昨年読んだユートピア的ディストピアを描いたSF小説『ハーモニー』に強く引き付けられたので、同じ作者のデビュー作を読んだ。発表は2007年。劇場アニメ化もされた有名な作品であるが、私は全く予備知識無かった。『ハーモニー』とは異なったディストピアの近未来世界を描くSF小説であり、読み手に強い吸引力で引き込み、読後感も強烈だ。
核戦争へのハードルが大きく下がった世界、テクノロジーによる個人情報管理が社会の隅々まで行き届いた世界、ことば・文法を駆使して仕組まれる虐殺。昨今の世界情勢や技術の進歩は、本書刊行時とは比較にならないほどのリアリティを持った物語として通用するだろう。米国内内戦を暗示するエピローグは、昨年公開になった映画「シビルウォー」の前編のようにも読める。
未来世界を提示しながらも、ことば・文法・コミュニケーション、遺伝子やミーム、歴史解釈など、人間についての思考が語られる。進歩する科学の中で、認知能力や遺伝子に規定された人間は、何を見て、考え、どう行動するのか。読み進めながら、背筋が冷たくなる。骨太なSF小説の醍醐味を味わえた。
タイトルから想定されるように、生々しい暴力・殺人表現もあるが、それらを超えて読む価値が高い一冊だった。返す返す、作者が本作でデビューして2年後に34歳で早逝されたのが、残念でならない。
(以下、個人的抜き書き)
歴史とは勝者の歴史、という言い方もあるが、それもまた異なる。
歴史とは、さまざな言説がその伝播を競い合う闘技場であり、言説とはすなわち個人の主観だ。・・・商社の書いた歴史が通りやすいのは事実ではあるが、そこには弱者や敗者の歴史だってじゅうぶんに入り込む余地がある。世界で勝者となることと、歴史で勝者となることは、往々にして別なこともあるのだ。 (P.44)
アレックスはそうじゃないと言って自分の頭を指さした。
「地獄はここにあります。頭の中、脳みそのなかに。大脳費筆のひだのパターンに。目の前の風景は地獄なんかじゃない。逃れられますからね。・・・地獄からは逃れられない。だって、それはこの頭の中にあるんですから」(p.52)
人間がどんな性格になるか、どんな障害を負うか、どんな政治的傾向を持つか。それは遺伝子によってほぼ決定されている。そこに環境が加えられる変化となると、ごくわずかだ。・・・きみはまず、自分が遺伝コードによって生成された肉の塊であることを認めなければならない。心臓や腸や腎臓がそうであるべき形に作られているというのに、心がそのコードから特権的に自由であることなどありえないのだよ (p.217)
仕事だから。一九世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方がないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間たちから、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、きみは知っているのかね。仕事だから、ナチはユダヤ人をガス室に送れた。・・・ すべての仕事は、人間の良心を麻痺させるために存在するんだよ。資本主義を生み出したのは、仕事に打ち込み貯蓄を良しとするプロテスタンティズムだ。つまり、仕事とは宗教なのだよ。 (p.310)
人々は個人認証セキュリティに血道をあげているが、あれはテロ対策にはほとんど効果が無い。というのも、ほんとうの絶望から発したテロというのは、自爆なり、特攻なりの、追跡可能性をリスクを度がし下自殺的行為だからだ。社会の絶望から発したものを、システムで減らすことは無理だし意味が無いんだよ。 (p.371)