三ノ輪橋に到着後、お目当ての場所へ向かいます。
途中、地元の「ジョイフル三の輪」というアーケード付きの商店街を歩きます。
肉屋や八百屋、魚屋はもちろん、美容室(パーマ屋)や100円ショップもあります。
関東には、各所にこのような商店街があるので、ブラブラ歩くのにはいいですね。
歩くこと、約10分。
目的地の荒川総合スポーツセンターに到着です。
ここはかつて東京スタジアムという野球場の跡地で、1984年に現在の建物が完成しました。
水泳の金メダリスト・北島康介選手が幼少期に利用したことで、この施設も知られるようになりました。
北島選手の金メダル獲得を記念して、館内の温水プールを「北島康介・記念プール」と命名する案も浮上したようですが、諸般の事情により頓挫したそうです。
さて話題は、かつて存在していた東京スタジアム(球場)です。
プロ野球・千葉ロッテマリーンズの前身にあたる大毎(後の東京、ロッテ)オリオンズが本拠地として使用していた球場です。
球場の運営・管理は、かつてオーナー企業だった映画会社の大映の関連子会社である株式会社東京スタジアムが行っていました。
しかし、1972(昭和47)年で閉鎖され、1977(昭和52)年に解体されてしまいました。
解体されるまでの数年間、当時の主力打者だった榎本喜八選手が、自宅からランニングしながら、この地を何度も訪れていたそうです。
何か想うところがあったのでしょうね。
今では、荒川総合スポーツセンターと、隣接した場所に軟式野球専用の南千住野球場(写真)があり、当時の面影はほとんどありません。
あるとすれば、隣接地にある蕎麦屋さんくらいか。
このお店は、かつて球場にいる選手たちから、たびたび出前の依頼があったそうです。
東京スタジアムの設計のモデルとなったのは、かつてサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地だったキャンドルスティック・パークであるのは有名。
場内に設けられた6基の照明塔は、当時の日本ではかなりモダンな構造でした。
当時の南千住には、マンションなどの高層建築物はなく、低い平屋や二階建ての住宅が建ち並ぶ下町の街並みだったそうです。
その地に忽然と現れた巨大なスタジアムから、夜になるとナイター照明が放つ光が瞬く光景から「光の球場」と称されました。
ナイター終了後に照明が消えると、照明に群がった夜蛾が一斉に周辺の民家になだれ込んだため、一種の公害にもなっていたそうです。
また地域性(下町であったこと)もあり、お客さんは下駄履きできたり、当時走っていた都電に乗ってきたりしていたそうです。
この球場のピークは、パ・リーグを制覇した1970(昭和45)年だったのでしょう(当時はロッテ球団)
その2年後に閉鎖され、ロッテ球団はジプシー球団として、固定した本拠地を持たずに過ごす不遇の時代を過ごすのです。
2013年に、この地に東京スタジアム(球場)があれば、どうなっていたのでしょうか?
あらぬ妄想・空想が膨らみます。
写真:かつての東京スタジアムの3塁側スタンドから、レフトスタンド方向を見た位置になります。
途中、地元の「ジョイフル三の輪」というアーケード付きの商店街を歩きます。
肉屋や八百屋、魚屋はもちろん、美容室(パーマ屋)や100円ショップもあります。
関東には、各所にこのような商店街があるので、ブラブラ歩くのにはいいですね。
歩くこと、約10分。
目的地の荒川総合スポーツセンターに到着です。
ここはかつて東京スタジアムという野球場の跡地で、1984年に現在の建物が完成しました。
水泳の金メダリスト・北島康介選手が幼少期に利用したことで、この施設も知られるようになりました。
北島選手の金メダル獲得を記念して、館内の温水プールを「北島康介・記念プール」と命名する案も浮上したようですが、諸般の事情により頓挫したそうです。
さて話題は、かつて存在していた東京スタジアム(球場)です。
プロ野球・千葉ロッテマリーンズの前身にあたる大毎(後の東京、ロッテ)オリオンズが本拠地として使用していた球場です。
球場の運営・管理は、かつてオーナー企業だった映画会社の大映の関連子会社である株式会社東京スタジアムが行っていました。
しかし、1972(昭和47)年で閉鎖され、1977(昭和52)年に解体されてしまいました。
解体されるまでの数年間、当時の主力打者だった榎本喜八選手が、自宅からランニングしながら、この地を何度も訪れていたそうです。
何か想うところがあったのでしょうね。
今では、荒川総合スポーツセンターと、隣接した場所に軟式野球専用の南千住野球場(写真)があり、当時の面影はほとんどありません。
あるとすれば、隣接地にある蕎麦屋さんくらいか。
このお店は、かつて球場にいる選手たちから、たびたび出前の依頼があったそうです。
東京スタジアムの設計のモデルとなったのは、かつてサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地だったキャンドルスティック・パークであるのは有名。
場内に設けられた6基の照明塔は、当時の日本ではかなりモダンな構造でした。
当時の南千住には、マンションなどの高層建築物はなく、低い平屋や二階建ての住宅が建ち並ぶ下町の街並みだったそうです。
その地に忽然と現れた巨大なスタジアムから、夜になるとナイター照明が放つ光が瞬く光景から「光の球場」と称されました。
ナイター終了後に照明が消えると、照明に群がった夜蛾が一斉に周辺の民家になだれ込んだため、一種の公害にもなっていたそうです。
また地域性(下町であったこと)もあり、お客さんは下駄履きできたり、当時走っていた都電に乗ってきたりしていたそうです。
この球場のピークは、パ・リーグを制覇した1970(昭和45)年だったのでしょう(当時はロッテ球団)
その2年後に閉鎖され、ロッテ球団はジプシー球団として、固定した本拠地を持たずに過ごす不遇の時代を過ごすのです。
2013年に、この地に東京スタジアム(球場)があれば、どうなっていたのでしょうか?
あらぬ妄想・空想が膨らみます。
写真:かつての東京スタジアムの3塁側スタンドから、レフトスタンド方向を見た位置になります。