虹色仮面 通信

神出鬼没なオッサンが毎日感じたことを取り留めなく書き連ねます

高水準

2018-05-31 07:11:29 | 社会

Yahooニュースより。

ガソリンの小売価格が、1リットルあたり150円を超え、3年5カ月ぶりの高水準。イランを巡る情勢が悪化するとの懸念から原油価格が上昇していることが原因で、6週連続の値上がり。<了>

クルマを使うのは札幌に居るとき(毎月1週間)に限られるが、確かにガソリン価格は上がる一方で、給油すると結構な値段になっている。これ以上、価格が上がると、札幌でも公共交通で移動するのがよさそうだなぁ。

首都圏に居る時は公共交通機関オンリーだから、個人的にはあまり関係ないけど、クルマが必需な産業にとってはジワジワ影響がありそうだ。

 


梅雨入り目前

2018-05-30 08:38:56 | 社会

5月も明日で終わり、梅雨入りが目前に迫ってきました。徐々に蒸し暑さが増してきている関東地方です。

蒸し暑さははっきり言って得意ではありません。まぁ得意な人もいないかな?

この時期は蒸し暑さにより、発汗が促されます。そのため身体はべとつき気持ち悪いだけでなく、集中力も維持しにくくなり、疲れもいつも以上になります。

今年の梅雨はどんな感じになるのか。うっとうしいけど、雨が少ないと夏の水不足もあるから仕方がないですね。

来月10日前後から約1ヶ月、なんともうっとうしい季節がやってきます。

まずはカビないようにしなくては。


新たな役割

2018-05-28 05:38:20 | 乗り物

1997年3月に山陽新幹線で登場後、500系はその年の11月には1日3往復の「のぞみ」として東海道新幹線へ乗り入れを果たした。東京~博多間の所要時間を4時間49分に縮め(初めて5時間の壁を破っ)た。9編成となった1998年10月のダイヤ改定では、東京~博多間を1日7往復するまでになった。

その後、JR西日本とJR東海が共同開発した700系、さらにはN700系が登場。東海道区間を走る500系の本数は次第に減っていく。ついに2010年2月、のぞみとしての運行を終える。東海道区間での13年間という運行期間は、歴代車両と比べても最も短かいものだった。

500系は現在、最高速度を285kmに落とし、山陽新幹線の「こだま」として運行している。

かつての16両編成から8両編成に短くなり、使われなくなった車両は廃車された。 

 
「世界最速」がウリだった500系は、乗ることを楽しむことに役割を変え、今も現役で山陽区間を走り続けている。

2012年の「鉄道の日」に、500系をモチーフにした山陽新幹線の公式キャラクター「カンセンジャー」が誕生。車体に絵などをあしらった「ラッピング車両」も登場した。

2014年には車内で鉄道おもちゃ「プラレール」で遊べる「プラレールカー」もでき、子ども向けの運転台も設置された。

さらに2015年には、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」をイメージした車両の運行が始まった。山陽新幹線の全線開業40周年とエヴァの放映20周年を記念した企画だった。昨春までの運行期限が1年ほど延長されるほどの人気ぶりだった。
 
エヴァ新幹線の終了後、2018年夏にはハローキティをあしらった「ハローキティ新幹線」が登場する。
 
これからも500系は、新たな使命を担って走り続けるのだ。

世界最速

2018-05-27 07:52:11 | 乗り物

鉄道ファンだけではなく、多くのファンを持つ新幹線500系。

1997年3月、山陽新幹線でデビュー。当時の世界最速となる時速300kmでの営業運転を行い、新大阪~博多間の所要時間を2時間17分に短縮。山陽区間での平均速度はギネス世界記録にもなった。

500系の使命は「世界最速」であった。

国鉄分割民営化の後、JR西日本は山陽区間で飛行機に乗客を奪われ、苦しい立場となったのが背景にあった。

そこでJR西日本は「高速化で、飛行機から乗客を取り戻すこと」が大きなテーマとして開発された。

500系が長く人気を得ている理由の一つとして、その特徴的な外観にある。前頭部の形状は戦闘機のような約15mのロングノーズ。開発したJR西日本は「超高速走行でも空気の壁をスムーズに突き破るデザイン」をコンセプトにしたという。

また開発時に立ちはだかったものに「騒音問題」があり、それを解決する方法として導き出せれたのがこの形状だった。

列車が高速でトンネルに入ると、圧縮された空気がトンネルの出口側で大きな爆音を生む。山陽新幹線はトンネルの割合が50%を超えたため、ある「自然の造形」に着目して開発を進めた。

それは空中から水中へ素早く飛び込みエサを捕るカワセミ。カワセミの細長いくちばしの形状が水中に入る際の抵抗を減らすことがわかり、新たな500系に取り入れた。

500系は他にも、自然の造形を採り入れた。
 
試験走行の段階で、パンタグラフが風を切る音も大きな問題になった。そこで、最も静かに飛ぶ鳥だとされるフクロウに着目。フクロウの羽を徹底的に研究。空気抵抗を減らす突起の存在を確認し、パンタグラフの形状に応用した。

「空力性能の向上、低騒音化、それらを象徴する美しさの統合の結論」

当時、JR西日本は500系の造形をこう表現し、胸を張った。

続きは明日。


人材難

2018-05-26 08:33:55 | ビジネス

北海道新聞より。

 JR北海道は24日発表した役員人事で、JR東日本出身の西野史尚副社長を当面続投させ、昇格させる小山俊幸専務と2人の副社長を置く「異例の体制」(島田修社長)を選んだ。正念場を迎える単独維持困難路線問題の打開には、辣腕(らつわん)を振るう西野氏の力が不可欠と判断したためだ。新会長に就任する白川保友氏、新取締役の渡利千春氏を含め、経営における「東日本出身者頼み」の色はますます濃くなった。

 西野氏は、鉄道事業本部長として安全運行の再構築を担い、北海道新幹線開業や札幌駅ホーム位置問題でも陣頭指揮を執った。さらに、単独維持困難路線問題ではバス転換を求める札沼線や日高線の沿線自治体などとの協議の最前線に立ってきた。安倍政権中枢にも人脈があるとされる。JR東日本では6月22日付で非常勤取締役となる予定で、北海道を離れた後は副社長就任が内定している。

 島田社長は24日の記者会見で、「維持困難線区の問題は大まかな方向付けは8月までに付けるべく努力している」と説明。西野氏の功績を念頭に「この方向付けは引き続き重要任務を担う西野氏の責務。その後、各線区で具体的な解決策につなげるのが小山氏の責務」と述べ、当面は西野氏に頼らざるを得ないとの認識を示した。

 新会長の白川氏はJR東日本では元常務で運輸車両部門に精通し、安全再生の新たな計画策定や技術面の指導などに期待。渡利氏は西野氏と同様に安全対策と企画の両方の部門を経験し、国や道からの財政支援を踏まえた経営再建策や2030年度の新幹線札幌開業に向けた具体的作業での手腕発揮が望まれている。

 一方、島田社長は生え抜き組の処遇にも腐心した。小山氏を副社長に昇格させ「次期社長への布石を打った」(JR関係者)。総務や企画、営業と幅広い経験があり幹部候補と目されてきた綿貫泰之取締役函館支社長を常務に起用し、技術系の田畑正信常務に鉄道事業本部長を兼務させた。総務、組合対策に定評がある山口力常務は留任させ、求心力維持を図った。

 JR北海道は3月期決算で400億円を超える過去最大の営業赤字となり、20年度末には資金枯渇するという深刻な危機に直面している。西野氏退任までに、東日本出身組と生え抜き組が、その穴を埋められるようになるかが、経営立て直しの鍵となる。<了>

 要するに人材難が深刻ということですな。組織的に脆弱であることは今に始まった話ではないですが、こういう部分の積み重ねが後に振り返ったときに影響を及ぼすことは多々ある。

 またやむを得ない部分とも言えますが、人材育成が遅々としていて、企業としての将来像を描けていないのも気掛かりです。それよりも目先のことで精一杯というのが現状ではあるのでしょうが。

 最近、大きな事故やトラブルは起きていないですが、このような組織体系ではまた何かをやらかすことは充分に考えられる。

 どこまでも課題山積のJR北海道である。

ps.JR東日本(の幹部職)も本音では、JR北海道にあまり関わりたくないだろうなぁ。


見てみたい

2018-05-25 07:15:50 | スポーツ

イニエスタがやってきた。

これから日本でプレイする。

普段、それほどサッカーに興味がある訳ではないが、彼が日本でプレイする姿は見てみたい。

世界レベルのプレイはやはり凄いだろうから。

神戸は彼のプレイはもちろん、彼が持つ知識や経験をメソッドとして残し、財産にしていくだろう。

数年後に、2018年を振り返ったときに、彼の神戸加入は大きなターニングポイントになっているだろう。それは他チームにも、他のスポーツにも波及すればいいなぁ。

とにかく楽しみである。

余談ですが、インターネットで「イニエスタ 山手線」と検索すると、吊り革に掴まって普通に電車に乗っている画像が検索されるが、神戸でも電車やバスに乗って移動する庶民的な生活をするのかなぁ。三木谷オーナーがさせないかな?


予期せぬ再会

2018-05-24 09:16:05 | 社会

先日、札幌市内でかつて勤務していた会社の上司とバッタリ。

かれこれ18年ぶりの予期せぬ再会。お互い、すれ違うなり、どちらともなく声をかけ合い、お互いの近況を立ちながら話した。5分くらいは話したかな?

正直、その上司のことは嫌いだった。今で言うところのリーダーシップに欠如し、結果のみでぐちゃぐちゃ言うタイプ。加えて粘着質(変なところがしつこい)を持っている厄介な上司だった。私だけでなく、同僚からも疎ましがられていた(と思う)。

でも酒が入ると一転し、ダジャレ好きなおやじだったから、こちらがホントの彼なんだろうと思っていました。ただ愚痴が多いのは雰囲気を悪くするから嫌でしたね。

私が転職のため、退社してからも、生活圏が重なっていたのか、年に数回はすれ違う機会があったが、今世紀に入ってからはそういう機会はなくなっていた。

私が退社してから数年後、その会社は競合他社に吸収され、当時の上司や同僚たちはその会社を去っていく。その後、大変な状況に追いやられた人たちもいたと聞いていたが、この上司もそのうちの一人。

そのせいもあってか身体を壊したとかで、満足に仕事をするのもままならないと、かつての同僚なら何となく聞いてはいた。

久しぶりに予期せぬ再会を果たすと、幾分痩せたようで、見た目は年齢以上におじいちゃんになっていた。年齢は74歳になるという。でも現在の体調は良いみたいで、普通に暮らしているとのこと。

お互いの近況を軽く話し、連絡先も交換した。来月か再来月の札幌滞在の時にお茶でもしながら、昔話をしたいもんだね。これもまた何かの縁なのかも。

昔は嫌いだったが、時間が経つと、その気持ちも薄らぐこともあるもんですね。それだけ、こちらも齢を重ね、気持ちが落ち着いてきたのかもしれません。

 

 

 


地下化へ

2018-05-23 06:19:44 | 社会

TBSニュースより。

東京・中央区の日本橋の真上を通る首都高速道路について、国土交通省の検討会がおよそ1.8キロメートルの区間を地下化する案をまとめました。

首都高は1964年に建設され、老朽化が目立つことや日本橋の真上を通り景観を損なうと指摘されていて、去年から地下化に向けて具体的な検討が進められてきました。22日行われた国土交通省や東京都などの検討会で、神田橋ジャンクションから江戸橋ジャンクションのおよそ1.8キロメートルを地下化するルート案が決まりました。

日本橋周辺には地下鉄や上下水道が通っているため難しい工事とされますが、当初の計画よりも地下区間を短くすることで費用は圧縮されることになります。検討会では、今年夏ごろに費用の総額や分担の方法について議論する予定です。<了>

ついに地下化へ向けた動きが具体化しそうですね。やはり首都高に蓋をされた日本橋は見るに堪えないものがありますし。ただ建設は2020年以降(東京五輪後)になりそうだから、完成は早くて2025年ころか?もしかしたら2030年ころになるのかも。その前に費用分担などの問題もあります。

ps、江戸東京博物館の話題は少し間隔を空けて、再度ご紹介します。 


シンプル

2018-05-22 06:41:30 | スポーツ

1964年の東京オリンピックのポスター。

極めてシンプルな構図でわかりやすい。また今見ても古さを感じない普遍的なデザインだと思います。

あれこれ言わなくてもメッセージ性があり、インパクトもある。素晴らしいですね。

2020年大会のポスターはどうなるのだろうか?


街頭テレビ

2018-05-20 06:47:32 | メディア

江戸東京博物館にあった街頭テレビ。

わが国のテレビ放送は、1953年(昭和28年) 2月にNHKがテレビの本放送を開始。その年の8月には民放でも放送が開始されます。

しかし、放送開始直後のテレビ(受像機)は大変高価なもの。本放送の前年に発売された松下電器製のテレビ第一号機(17インチ白黒)の価格は29万円。当時の高卒・国家公務員の初任給が5400円だったといいますから、その約50倍以上もした超高級品だったのです。

現代だと750~800万円相当に値します。ざっくりいえば高級車(輸入車)の価格ですね。

当時テレビは一般庶民にとって高根の花。これでは視聴者数が増えず、民放では番組に対するスポンサーが見込めません。

そこで、当時日本テレビ放送網の社長だった正力松太郎氏は、1つの作戦に打って出ます。それがこの「街頭テレビ」でした。

民放のテレビ本放送がはじまる10日前から、関東各地のデパートや駅、公園など人の集まる場所に街頭テレビを設置し始めます。

設置されたテレビのサイズは17型〜27型だったので、家庭用のサイズと変わりません。しかし、道行く人々は足を止め、人混みをぬうようにして街頭テレビに食いつきました。

テレビ受像機を販売する前に「テレビが面白い!」という体験を先に提供したこの作戦は大当たり。テレビを楽しむ人々は爆発的に増えていきました。

街頭テレビで、大相撲やボクシング、プロレスなどが放送されると観衆は大興奮。1954年(昭和29年)に放送された初のプロレス中継。大相撲出身の力道山と柔道の木村政彦コンビがアメリカのシャープ兄弟に立ち向かったタッグマッチは大きな評判を呼び、東京・新橋駅前の街頭テレビには約2万もの人が詰めかけたといいます。

夢と希望に満ちた戦後の時代。当時テレビは夢のメディアでした。

それから60年余り、大きく時代は変わりました。