ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

2011年 バイロイト音楽祭 ワーグナー「ローエングリン」演出について諸説あり

2011年08月19日 | オペラ

このごろ、栄養ドリンクを飲んでいる。
あんな不快で無礼なコメント、これから「コメント承認制」に戻そうかなと思ったりしている。
N(妖怪のHN)は、「自分はコメントしたのに排除した、これではかの国(共産圏か?)と同じではないか」と激しい抗議コメントが来たので、私は見たことも消した覚えもなく、コメントボックスも探したけれどなかった、よければ内容を教えてほしいとリコメした。

Nは、「探して頂いたことを感謝する、排除されたと思って語気が荒くなった」として、「少ししか見ていないのに、批判するとは何事か、映画でも少し見ただけで批評を書く批評家もいるが」と前置きし、あの公演が素晴らしかったと説明。

多分、コメント書いてクリックし忘れだろう、と思うが、謝罪の言葉はない。
いきなり詰問である。

しかし、私はあの演出がホラーのように怖かったこと、私は怖がりであり、昔、ワーグナーのオペラに接した素晴らしい公演とは違う(これは仕方ないが)、たとえばワーグナーの孫、ヴィーラント・ワーグナーが演出した「トリスタン」など、「能」の舞台に魅せられて、オペラのステージは光と影だけで、ほとんど舞台装置がなく、音楽に集中できた見事さなどを語った。
そして私が少女時代に見た「ローエングリン」は大変感動し、美しかったこと、聖杯の騎士パルジファルの息子であるローエングリンは不老不死の身、しかし乙女エルザは人間であり、ローエングリンは名前もどこから来たのかも一切問わないことをエルザに約束させたこと、しかし人間のエルザは「疑い」を持つとそれがますます広がり、私は女性が一方的に、何も問わず、信頼だけ要求されることに同情してしまったこと・・・おおざっぱだけれどそのように書いた。
Nは「美しい」ということをせせら笑い、料理をひと匙食べてマズイと言う、どんなよい食材かも知らずに、などと押しつけがましく書いていた。
私はこの書き方に「それは勘だ」と書いた。
すると「論理的ではない、勘とか持ち出して。このオペラを理解していない、美しいとか・・やはり残念でした」とリコメ。
私が「勘だ」というのは、数多くのオペラを聴いてきたし、その「勘」はかなり自信がある、あなたの書き方が「論理的」だとはとても思えない、時間の無駄だ、と答えた。

感じ方は人生が違うようにひとそれぞれだろう。
また、かつての正統的な素晴らしい演出を見てからそれを言っているのか・・・多分そうではないと思う。

私は素晴らしい正統的なワーグナーの演出を知っているし、ニルソンやホッターという20世紀最高の名歌手のワーグナーを聴いている。それを知らずして、こんな威圧的な物言いは思い上がりもはなはだしい!
ワーグナーを論じるのに、こんな礼儀知らずで、最初から「私のコメントを排除した」と自分の操作ミスを考えもせず、攻撃的に書いてきた時に、「この人とは話はできないだろう」という予感はあった。それは的中した。

私は、オペラでも本でも、ただの話でも、大変な欠陥を自認している。
「怖い場面は気絶するほどダメ」なのだ。
これを説明する時、たまらないほど情けない。
このことも、恥ずかしながら告白している。

ピンクのウサギと思ったが、あれは鼠だったそうだ。そしてオペラの終わりには胎児が出現、これは写真で見て、それでテレビを消したのだ。
自分で本当に情けない・・・。
でも「ローエングリン」になぜこのような演出が必要なのか・・・。
これを100パーセントの人が受け入れたわけではないはずだ。

劇場では聴衆は2つにわかれたとある。
しかし、日本の報道ではそうは書かれていない。(何の意図か・・・)

かつて、バイロイトはヴィーラントの死後は、パトリス・シェローというフランス系の演出家が前衛的ともいえる演出をして、客席は怒号とブラボーにわかれたと当時は報道されていた。

この頃から、演出家の権威が増し、歌手や指揮者よりも演出家の意見が強いともきいていたし、名歌手カップッチッリや、ワーグナーを歌って20世紀最高のソプラノだったニルソンもそう語って憤慨していた。
シミオナートも「まるで実験劇場です、到達点ではない」と否定していた。カラスもそうである。

私は古風な女なのだ。
そして「ローエングリン」のオペラを「美しい」と言ったのは・・・ヴェルディのオペラだったらもっと熱く語っただろう、しかし私はワーグナーを20代から一線を引いていったのである。
それはナチス問題だった。
しかし、それでもワーグナーは素晴らしく、私は歌いたい、いいえ、心から惚れて歌えるか、と長く苦しんだ。
心の底から透明な気持ちになって歌える・・・そういう状況になれない場合は歌えない・・・。
私は私に合うヴェルディに惚れたのだ。
これは個人的なことである。

ただ、悲しいまでも美しい、しかし奈落の底に落ちて行く定めのワーグナーのオペラをやはりどこかで好きなのだ。
もちろん、ロシアオペラの「国家の運命の翻弄される」「ありのままの浮浪者たち」決して立派でない、地を轟かすような「ボリス・ゴドゥノフ」「イーゴリ公」「エフゲニ・オネーギン」なども魅了される。
「美しい」というのは「キレイ」とは同じではない。
私のいう「美しい」という言葉はもっと広いのだ。
ただ、私はロシア語を勉強していない。勉強していない言語では歌ってはならないと思っている。

ところで先日放映された「ローエングリン」の感想を書かれた方の文を転載しておく。
その方にご迷惑になってはいけないので、ブログ名は伏せておく。

<あるブログより転載>
本当に驚きですね。ワーグナーの聖地でもこのような演出が当たり前のようになってしまったのでしょうか。前衛的ではありません。奇抜というかユニークというか、それともお笑い系? 幕間には、演出家(ハンス・ノイエンフェルツ)のメッセージが解説されていましたが、うーん。ついていけないな・・・

理解できません。ネズミのぬいぐるみを着てコーラスしたり、映像でアニメが映されたり。。。まるで、オペラ伴奏付きの映画「ネズミの国」を見ているみたい。白の次は奇抜な黄色い衣装。羽根をむしられた丸裸の哀れな白鳥に思わず噴き出しそう。どうやらネズミにかじられたらしい。

ネズミ達が消えた3幕は安心して見ていられました。ローエングリンの名乗りのところはクラウス・フロリアンの熱唱で感動ものです。しかし、ハリネズミのような衣装と、こてこての化粧で復讐を誓ったオルトルートでずっこけ、極めつけは白鳥が人間の姿に変わり戻ってきたゴットフリート(ブラバント公国の世継ぎ)です。まるでET。ここまでくるとストレスが溜まりますね。

オペラは何度も滅多に見る機会がないので、できれば音楽に専念できるような伝統的な演出で楽しみたいものです。絶えず進化していきたい、メッセージを打ち出していきたい演出家の意図も分かりますが、音楽を邪魔しないでほしいというのが我々一般人の切なる希望なのです。今回のローエングリンを見てしまうと、新国立劇場で上演されたキース・ウォーナー演出の東京リングが何だか保守的な演出に見えてしまう。

Unknown
2011-08-16 01:45:51
同感!!おいらもあの演出にはついていけん。指揮者も歌手も演出について何も言わないところをみると反感をもっているのかな?それにしても、ブーイングが起こらないのが不思議だ。
今思うに、パトリス・シェローの演出なんておとなしいもんですね。
Unknown (通行人)
2011-08-16 04:05:25
>今思うに、パトリス・シェローの演出なんておとなしいもんですね。

そのシェローの演出も当時はボロカスに批判されたんですよ。
シェローリングは演出もブーレーズの軽い音楽作りも大不評で、プレミエの時は警官隊が出てくるほどのバイロイト始まって以来の大騒動になったのです。
それでも演出も毎年手直しされ指揮者の音楽作りも緻密になり、最終年には絶賛されるに至り大成功になりました。

このローエングリンですが僕はブログ主さんとは逆に非常に素晴らしい演出だと思いました(一部やりすぎと思える不愉快な部分もありますが‥いわば確信犯でしょう)。
大体においてノイエンフェルスはコケオドシの酷い演出が多いですが、この演出に関しては細部までよく練られていると思います。
頭から否定せず何度か見直すと納得できる部分もあるんじゃないでしょうか。

ノイエンフェルスの演出
2011-08-16 16:27:37

コメントありがとうございます。確かにブーイングは起こりませんでしたね。
通行人さんのコメントにあるとおり、演出も時代と共に変わっていくのでしょう。

2度と見たくないという拒絶感を抱いているわけではなく、
むしろまた見てもいいかな?という印象です。2回、3回と
見直すうちに今回の演出に対する私の印象も変化して
いくのかもしれません。


・・・この件で不遜なコメントは一切お断りします。N妖怪さんはご遠慮下さい!

コメント (11)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 緊急拡散!H23.8.21(2011年)... | トップ | フィリピン・レイテ島でのわが父 »

11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
長嶺秀雄氏 (アプリ)
2011-08-19 22:26:33
こんばんはベッラ様。

13000人の日本兵の97%が犠牲になったというレイテ島の戦闘。

この人はベッラ様のお父上の上官もしくは戦友だったのでしょうか。もう94才なので、戦争体験の公演は今年で終了されるらしいですが……。

それにしても、よくお父上は生還していらっしゃったと驚きました。

そして今の日本の体たらくを見ると嘆かずにはいられません。
返信する
お気にかけて頂きありがとうございます。 (アプリさまへ  ベッラ)
2011-08-19 22:59:57
長嶺様のことは、今は認知症になった父にはきくことができないのが残念です。

長嶺秀雄(ながみね・ひでお)
大正6年4月福岡市に生まれる。昭和7年4月東京陸軍幼年学校に入校。10年4月陸士予科入校。51期生。12年4月歩兵第8連隊士官候補生となり、満州に駐屯。14年3月独立小隊長として討匪(対ゲリラ)戦に従事(少尉)、8月ノモンハン事件に連隊旗手として参加。15年3月連隊乙副官、7月中国に移駐。16年7月まで中国武漢地区で作戦(中尉)。同年8月陸士区隊長。18年7月東京陸軍幼年学校生徒監(大尉)。19年10月フィリピンに出征(少佐)し、レイテ作戦に参加。第1師団歩兵第57連隊の第2大隊長。20年1月セブ島に転進後、持久戦に入り、8月終戦を迎える。21年3月帰国。大隊663名のうち日本に戻ることができたのはわずか18名。26年~47年陸上自衛隊に勤務。47年4月防衛大学校講師、引き続き教授。58年3月同大を退官し、現在に至る。茅ヶ崎在住。

父は学徒出陣でしたし、同年齢の学徒と仲良くしていましたがみんな亡くなり、約束通り、遺族の方々を訪ね、遺骨や遺品がないので、最期のご様子を話しをした、辛かったけれど「よく来て下さった」と・・・。
父は自分は持っていかなかった寄せ書きの「祝い出陣」という国旗を両親のもとに置き、死ぬ気で行ったのでしょう。
そして終戦を知ったのがクリスマス、それまでジャングルに潜んで戦闘状態でした。
捕虜収容所では、日本兵捕虜の待遇の改善を求め、英語通訳して「心は戦い」だったそうです。私にとって父は「レイテ激戦の勇士」であり、かけがえのない英雄です。
だから音楽の仕事もやめて介護しています。
これも私の名誉です。といってもシンドイ・・・。
父はレイテにはもう行きたくない、「いい人がたくさん死んだ」と嘆いていました。
夜になっても気温が下がらない、雨の中を寝たこともあった・・・そしてとなりに寝ていた兵士がいつのまにか亡くなっていた・・・みんな「おか~さ~ん」と言って亡くなった、と。
家族を護るため、若い命を散らせて・・・。
父は私にいつも「戦場だと思え!」と言って・・・これも困りましたが。
妹とケンカしても「どちらかが死ぬまでやれ!」というのであほらしくてやめました。
父の母は息子の帰還を待たずに亡くなっていました。「やさしかったなあ・・・」ってポツリと。
アプリさま、鶏さまのご祖父様、レイテで戦死なさっています。
靖国神社で祀られていらっしゃいます。
大変な激戦の中・・・日本とご家族を護られたのですね。
「Pの視点」で偶然にも、鶏様とこうした形でめぐり合ったのもレイテ・・・でしょうか。
そしてアプリさまの奥様とも・・・。
こうして私たちが出会ったというのは、何か不思議な感じがします。
お優しいお言葉、ありがとうございます。



返信する
つつしんで訂正いたします。 (アプリさまへ  ベッラ)
2011-08-20 20:52:02
先程のコメントで「鶏様のご祖父さまもレイテ」と書きましたが、これは私のミスで、ビルマで戦死をなさって今は靖国に祀られていらっしゃいます。
今年2月22日のコメントで「靖国」というのをすぐになぜか「レイテ」と結び付けてインプットしてしまったのです。
申し訳ございませんでした。
ビルマはもちろん、大変な激戦地でした。
お詫び申し上げます。  
返信する
アプリさんへ ()
2011-08-21 09:26:42
気にしないでくださいw
返信する
つつしんでお詫びいたします。 (鶏様ヘ  空母ベッラ)
2011-08-21 16:27:35
誠に申し訳ございませんでした。
靖国に祀られていらっしゃるご祖父さまのご冥福を心からお祈り申し上げます。
返信する
芸術派勝った負けたじゃありませんよ (うみぼうず)
2011-08-21 22:36:25
 バイロイトの演出に関する意見に対するレスには、確かに「えっ!?」とのけぞってしまうようなものがありました。ここに書かれているように、いきなり「何で削除したんだ」と確かに書かれていて(今はそのコメントも消されていますが)、ちょっとびっくりしました。

 人を疑ったり非難する際は、慎重さが必要です。「口は災いの門」と昔から言うではありませんか。言ってからでは遅いのです。じっくり相手の話を聞いて、それから相手に非があると分かってから拳を振り上げないと。まあ、ネット上のやり取りなんて、拳を振り上げるほどのこともありませんが。

 私は、常々、ネット上の住民の語気の荒さに疑問を感じていました。文字でしかコミュニケーションを取れないネットでは、どうしても感情がストレートに伝わってしまう(しかも大げさに)。それに匿名性も手伝って、みな過激になってしまうのでしょう。

 ネットにはそういう特性があるのだから、各自抑制する姿勢が必要だと思うのです。どこにも荒し的な書き込みは存在しますが、大変低レベルで、残念です。

 ちなみに、私とベッラさんとでは、音楽の持つ「美しさ」については少なからず認識の違いがあるようです。それ自体何の不思議もありませんし、悔しいとも不快だとも思いません。違う価値観を持つ者同士が対話し、理解を深めることに意義があるのであって、勝った負けた、論破した、云々は、こと芸術の世界の論議には、不要のものです。(もちろん、芸術の創造に関わった人と、私のような単なるディレッタントに過ぎない人とでは、論点も異なるでしょうし、立ち位置も違うでしょうから、そもそも激論になる余地はないと言ったほうがいいかもしれない)

 私も社会人の端くれですから、仕事では闘っています。時には命を賭して。だから、趣味の世界まで戦う気にはなりません。こちらのブログでは、いろいろなジャンルがあるようですが、基本的には、相手の立場を尊重することが必要だと感じています。特に芸術文化のジャンルでは。それが嫌な武闘派の方は、○ちゃんねるなんかに戦いの場を移したほうがいいと思うのですが。
返信する
ご丁寧なコメントありがとうございます。 (うみぼうずさまヘ  ベッラ)
2011-08-22 03:12:44
コメント書きなおしましたのでご覧ください。
おっしゃる通りだと思いますが、簡単に疑問点をひとつ。
ご丁寧にコメントありがとうございます。

1、「音楽の持つ美しさ」の認識が違う
・・・では私はどういう認識だとお考えですか。私はうみぼうずさまの「認識」はできません、ということは私の考えもわからないでしょう。それは書けることではないからです。

2、「こちらのブログでは、いろいろなジャンルがあるようですが、基本的には、相手の立場を尊重することが必要だと感じています。」
・・・これについては、今までは「相手の立場を尊重する」ことはコメントを書いて下さる皆様と基本的にできています。
また、音楽でのコメントなども、ご覧になればおわかりのように気持ちよい暖かな交流ができています。礼儀も心得られ、また音楽的にも優れた方々です。
本当に優れた方々で、私はいつも感謝しています。
文章のやりとりで、困ったことなどなかったのですよ。気心も知れていますし、こんなことは初めてだったのです。

「勝った負けたではありませんよ」というコメントのタイトルには誤解もあるでしょう。
私は勝った負けたとは考えてもいません。
あの無礼なコメントを退けただけです。
あの方に気に入られるようには書く必要はありませんし、あんな詰問では答える必要はなかったと反省しております。

お仕事の本気度、迫力感じました。
時には命を賭して・・・なんて。
素晴らしいですね。
ちょっとご質問・・・ブログをお持ちならお知らせ下さい。



返信する
支離滅裂ですみません (うみぼうず)
2011-08-24 22:08:44
 門外漢の私のコメントですから、支離滅裂になるかもしれませんが、どうかご容赦ください。

>1、「音楽の持つ美しさ」の認識が違う
・・・では私はどういう認識だとお考えですか。私はうみぼうずさまの「認識」はできません、ということは私の考えもわからないでしょう。それは書けることではないからです。

 ベッラさんは、ローエングリンを「絶望を秘めた美しさ」と語っておられますが、私の認識は、もっと感覚的なものです。単純に、第1幕前奏曲が「美しい」、第2幕のエルザのバルコニー登場シーンが「美しい」、はたまた結婚式のシーンが「美しい」…。こういう聴き方は、オペラ鑑賞にはあまりに片面的と思いますし、ベッラさんのように、ストーリーに重ね合わせて音楽を捉えるほうがいいのだと思います。美しさを捉える基準が、やや異なるように思えたので、あのように書いたわけです。私は、交響曲などのオーケストラ作品からクラシックに馴染んだ口です。オペラも、ストーリーからというよりは、音楽を交響詩的に聴いてしまう癖があるので、こうなってしまうのかもしれません。

 ただ、ワーグナーの後期の作品を鑑賞したあとでは、ローエングリンは、やはりやや平面的な印象を受けてしまうのです。たとえば、「聖金曜日の音楽」などは、私のようなしろーとには太刀打ちできるような代物ではありませんが、何か内から自然に湧き出るような「美しさ」を感じたりするのですが、ローエングリンは、まだまだ表面的にしか聞こえないのです。このあたりは、私の感覚や人生経験を深めれば、もっと内面的な美しさを理解できる日が来るかもしれません。


>2、「こちらのブログでは、いろいろなジャンルがあるようですが、基本的には、相手の立場を尊重することが必要だと感じています。」
・・・これについては、今までは「相手の立場を尊重する」ことはコメントを書いて下さる皆様と基本的にできています。
また、音楽でのコメントなども、ご覧になればおわかりのように気持ちよい暖かな交流ができています。礼儀も心得られ、また音楽的にも優れた方々です。
本当に優れた方々で、私はいつも感謝しています。
文章のやりとりで、困ったことなどなかったのですよ。気心も知れていますし、こんなことは初めてだったのです。

 政治的なコメントの中で、参加者同士でバトルになっているようなのを読んだ記憶がありました。「中国云々」といったスレだったと思います。それを連想して書いたのですが、間違いであったらごめんなさい。

 私は政治的なコメントは避けているのですが、芸術と比べ、政治は我々生活(あるいは子孫を巻き込んで)の根本に関わることですから、時には激論になるのも止むを得ないと感じています。(芸術を軽んじているつもりはなく、芸術を生活の糧にしている人々からすれば、自らの生き方に関わってくるので、やはり激論にならざるを得ないと思います…私は一人の愛好家に過ぎないので、芸術に関しては楽観的に書いているに過ぎません)ですから、政治を語る場合と、芸術を語る場合は、やや取り組み姿勢が異なるんじゃないかと。趣味を語るんだったら、もう少し肩の力を抜きましょうよ、という意味で書きました。


 私はみなさんと違い、まだまだ不勉強な面が大きいですから、見当違いの書き込みをすることも多いと思います。突っ込まれるとすぐ妥協したり、言葉に詰まったり…。特にネットでは、なかなか思うように表現できません。今もこう書きながら、何やら訳の分からない、辻褄の合わない文章になっているように思えます。恥ずかしい限りですが、私なりに思うところがありましたら、またお邪魔すると思いますので、どうぞよろしくお願いします。
返信する
ご丁寧にありがとうございます。 (うみぼうずさまへ  ベッラ)
2011-08-24 23:15:51
交響詩などでは、オペラに近いと思います。
リスト「マゼッパ」など、オーケストラの表現が情景だけでなく心の葛藤まで描いています。
このオーケストレーションはリストの弟子、ワーグナーが学び、文学にも秀でたワーグナーが
歌手がセリフで歌っていないことの「内なる心」や外側の情景などもあらわしています。
たとえば恭順していると歌っておいて、オーケストラでは秘められた憎しみをあらわす、これには「さすが!」と思いました。ひきつけられます。ライトモティーフと延々たる転調、無限旋律など・・・指揮者ショルティがソプラノのニルソンにレッスンしているフイルムを昔みたことがあります。その時のショルティのピアノは完全にオーケストラそのものの大きさでした。オケではわかりにくところをピアノで具体的に示していましたね。
「聖金曜日」は美しいですが、私は「ここまできたか・・・」と反面思います。
ローエングリンを作曲した時代とは作曲者の生き方に変化があったのでしょう。
ローエングリンは「歌劇」であり「楽劇」ではありません。後期の「楽劇」は歌唱もいいですが、オーケストラの活躍が大きい、それはローエングリンやタンホイザーのころのワーグナーのころと比べると、ワーグナーのワーグナーたる本質を思います。「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲などドキっとするような、ショッキングなところがあり、それが長い長いオペラのフィナーレで「愛の死」としてドラマティックソプラノによって歌われます。
最近ではワーグナー歌手といえるほどの重厚な声の歌手が少なくなりました。
ほとんどリリック(イタリアオペラでいえばリリコ)でリートのような繊細さで歌っています。私はニルソンやホッターの超人的な声を聴きましたので・・・ただ、これは指揮者が自分の意に沿う歌手を、ということでリリックな声がワーグナーだけでなく、ヴェルディまでも、多くつかわれています。
オペラ歌手はソプラノといっても多くの声の種類があり、いくら自分が歌いたくても、たとえばボクシングで軽量級の選手が重量級の選手とわけられるように厳然と区別があるのです。
ですから、重量級の声の歌手が大劇場をバスルームのように響かせ、分厚いオーケストラを乗り越えるスリリングさはもうありません。
そのかわり指揮者や演出家が台頭し、声そのものも大切ですが、流れがかわってきた、かわらざるを得なかったのでしょう。

中国のスレ、これは工作員です。
日本を護り、大切に思う、私たち保守の考えをもつブログにやってきて「荒らし」をします。
政治的なことはまた。

交響曲から、というのは今の指揮者もそうです。どうしてもオペラを重点的に振ってきたフルトヴェングラーやショルティ、カラヤン、セラフィン、トスカニーニとは違います。
感覚的に違いがわかります。
歌い手がフィアート(ブレス)をたっぷりとる暇もなく、どんどん先にすすめたり、オーケストラのピッチを高くしたり、歌い手にとっては喉をつぶす危険にさらされています。
最近亡くなったシノポリはよくオペラがわかっていました。
私は勉強したことのない言語では歌いません。
それは「のどじまん」になってしまうから。
指揮者も語学や作曲家の国の文化など、軽んじてしまう人が多いです。
たとえばピアノですがショパンのポーランド独特のテンポを受け継ぐピアニストは少ないです。こちらこそよろしくお願いします。
返信する
強さと崇高さと (Ken)
2011-08-25 07:05:33
三島由紀夫はお嫌いでしょうが、しかしかれの「いまは強いものがいじめられ、バカにされ、貶めれらた時代だ」という言葉にはベッラさんも賛同してくれるでしょう。

かれのいう強いものとは、英雄主義、国を憂うこころ、そしてそうしたものに真剣に活動し、生きることです。

ローエングリンをギャグ風に演出することは、まさにヴァーグナーの願う英雄主義をバカにする現代を、写しだしているのです。

時代をよく映しているのだからよい演出、ということができるのはもちろん本当です。

プルーストがなぜ優れた作家かというと時代をよく映したからです。

しかし、わたしはオペラのもっと崇高な役目は、時代を映すことを越え、時代を築くことだと考えるのです。

ヴァーグナーは「いまやオペラは宗教から宗教性を吸収した」と述べた。それはヴァーグナーのオペラへの期待のことばでもあったでしょう。

わたしもそれを願うのです。オペラは決して崇高さを失ってはならない。

これはどんなにバカにされても、譲れない。

それはどんなに愚かな政体だといわれようと、御皇室が日本になくてはならないのと一緒です。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

オペラ」カテゴリの最新記事