プライベートで参加している読書会の課題図書として読みました。ヒルティの『幸福論』(1891年)、アランの『幸福論』(1925年)、ラッセルの『幸福論』(1930年)は三大幸福論と呼ばれているそうで、その中の一冊となります。本書を読んで、「幸福観」について考えようというお題です。書き様は平易ですが、なかなか私の頭の中には浸み込まず、難儀しました。
人生の警句に満ちた書なのですが、特に幸福関連の記述からいくつか引用すると。
・「人間は、意欲し創造することによってのみ幸福である」(44ディオゲネス、p127)
・「幸福はいつでもわれわれを避けるという。・・・自分で作る幸福は、決して人を欺かない。それは学ぶことであり、そして人は常に学ぶものである。知れば知るほど、学ぶことができるようになる。」(47アリストテレス、p137)
・「幸福になることを欲し、それに身を入れることが必要である。」(90幸福は高邁なもの、p254)
・「幸福になることは常にむずかしい。それは多くの人々に対する闘争である。・・・幸福になろうと望まないならば、幸福になることは不可能だ。自分の幸福を望み、それを作らなければならないのである。」(92幸福たるべき義務、p261)
一貫して本書で語られるのは、幸福は待っていて訪れるものではなくて、自ら求め、作るものだという、「意志」への拘りです(「闘争」とまで言っています)。1920年代に世に出た書であるので、時代背景や社会情勢の影響もあるとは想像しますが、私自身、「幸福」を静態的な状態を表す言葉として捉えていたので、行動指針のような「幸福観」は新鮮でした。
幸福観は個人の価値観、人生観によっても異なるため、「どのように生きていくのが幸せなのか」に正解はないと考えます。「個人として、未来に向けて、今につながっている過去の資産を活用しつつ、現在を精一杯生きること」が幸せなのでは?という極めて一般的な「幸福観」が今現在の自分解という結論に落ち着きました。
(附記)
幸福については、以前読んだユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』の記述があったのを思いだし、該当部分(下巻第19章)を読み返してみました。以下、自分のためのサマリーです。
『サピエンス全史(下)』第19章「文明は人間を幸福にしたのか」pp..214⁻240から
・過去の研究成果:幸福は客観的な条件(富・健康・コミュニティ)よりも、客観的な条件と主観的な期待との相関関係に拠ってきまる
・生化学側面重視:私たちの精神的・感情的世界は、進化の過程で形成された生化学的な仕組みに支配されている。人間を幸せにするのは、体内に生じる快感である(神経やニューロン、シナプス、ゼトロリン、ドーパミン、オキシトシンのような生化学物質からなる複雑なシステムによって決定)
・認知的・倫理的側面重視:幸せかどうかは、ある人の人生全体が有意義で価値あるものとみなせるかどうかにかかっている。(しかし、人生に認める価値あるかどうかは、主観的なものであり妄想に過ぎない。それであれば、人生の意義についての妄想を、時代の支配的な集団妄想に一致させることが幸福につながる)
・仏教の教え:苦しみの根源は、束の間の感情(快も不快も)を果てしなく、空しく求め続けることにある。幸せへのカギは真の自分を知り、感情は自分自身とは別物で、特定の感情を追い求めても不幸になるだけを理解すること。最大の問題は、自分の真の姿を見抜けるか。
雑感:「幸せ」の定義により、その捉え方・測り方が異なるということ。仏教の教えから筆者が導く、感情を切り離し、真の自分を知ることにより得る幸せの世界は、凡人にはあまりにもハードルが高いように思われます。