中高生の頃、團伊玖磨のLPも買わずに、何を買っていたかというと、例えば交響組曲「宿命」というのがある。映画「砂の器」の音楽を編集したものである。
そういえば最近もドラマ化されていて、また観てしまった。多分3回目のドラマ化だと思う。ここまで何度も映画になったりTVドラマになったりという作品は珍しいのではないだろうか。
これはもちろん作品が面白いからだ。方言や戸籍のトリック、日本のあちこちを舞台にする設定、人間模様、その要素には枚挙にいとまがないが、他の松本清張作品と違うのは「音楽家」が出てくる、ということだ。と言っても全作品を読破した訳ではないので、他にも出てくる作品があるのかもしれないが、とにかく音楽のウェイトが結構大きい。
しかし、原作では「ミュージック・コンクレート」の現代音楽家、という設定なのだ。鉄筋コンクリートみたいな名前だが、訳すと「具体音楽」、身の回りにある音から電子音まで、様々な音を集めて加工して編集して作る「音楽(?)」のことである。
これを映画化してもドラマ化しても、かなり無理がある。案の定、どのドラマもそこは改変されている。改変された結果、どのドラマも「あり得ない音楽家」の設定に変わっているのが興味深い。
「あり得ない」のは、聴衆が次の新作を聞きたくて会場につめかけ、かっこいい(あ、今はイケメンと言うのだった)青年音楽家が登場して、クラシック音楽のスタイルを持つ「わかりやすい」音楽を披露する、ということ。あったらいいのに、とは思うが。
さて、「ミュージック・コンクレート」の代表選手は、やはり武満徹と黛敏郎だろう。と偉そうに書いてしまったが、実はこのお二方の作品しか聴いたことがないのである。(一時、冨田勲のシンセサイザー音楽をレコード会社がミュージック・コンクレートに分類していたが、それは間違いというものだ。)
このご両人の作品は、感動とまではいかないにしても、なかなか面白かった。特に黛先生のものは、いかにも才気煥発なユーモアと皮肉に富んだものだった。
そこで思うのは、「砂の器」の音楽家、和賀英良のモデルは黛先生なのではないか、ということ。実は私は昔からそう信じている。
私が生まれるずっと以前のことだけど、さんざんテレビや書籍等で紹介されているから、まるで見たことがあるかのように聞かされている「三人の会」。芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎という当時若手の作曲家が、お金を出し合ってオーケストラを買い、それぞれの作品発表をした会である。
そこで「シルクロード」や「饗宴」などが演奏された。こういう音楽ならば、聴衆も新作に期待してつめかけるだろう。そして花束を渡したのは、みんな当時の女優さん達。そのうち、皆さんその女優さんと結婚して・・・。と、まあ実に華やかな世界が、往時の日本のクラシック界にはあった訳だ。三人ともスターだったし。日本のクラシック音楽界が、一番賑やかだった時代かもしれない。
この情景、映画・ドラマの演奏会シーンとそっくりだ。この情景のみが生き残っている感がある。原作にそれが活写されているかどうかは、読み手の判断に委ねられるが、和賀英良と黛先生が,この点において素直に重なるのである。
ただ、和賀英良はかなり悪者として描かれているので、黛先生がモデルだなどとうっかり言えるものではないし、第一恐れ多いことだ。
私が望むのは、クラシック音楽界にも、そのような活気がまた現れる日がくること。生きているうちにそうなるといいなあ。
追記 : これを書く約1カ月前、作曲家の吉松隆氏が「和賀のモデルは黛敏郎」と断定されていました。そこには「従前のクラシック音楽と違い、現代音楽ならばろくな教育を受けなくても第一人者になれる」という皮肉が込められている、とのことで・・・。念のため、黛先生の作品は、そのような現代音楽とも違い、すばらしいものです。
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