歴史、あるいは単純に過去を伝える手段は、大昔は文字で、そこに絵が加わり、近代になると写真や映像に移行してきた。
百聞は一見に如かずを、地で行っているようなものだ。
特に第二次大戦後の昭和20年代の、駐留アメリカ人による日本の映像や、その後のニュース映像は、世相や風俗、町や村の風景などを巧みに取り込んでいて、当時の日本の状況がよくわかる。
そんな昭和20年代の映像を見ながらふと思う。
私が生まれたのが昭和29年だから、それらの映像が撮られた時には、私はまだこの世に存在していなかったということだ。
その事実は厳然としている。
変な気分になる。
私の存在なしに世界は存在していたのだ。これは私の死後の未来についても言えることだろう。
人間は主観の生き物だ。客観などは存在しない。
自身の目を通して、自身の意識でしか物事を見られないのだ。
人はそれぞれがそれぞれの主観で、自身以外の世界の存在を認識している。
しかし、私が存在していなかった世の中の様子が、今、映像として見られるのだ。
映像自体は現実から切り取られたもので、今の時間線とはシンクロしてはいない。
厳密にいえば、その映像は当時の撮影者の視点、主観だ。
だから私は実際に当時の様子を見ているのではない。
故にそれが真実かどうかは定かではないのだ。
もしかしたら、それは意識が作り出した虚像かもしれないのだ。
百聞は一見に如かずを、地で行っているようなものだ。
特に第二次大戦後の昭和20年代の、駐留アメリカ人による日本の映像や、その後のニュース映像は、世相や風俗、町や村の風景などを巧みに取り込んでいて、当時の日本の状況がよくわかる。
そんな昭和20年代の映像を見ながらふと思う。
私が生まれたのが昭和29年だから、それらの映像が撮られた時には、私はまだこの世に存在していなかったということだ。
その事実は厳然としている。
変な気分になる。
私の存在なしに世界は存在していたのだ。これは私の死後の未来についても言えることだろう。
人間は主観の生き物だ。客観などは存在しない。
自身の目を通して、自身の意識でしか物事を見られないのだ。
人はそれぞれがそれぞれの主観で、自身以外の世界の存在を認識している。
しかし、私が存在していなかった世の中の様子が、今、映像として見られるのだ。
映像自体は現実から切り取られたもので、今の時間線とはシンクロしてはいない。
厳密にいえば、その映像は当時の撮影者の視点、主観だ。
だから私は実際に当時の様子を見ているのではない。
故にそれが真実かどうかは定かではないのだ。
もしかしたら、それは意識が作り出した虚像かもしれないのだ。
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