロでの練習や実演を何度か見ただけに、フラグスタートよりも二ルソンに親近感を覚えるが、フラグスタートはワーグナーを歌って理想的なソプラノであったのがよくわかる。
戦後、フラグスタートの夫君が親ナチの疑いがあったと誤解された中で、満場の聴衆の敵意を受けたフラグスタートは自分の歌で逆転しようとして奇跡的な熱狂をさせるが、マスコミは全く逆のことを書いた、など。

また二ルソンの硬質のダイアモンドのような声は得難い。
二ルソンがここに至るまでの声楽修行の悩みも切々と書かれていた。
フラグスタートはノルウエー、二ルソンはスウエーデン、共に北欧出身の名歌手。

歌う曲は、ワーグナー「ヴェーゼンドンクの5つの歌」~悩み

★ キルステン・フラグスタート
Kirsten Flagstad sings Wagner - "Schmerzen"


★ ビルギット・二ルソン
Birgit Nilsson Richard Wagner - Schmerzen - Wesendonck-Lieder





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ビルギット・二ルソン (Ken)
2015-04-24 05:19:35
わたしが理想とする歌手のひとりにビルギット・ニルソンがいます。オペラの響きはこうでないといけない、という偉大な響きです。そうはいっても響きというのは時間をかけて学ぶべきもので、たとえば呼吸法のことを学ばず、響きだけを追いかけても難しい。
でもいちばんゆゆしきことはこういうダイヤモンドの響きを劇場も聴衆も歌手も教師も求めなくなったことですね。

アウグスティヌスは真の信仰はダイヤモンドのようなものと述べていました、たしかにガラスは色とりどりな色彩で目を楽しませるが、ほんとうの信仰は純粋でもっと硬くあるべきものだと。現代はガラスの声の時代、でしょうか、、、。

それにしても二ルソンの実演だけでなくリハーサルも聴けたなんて何という素晴らしいことなのでしょう!

フラグスタートも大好きな歌手です、たとえばブリュンヒルデ役でいうと、二ルソンの神そのものの役作りに対し、人間的でチャーミングなブリュンヒルデですね。温かみのある声がにおい立つような歌手です。
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ふたりの歴史的な名ソプラノ (Kenさまへ)
2015-04-24 11:00:47
アプリーレ・ミッロは「フラグスタートのパイプオルガンの響きを思わせるような声が好き」と言っていましたが、
フラグスタートは若いころ、エミー・デスティンを聴いて
大きな影響を受けたとききます。
またピアニストのルービンスタインもデスティンの歌を
聴きに行って、自分のピアノ演奏が変わったと言っていました。

デスティンは20世紀初めにメットでトスカニーニの指揮、カルーソやアマートと共演、その全盛期に第一次大戦でプリマの地位を捨ててボヘミアに戻り、ドヴォルザークやスメタナのアリアを歌い、投獄されたりしたことも。そしてヨーロッパでワーグナーを歌い、その時に
若い演奏家に大きな影響を与えたようです。

フラグスタートはデスティンを、二ルソンはフラグスタートを、音楽家の系譜のように感じます。

二ルソンは声楽教師に恵まれず、発声も悩みながら
自分で決めていったようです。
また、他の名歌手や指揮者との共演からも学んでいったそうですが、コレッリとの声の対決にはスリリングなものを感じました。

実演は何度か聴きましたが、「満堂の声」というのは
オーケストラの上をいき、さらに余裕を感じさせました。
しかしリハーサルではGあたりの音の上はすべて
口パクで、本番前に用心していたようです。
二ルソンやシミオナートは、呼吸法が抜群だったと
感じます。どこでどうして息をしているのかわからないほど自然で、その声の豊かな響きはいつまでも忘れることはできません。

ショルティがその巧みなピアノで、二ルソンの歌の
練習をリードしているのは、二ルソンにとって幸運で
あり、ショルティは、歌手を育てるのも上手かったと思いました。
昔、テレビで海外フイルムを録画した番組で、ショルティのピアノ伴奏で打ち合わせをする歌手たちの様子を見ました。その中に二ルソンもいましたが、素晴らしかった。

今はドラマティックな声が取り入れられないのは、指揮者や演出家が歌手を将棋のコマ扱いにする狭さと思い上がりを感じます。

そして有名歌劇場が「観光客」で常に埋まったこと。
地元のファンが育てる、という伝統が失われました。
しかし、日本の演奏家は堅実にレパートリーを持ち、
信頼を得て活躍できるように思いますが、問題は
とりあげ方です。

NHK好みの軽い芸人のような歌手を取り立てるのは
だめです。本物を見つけなきゃ、たとえばKenさまの
ような勉強した歌い手を、です。
二期会も同じです。
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