Claudio Abbado "Hungarian Dance No 1" Brahms
イタリアの指揮者、クラウディオ・アッバード。
ブラームスの『ハンガリー舞曲 第一番』
★ 佐伯啓思教授『学問の力』(ちくま文庫)を読んでいた。
そのなかで感動を得た言葉
・結局、われわれは文化の語法の中で生きている。そして知識は、読んだとか読んでいないという次元とは違うレべルで、さまざまな経験の積み重ねの中で刷り込まれるかのように、われわれのなかの無意識のレベルに蓄積されていくものである、と。
それが、さきほどの感受性といった問題につながってくるのです。
・あらゆる人が普遍的に実現すべき至上の価値だと考えるのではなくて、多くの人がそのなかで生活していくための基本的な枠組みだと考える。
自由や民主主義は、それによって、人々が共同して何か優れたものを作り出し、できるだけ良い生活をするための条件なのです。
・しかも、自由や民主主義は、普遍的な価値という言葉で表現されるのではなくて、自由や民主主義にあたるものはそれぞれの文化のなかで、あるいはそれぞれの社会の歴史や形式のなかで表現されるものであると考える。
・こう考えると、その社会がもっている文化的な遺産やらその社会がもっている古典のなかに、われわれの生き方や規範についての重要なヒントがあるだろうと思えるのです。
伝統とか習慣に対する敬意がどの社会にでもある。
どんなに伝統を失い、習慣が攻撃され破棄されている社会でも、最低限の伝統や習慣は必ずあります。ほとんどは無意識のうちにそれに従っているので、あまり意識されないだけです。
・こういうものに対する敬意を、私は『自由とは何か』という本の中で「義」と表現しました。
ある社会が歴史的に大事に保持してきた価値に敬意を表して、そういう価値に対して、自分を
投げ出すという態度を「義」としたのです。
この「義」というのは、あらゆる社会にあるはずなのです。(以上、佐伯教授)
★ クラウディオ・アッバードのドイツ音楽の指揮は、「イタリア語」のように聴こえるのです。
オペラや声楽曲のように「歌詞」はありませんが、これは「文化の語法」でしょう。
無意識でしょうけれど。