歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

水戸 「謎の中華そば屋」は!?

2007年05月21日 | 街の風景
昨日の続きです。

今回で、「水戸シリーズ」は「最終回」となります。

「水戸大工町三業組合」の「行く末」を「思慮」つつ、ペダルを漕いでいると、広い交差点に差し掛かりました。

信号機の手前の標識に、「←方向」に「偕楽園」の文字が見えて来ました。一旦は直進して、渡った先で自転車を降り、辺りの風景を見回しながら、どちらに行くか暫く迷っていました。



偕楽園方向を眺めていたら、「鳥居」と「木立」が見えたので、一旦、そちらに向かう事に決定。

神社の辺りに来ると、道の反対側に「白ペンキ」の「地」だけで、文字の無い「制作中」のような「不思議」な看板を発見したのです。


よく見ると、暖簾半分には「中華」の「二文字」、隠れている二文字は当然、「民国?」ではなく「そば!」でしょう。


早速、道を渡り店の前に行き、なかの様子を「それとなく」探ってみました。丁度「お婆ちゃん」が「丼」を、一人の男性客に運んでいるところでした。

入り口近くのテーブルでは、女性が二人「ラーメン」を啜っています。50代と20代の「母娘」のようです。

時計を見ると「2時」を少し回っています。これは「何かある!」と思いました。
この時間に「3人の客!」、これは、もしかして?「その道」では「名の通った」名店では? 

店内の様子を見ると、「色あせたテーブル」が4脚、床は「コンクリ」の「打ちっ放し」で薄暗く、すべてが「町はずれ」と云うか、「村はずれ」の「食堂」の趣。

迷いました。『食べるべきか? 食べざるべきか?』 

立ち止まって、店を眺めていては「不審者」と疑われるので、迷いながら偕楽園方向にゆっくりペダルを漕ぎ始めました。

『あれは単なる田舎のそば屋で、この時間に客が入っていたのは単に偶然だ!』

『いゃ。そんなことはない! この時間に、あの客は、ただ者でない!』

『それにしても、先ほど「天丼セット」を食べたばかりで、カロリーオーバーだ!』

『旨いかもしれない! いや。不味いかもしれない? いや。カロリーオーバーだ!』

数十㍍来たところで『よし!喰ってみよう!』引き返しました。店とは反対側の歩道を走り、店の前に来ると、先ほどの「母娘連れの客」と「思われる」二人が、こちらに向かって横断中でした。

額の汗をハンカチで拭いながら歩いてくる二人。
どうしようか?「そばの味」を「聞くべき」か「聞かざるべきか」。

先ほど「店」で食べていた「客」のようでもあり、「人違い」の様でもあり、迷っているうちに二人は通り過ぎて行きました。

『やっぱり。カロリーオバーだから』と思い直し、店の前を通過して、元来た交差点に戻りました。

それで、それでェー何です! 帰宅後に調べたら、「何とです!」「何とやっぱり!」、あの店は「有名店」だったのですよ! 美味しいそうです。

何とです! 「ラーメンが250円」、「チャーシューメンが380円」、何だそうです。大盛りは50円増し。今時信じられない価格設定です。

昼時は行列が出来、チャーシュー麺は午前中で売り切れるそうです。

残念なことをしてしまった。ネットで見つけた写真です、今回は写真で我慢します。

こんなに「行列」が出来るのです。   


これが「250円」の「中華そば」です。 


そして「380円」の「チャーシュー麺」。チョット「しょっぱそう?」


「中華そば」残念でした。店の名前は「すずき」だそうです。「旨い」が先にあるよと云うよりも、先ず「安い!」、そして「そこそこ旨い」と云う店だと思います。

これで、また「水戸」に行きたくなりました。

この次は、二人でホテル一泊コースです。

「まっ赤なハンコ屋」の隣の、渋い「穴とら屋」で、「日本酒」と「鴨料理」を戴き、仕上げに「すずき」で「中華そば」を戴く。二つの店は歩いても10分ほどの距離です。

ホテルも調べてみました。「水戸、鴨料理に日本酒、中華そばを味わう一泊コース」。かなり「お手頃価格」で楽しめそうです。

最終回だったのですが、「中華そば」で話しが長くなりました。
明日が最終回になります。

  

        宜しくね。  




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水戸「大工町三業地」の未来は?

2007年05月20日 | 街の風景
昨日の続きです。

「メインストリート」の50号線を「大工町」まで来たところで、この「水戸大工町三業組合」の看板を見つけました。

「三業地」については、私も「知識」として「聞いた」だけです。実体験は「残念」ながらありません。

会社の旅行で行った温泉旅館の「宴会」で、「芸妓さん」に「お酌」してもらった経験が「二度」あるだけです。

芸妓置屋、待合い茶屋、料理屋の「三業」です。「直接的」な「性産業」の「遊郭」とは異なり、「間接的」で「ゆるやか」に、「性」を伴う「文化風俗産業」と云ったらよいかと・・・・・・思います。

水戸の「遊郭」は駅に近い「宮町」にあったようです。



それで、この下を「くぐって」、それらしき「店」を探して、「ウロキョロ」したのですが、ほとんどが「ヘルス」と「ラブホ」で、「らしき店」は「小料理屋」が数軒あるだけです。

「ヘルス」の前を通過する度に、『お客さ~ん。どうですか~?』と、「やる気」のない声を、何度か掛けられました。


明らかに、「何処で遊ぼうかと物色」している「客」には「見え」ないのでしょう。呼び込みの人も「暇そう」でした。こんな「真っ昼間」から大変です。


夜も、それほど「繁盛」している「様子」はありません。至る所に「廃墟」となった「空きビル」が目立ちました。

大きな「閉鎖されたラブホ」です。「クイーン」が「淋しそうな表情」で「空き地」を見つめています。屋根には「ペンペン草」が生えてます。


非常階段の「赤錆び」が「寂しそう」です。廃業した「ヘルスビル」。


風俗産業は衰退傾向にあるのでしょうか? 

昔は、花街、芸妓、遊郭、花魁、遊女、の世界を描いた「文化」が華やかでした。

芝居に、落語に、浮世絵に、小唄に、都々逸に・・・・・・・。今の「風俗産業」は「文化芸術」とは、ほとんど「無関係」です。

「直接的性交渉」だけとなり、「過程」を楽しむ「余裕」がないので、芸術になりようがない?

性が「裏」から「表」に出てきて、謎めいた「秘め事」から、「明るい営み」になってしまった・・・・・・からでしょうか?

ある一面において「確かに」、世の中は「明るくスッキリ」と「健全化」の方向に流れているようです。

「性」も、健全化の方向にあるようです。「玄人」に頼る必要がなくなり、誰もが、誰とでも「普通」に、「性交渉」を行うことが「可能な環境」になったようです。

世の中は、「表」にあり「明るく」て「良く見える」ものより、「裏」にあり「暗く」て「良く見えない」ものに、「不思議さ」「面白さ」があると思う・・・・・・のですが。

中心部で、開発が始まりました。いったい何が「建つ」のでしょうか? この辺りに「マンション」や「事務所ビル」はありえません。新しい「風俗関連」のビルの筈です。


世の中の「健全化」の「流れ」を堰き止め、新しい流れを「創造」する、「新風俗ビル」が出現? そんな訳ないか?

風俗産業も、「格差拡大社会」、「少子高齢化社会」に対応する「新戦略」が必要のようです。

「水戸大工町三業組合」も「いろいろ」と考えているのでしょうが、しかし、東京の「尾久三業地」のように「消滅」する可能性が高そうです。

それでは、また明日。 
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水戸゛拘り゛の「穴とら屋」と゛拘らない゛「ハンコ屋」

2007年05月19日 | 街の風景
昨日の続きです。

「そばと天丼」に満足して、「メインストリート」を「大工町」方向に、自転車を押し「ウロキョロ」しながら歩きました。

駅前よりも、この辺りの方が昔は「賑やかだった」と思われます。私好みの「景観」になってきました。

ところがです。突然! この「まっ赤か!」な「看板」です。


東京でも「このハンコ屋」は良く見かけますが、これだけ「異様」に「目立つ」のは始めてです。

隣の「穴とら屋さん」の建物が「時代を感じる」いい佇まいなので、より「ハンコ屋」の「異様」さが眼に付きます。

以前は気が付かなかったのですが、この店の「キャラクター」は「水戸黄門風」の「おじいさん」何ですね。

「水戸」と云う事で「黄門」を看板に描いたと思っていたら、全国300店舗の看板に「黄門様」が描かれているようです。

それにしても、困った「ハンコ屋」です。条例で規制するのは「好まない」のですが、ここまで周囲の環境を「破壊」すると・・・・・・。水戸市には「景観条例」はないのでしょうか?

それと、隣にある「穴とら屋さん」何ですが、後で「ホームページ」をみたら、

『築60年の和菓子屋を改装し、迷路のように入り組んだ店内は大正時代を思わせる、どこか懐かしい和みの空間。個室・テーブル・小上がり・離れなど利用目的に合わせておくつろぎいただけます』

と、冒頭にありました。「こだわり」の居酒屋さんのようです。その隣が「こだわり」など「微塵も無い」、只だ「目立てば0K!」の「まっ赤なハンコ屋」です。

「穴とら屋さん」のご主人は、きっと「不愉快」でしょうね。お気持ち「お察し致します。近いうちに覗いてみたいお店です。「鴨」と「そば」と「日本酒」が売り物の様です。ホントに行きたくなって来た!

「穴とら屋さん」の先にある「三菱銀行」です。今は「三菱東京???何とか銀行?」でしたっけ?

さすがに「天下の三菱」です。重厚な造りです。きっと、昔は、この辺りが「町」の中心であったと思われます。他に、常陽銀行、関東つくば銀行が並んでいましたから、昔から銀行は一等地に建ていました。


重厚な造りの先にあった、「うらぶれ感」漂う「伊勢屋さん」です。

昔、三遊亭円生の話しの「まくら」で・・・、

『えー。むかし、江戸の名物と云いますと、「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と申したそうで、この三つが大変に多かったそうで・・・・・・』

・・・を、思いだしました。
関東においては、「饅頭、大福、だんご等の餅菓子と、のり巻き、いなり寿司」を、商う店の「大半」と云うか、9割(そんな感じ)は「伊勢屋」の屋号です。

江戸を「徳川幕府」の「都」にした時に、伊勢の商人も江戸に入って来たそうです。ついでに、水戸にも「この伊勢屋」が入ったのかも知れません。

あまり「繁盛」している様子はありません。老夫婦二人で「細々経営」のようです。

親方から「暖簾分け」をして貰い、若い職人が独立して「嫁さん」を貰い、「店を出し」、それっきり「店」は「そのまんま」と云った感じです。

店のなかに「ピンク色」の小さな「自転車」が見えます。きっと「可愛い孫」が乗るのでしょう。息子か娘夫婦と同居のようです。

この店の様子から、息子は店を継がないで「会社勤め」か、もしかして「市役所」に務めているかも知れません。

昔、「伊勢商人」とは、「けち」、「倹約家」、「吝嗇家」の代名詞だったそうです。きっと「コツコツ」「堅実」な「暮らし」をしているのでしょう。

「伊勢商人」らしい、「清く、貧しく、美しい」伊勢屋の「佇まい」です。


そてと、ここいらで今日は終わります。

明日も宜しくネ。  
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「蕎麦」は「啜って」音を「立てて」食すべし!

2007年05月18日 | 食事の話し
昨日の続きです。

「千波大橋」を渡った先の交差点を直進して、カーブする坂を登り切った処に、「藤田東湖生誕の地」がありました。


駐車場の入り口脇に「ひっそり」と「ちっちゃな」「東湖さん」が立っています。
この方、調べると「かなりエライ方」のようです。

1806年5月4日に生まれて、1855年11月11日に亡くなられています。
「政治家」とか、「学者」とか、「思想家」とか説明されています。藩主「斉昭」の「懐刀」だったようです。

水戸学の大家で、幕末の「尊皇志士」の「思想的リーダー」だったようです。幕藩体制を支える立場の「水戸徳川家」は、「水戸学」という「思想」で「幕藩体制」崩壊の手助けをしたようです。

「体制内改革派」でいたつもりが、いつしか「体制改革派」に「意識的」に加担していたと思われます。

「水戸黄門」も面白いですが、「水戸徳川家」はもっと「面白い」かも知れません。 



それと、「東湖さん」が亡くなった、西暦の1855年11月11日は、旧暦の安政2年10月2日で、この日、「安政の大地震」が発生したのです。

東湖は水戸藩の「江戸藩邸」で仕事をしていために、地震に遭遇し、落ちてきた「梁」から「母」を守る為に、自分の肩で受け止め、母を脱出させ自分は力尽き下敷きとなって圧死したそうです・・・・・・、享年50歳。


「東湖さん」の像を眺めて、路地を左折して「ウロキョロ」と走っていると、「京成百貨店」の脇にでました。何か「新しそう」なお店です。この日は「休業日」でした。

通りの向こうに「水戸芸術館」の「シンボルタワー」が見えました。「このタワー」は、NHK朝のニュース番で、茨城と云うと「必ず」出てきます。

NHK水戸放送局の窓から撮っているのでしょう。近くで見ると「かなりインパクト」があります。異様に輝いています。これが「芸術」何でしょうね。


脇を見ると、「そば屋」らしくない「洒落た感じ」の「そば屋」が眼に入りました。「蕎麦屋」ではなく、「蕎麦処」の文字に「ポリシー」を込めているようです。あまり「込め過ぎると」と、客として「迷惑」ですけどね。


入り口に置かれた「ランチメニュー」を見て、迷わず店に入りました。


喫茶店のような雰囲気の造りになっています。1時を少し回っていた為に、1組3人の客だけでした。ご主人が「私に」出す水を、「ゆっくりと落ち着いた動作」でコップに注いでいます。

こちらは「奥さん」でしょう。
始めてです、そば屋さん「らしくない」店に入ったのは、「キョロキョロ」してしまいました。開店して間もないようです。


たのんだのは「勿論」、「ボリュームセット 850円」の「ミニ天丼セット」です。


これです。「天ぶら」は「カラット」揚がっていました。タレもいい具合の甘辛さでした。「そば」も「香り」と「コシ」があり、太さ、茹で加減も「OK」でした。

ただ残念なのは「ボリューム不足」でした。しかし、これは「私の胃袋」の問題かも・・・・・・知れません。


それと、後から入って来たこの「お嬢さん」なんですが、「そば」を「啜らない」で、「無音」で「口に押し込んで」いました。音を出すのを躊躇っているのです。

いつから「こんな事」になってしまったのでしょうか? これも「グローバルスタンダード」の「弊害」ではないかと思います。

この「尊皇攘夷」の水戸の地においても、伝統的食事作法が「外国文化」により、「抹殺」され始めているのです。「東湖さん」が見たらも「嘆き悲しむ」かも知れません。

いゃ!待てよ! 音を出して「茶漬け」を食べたり、蕎麦を啜るのは「庶民文化」であって、上級武士の「文化」とは「異質」なのかも・・・・・・知れませんね。

まぁ。兎に角、「そば」は「音を出し」て、「啜るべき」だと「おじさん」は「強く強く」主張します。

興奮してしまい失礼しました。

この続きは明日また。失礼しました・・・・・・
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水戸駅「南口側」は「スッキリ!」してます。

2007年05月17日 | 街の風景
昨日の続きです。

「義公生誕の地」を過ぎた辺りから、周囲は「田舎町風景」に変わります。何もありませんでした。

水戸の市街は、駅前から「50号線」に沿って「西方向」に「細長く形成」されています。それ以外の方向は「少し行く」と田舎町となります。

最近は駅の「南口側」の、「桜川」に「平行」する「市役所通り?」が賑やかになってきています。市役所も以前は「北口側」にあったのですが、「南口側」に移転してきたのです。

駅前発展の「交代法則」です。片側が発展して賑わい「地価」が「上昇」し「開発」が止まります。すると、次は「地価」の「安い」反対側に「開発」が移ってきます。

そこで、私も、線路を渡り「反対側」に行く事に決定。「人専用の跨線橋」を自転車担いで登りました。


階段を降りた処で、この看板を発見。「何でしょ?黄門料理?」

後で調べたら、ここの主人が以前「癌」に罹り、「黄門様」の「食事」を研究して、癌を克服したそうです。

主人の「説」では、黄門様も「癌」を患い、「食事療法」で治したそうなんです。その「研究成果」の「料理」が店で食べられるそうです。

「光圀」が「料理」に「関心」があった事は、よく知られていますからね。一時、「ラーメン」を日本で最初に食べたのは「光圀」だとして、「黄門ラーメン」で「街おこし」何て云われた時期がありました。

今は、どうなっているのでしょうか? 今回「黄門ラーメン」の「幟」や「看板」は見かけませんでした。深く静かに「定着」したのでしょうか?

北側の「旧市街」とは異なる「風景」です。


南口の「駅前ロータリー」に入る通りです。


確かに、これから「発展」しそうです。
駅前ビルに、シネマコンプレックスに、事務所ビルに、ファミレスに、コンビニに、マンションに、スーパーに、、ホテルに・・・・・・。

何処の街ちにもある、何処の街でも見かける「風景」が出来つつあります。これが「再開発」であり「活性化」なんです・・・・・・・。

広くて、清潔で、奇麗で、明るくて、スッキリしていて・・・・・・、私としては「面白く」ないですが、「皆さん」は「面白い」と思っているのでしょう。

同じ様な風景の街を見て、同じ様な店で買い物して、同じ様な物を食べて、同じ様な「個性的」ファションをして、同じ様な「家」に住み、同じ様に暮らして行くのでしょうか・・・・・・。『あ~あッ!つまんね~の!』


だんだんと「居心地」の「悪さ」を感じて、反対側に戻りたくなり、地下道でも無いか探していると、線路際でこの看板を見つけました。


水戸の「貨物輸送」は、東京「田端機関区」の「配下」だったのです。田端機関区の「勢力」は「かなりデカイ」ようです。

駅周辺を「いろいろ」行ったり来たりしたのですが、駅前の案内板を見ると、自転車で反対側に行くには「二つのルート」しかない事が判明。

渡って来た「跨線橋」に戻るか、千波湖の美術館前の通りに出て、「千波湖大橋」を渡るルートです。

引き返すのは「面白くない」ので、「大橋」を渡る事にしました。

さ~てと、狭くて、汚れていて、暗くて、ゴチャゴチャした反側に戻ります。その話しは明日です。

  それでは・・・・・・。
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水戸藩は「維新の主役」だった!?

2007年05月16日 | 街の風景
昨日の続きです。

「弘道館」を後に、先ずは一旦、駅前に戻ることにしました。
弘道館前の通りです。右側の「白漆喰の塀」は「三の丸小学校」です。歩道も広くよく整備されています。


塀に沿って右に曲がります。


振り返ると、小学校の正門があり、「案内板」に「三の丸歴史ロード」の看板が見えます。この道を下ると駅前に出ます。


この「歴史ロード」は、かなり「お金」をかけて整備されています。「尊皇攘夷」の「本山」、水戸「弘道館」に繋がる通りですから、横文字カタカナ表記の「ロード」ではなく、ここは「三の丸歴史の道」が相応しいです。


駅前に出て、51号線を大洗方向に行って見ました。ここからは「未体験ゾーン」です。


ビル街が途切れる辺りで、「義公生誕の地」の看板を見つけました。看板の下には、「お城」と「義公」の像が建っています。

「義公」よりも、「高く大きな」お城の「模型」は邪魔ですし、デザインも造りも「情け無い」感じがします。はっきりと云います『お城は要りません!』


看板の「→」に従い「路地」を入ると、小さな「祠」がありました。
『な~んだ。これだけ!?』と云う感じのものです。



この説明文にもあるように、「黄門様」は、水戸の「不朽の傑人」であり、観光の主役です。

それにしては、この「生誕の地」は「扱い方」が「冷ややか」です。通りの「銅像」と「お城」で「予算」を使い果たしたようです。


少し勉強しました。

「光圀」は2代目(1661年 - 1690年)の藩主でした。

初代(1609年 - 1661年) は「家康」の「11男」の「頼房」です。光圀は頼房の3男です。

弘道館の創設者の「斉昭 」は9代目(1829年 - 1844年)になります。

11代目(1868年 - 1869年)が「最後」の藩主で、「斉昭」の「何と!18男」の「昭武」でした。

※斉昭は「勉学」だけではなく「他の方面」も「かなり励んだ」と言うよりも、「かなり過ぎ」ていたようで、その事で「幕府内部」でも「問題」になった人のようです。

徳川御三家の「水戸藩」ですが、一度も「将軍」を出していないのです。最後の将軍「慶喜(斉昭の七男)」も、一旦水戸藩を出て「一橋家」を継いだ後に将軍になっています。

「水戸徳川家」は「中央政界」では「認め」られなかったようです。その不満の「エネルギー」が「大日本史」の「編纂」に向かわせたのかも知れません。


        【偕楽園にある完成記念碑】

この「歴史書」は「光圀」の命(1657年)により着手して、1906年(明治39)完成しているのです。「しぶとい」です。

「大日本史」、「水戸学」、「尊皇思想」は、「幕藩体制」に「対立」するものと考えます。「公武合体論」を唱えても、内心、やはり、御三家でありながら、「水戸藩」は「幕府」を「快く」思っていなかったのでは?・・・・・・と、想像しています。

幕末から明治維新、それに絡む「水戸藩」の動き、これは「面白そう」です。

水戸は「いろいろ」ありそうです。勉強しょうかな?

続きは明日です。 
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水戸「弘道館」で「寝転んで」!?

2007年05月15日 | 建物の話し
昨日の続きです。

本日は、「三の丸庁舎」の裏手にある「弘道館」を見学します。

その前に「小ネタ」を一つ。
それは、庁舎の回りを「ウロキョロ」していた時何です、駐車場の先に「パステルカラー」の「建造物」を見つけました。

外観的には「配水塔」と思われるます。それにしても「色使い」が『チョット!チョット!』と、思うのです。周りの風景からも「浮いて」います。

「圧迫感」を「消す」為の「パステルカラー」なのでしょうか? 何でも「明るく爽やか」にすれば「いいのか?」と、「おじさん」は云いたい!

調べてみたら、「国の登録文化財」で1932年(昭和7年)に造られた「配水塔」でした。


さてと、庁舎の裏口から外に出ると、そこは「弘道館公園」です。梅林を通り、数分で「弘道館」の正門に到着します。


なかなか「立派」な「構え」です。さすが「徳川御三家」、「水戸藩」の「藩校」です。


入館料190円を払い、靴を脱ぎ見学です。
正面玄関から入って直ぐの部屋には、「大きく太い文字」の「掛け軸」があり、「尊皇攘夷」の略語、『尊攘』の文字が飛び込んで来ます。

「尊皇だぁ!」、「攘夷だぁ!」、「倒幕だぁ!」、「佐幕だぁ!」、「新撰組だぁ!」「鞍馬天狗だぁ!」何て、幕末の「チャンバラ物」の世界を思いだします。



「弘道館」は歴史ある「藩校」と思っていたのですが、第9代藩主「徳川斉昭」により天保12年(1841年)に創設されたそうです。

大政奉還が1867年ですから、幕末近くになって創設され、幕府が倒れた後の、明治5年(1872年)に「弘道館」は「閉鎖」されているのです。

たった「31年」の命だったのです「短い」です。私は天下の副将軍「水戸光圀」が造ったのかと思っていました。「黄門様」は「エライ人」でしたから・・・。

これが「正庁の間」と云って、弘道館で「一番の部屋」だそうです。藩主が臨席して「学科試験」が行われたり、庭先で行われた「武術試験」を、ここから見ていたそうです。

床の間の「掛け軸」は「弘道館」の「創設」にあたり、水戸藩士の学者「藤田東湖」が書いた「設立趣意書」の「拓本」だそうです。


この日は、見学者は私一人だったので、案内の録音テープを「寝っ転がって」聞いていました。当時であれば「打ち首」ものでしょう。

しかし、由緒のある、広い座敷にただ一人、「寝っ転がって」当時を偲ぶのも「これまた」いいものです。



寝っ転がりながら「何とはなし」に「畳」を眺めていたら、何と「縁」の模様が「三つ葉葵」なのです。これって「史実」の再現なのでしょうか?

当時も「葵紋」の「縁」であったとしたら、「縁」を誤って「踏んだ」藩士は、処罰されそうですね。大変です!

そういえば何かの本に、「仕来り」とか「作法」として「畳の縁」は「踏んではいけない」何て、書かれていたような気がします。


そうです。恒例の「トイレ拝見」です。
「広い」ですねェ~。畳敷きです、これでは「落ち着かなくて」出る物も出ません。さすが「殿様」の「便所」です。

「使用禁止」の「貼り紙」です。「貼り紙」が無い頃に「使用」した「不届きな輩」がいたのでしょう。なかなか「度胸」が「座った」輩です。

「弘道館」は、幕末から明治にかけての「歴史」を勉強してから見学すると「面白そう」です。

勉強してからまた来ようと思います。

明日からは、水戸の「未体験ゾーン」を「走り」ます。今回は自転車でしたから「行動範囲」が広げられ、「端っこ」も見てきました。

それではまた明日。 

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水戸三の丸庁舎「豪華知事室」と「ベンチの温もり」

2007年05月14日 | 建物の話し
昨日の続きです。

一階は「パスポートセンター」で「それなり」に人の出入りがありますが、2階に上がると人通りは途絶えます。

しかし、見事ですね! この自然石の「床」の「スベスベ感」は、「艶っぽい」です。



自然石の「硬さ」の差が、「摩耗」の差となり「七十有余年の時」が造りだした「滑らか」な「自然の凹凸」、「ひんやり」とした「艶っぽさ」です。



壁に天井の梁、それなりの「装飾」が施されています。



この廊下の静けさ、重々しい「お役所」の「匂い」が残っています。


「明かり取り」にも「それなりの細工」がしてあります。


ここで、いつもの「トイレ見学」です。「普通」のトイレでした、「改修」され「昔の匂い」は「まったく」ありません。

「男子用」は「ブルー」に、「女子用」は「ピンク」に、入り口の壁が塗られ、トイレ「付近」だけ「スーパー」の「店内トイレ」のようでした。

踊り場から見た、トイレの入り口です。

階段の「手摺り」、ホントに「摺り摺り」されて「七十有余年」、「ツルツル」で、「ピカピカ」で、「スベスベ」でした。

正面階段と異なり、左右両翼の「脇階段」は「材質」を落としています。大理石ではなく、「自然石」を「混ぜた」、「コンクリート製」です。


三階の廊下は「陽射し」が入り「明るく」なります。


この「コーナーベンチ」が「可愛い」のです。コンクリートの中の自然です。「木」の「温もり」があります。

2階と3階の「一カ所」だけにあり、このベンチに座ったら「何故か?」「餡パン」が食べたくなりました。


この部屋は「NHK文化センター」が使っているのですが、最上階で、正面から一番奥まった位置にある事、そして、「金色」に輝く「壁布」から、間違いなく「知事室」だったと思います。


「白漆喰?」で、「細工」された「天井」です。


どうです! この「豪華」な「壁布」、「何とか?織り」何て云う「由緒正しい」織物何でしょうね。

「ギリシャ」とか、「ペルシャ」とか、「ヘレニズム」とか、「メソポタミヤ」とかの、そんな歴史のある「紋様」なんでしょうねきっと。

昔、東映か何かの「映画」で観た、「御前会議」の「部屋」を思い出しました。

帰宅後に写真を見ていて「発見」したのですが、壁に「電光板?」が取り付けられていました。

拡大して見たところ、左から「議長」、「副議長」、「議会事務局長」、「土木部長」のところまで、判読できました。

「名札」の上に「ランプ」が取り付けられています。多分、在籍しているときはランプが「点灯」するのでしょう。

これで、この部屋は間違いなく「知事執務室」だったと「断定!」します。

三の丸庁舎、なかなか面白かったです。


明日は「弘道館」です。 それでは・・・


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水戸三の丸庁舎の「ネオゴシック」と「内部抗争?」

2007年05月13日 | 建物の話し

昨日の続きです。

さて、内部を見学します。チョットその前に「ゴシック建築」のことが「少し気に」なって、チョコット調べてだのですか、よく分かりませんでした。

「教会」とか「大聖堂」とか、高くて「尖った塔」があって、「過剰装飾」の建物って感じなのですが、それを「ゴシック建築」と云うのは「何とか分かる」のですが、この県庁舎が「ゴシック」と云われると「?」ですね。

この県庁舎を「設計」したのが、『置塩 章 (おじお あきら)』と云う人で、大正から昭和初期に関西で活躍し「公共の建物」を多く手がけた建築家だそうです。

「ネオ・ゴシック様式」だそうです。現在残っている代表作は、神戸市の「旧国立生糸検査所」と、茨城県庁舎だそうです。


そっくりですねェ!「検査所」は昭和7年竣工ですから、「県庁」の2年後となりますが、ほぼ同時進行に近いです。「ネオゴシック様式」だそうです。

どこら辺りが、「ゴシック」で、どこら辺が「ネオ」なのでしょうね。この頃は、「構造、意匠、設備」全て一人で設計したのでしょうか? 

素人考えですが、一回設計した後は、「敷地と規模」に合わせて「縦・横・高さ」の寸法を少し「いじれば」「OK」みたいに思えます。

まぁ。兎に角です!「建築様式」はあまり関係ないです、「分類」したところで「何も」変わらないですからね。

兎に角です! 楽しいです「旧県庁舎」は、「少しカビ臭く」て、「薄暗く」て、「ひやっと」して、「懐かしく」て、「趣き」があって、なかなか「面白い」ですよ。


玄関ですね。ここは「まあ。そうか」と云う感じです。


入って直ぐの正面ホールと階段。思ったよりも「少し狭い」感じがします。しかし、階段、手摺りには「大理石」が使われています。

茨城県は大理石の産地だそうです。どの辺で採れるんだろう?


踊り場から見た、一階のホールの床は「モダン」です。


この階段の「手摺り」と、「支柱?」「欄干?」って云うのか「どっしり」として「とてもイイ」です。


多くの人の「手」で「擦られ」て、「ツルツル・ピカピカ」になった「石の表面」に「時の流れ」を感じます。「ランプシェード?」も「似合って」います。


ところで、この「三の丸庁舎」何ですが、一階にある「パスポートセンター」を除いては、役所と云うより「関連団体」の「雑居ビル」のようでした。

「観光協会」とか、「NHK文化センター」とか、「茨城大学広報室?」とか、「大好きいばらき県民会議」とか、「茨城県高度情報化推進協議会」とか、そんな組織が事務所を構えています。

それで、この入り口の「案内板」の「無秩序」な「林立」何ですが、「関連団体」の「激烈」にして「陰険」な「抗争」の存在を「窺わせる」のです。

「いばらきサポートセンター」の前に「NHK文化センター」が立ち塞がり、その前に「茨城県観光協会」が立ち塞がり、またまたその前に「大好きいばらき県民会議」が立ち塞がっているのです。

一段ずつに「案内板」を置けば、全てが見えて「来館者」には「有り難い」のですが、何故か互いに「他の団体」の「案内板」を「見せまい」としているのです。
きっと「何か!」あるに違いないです。

善意に考えると、単に「清掃」の際に「じゃま」だったので、作業者が一カ所に集め、清掃終了後に「元に戻す」のを「忘れた」とも考えられますが・・・・・・。

話しが逸れてしまった。

続きは明日また・・・・・・・・・ 

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水戸「三の丸庁舎」は「裏」がイイ!

2007年05月12日 | 建物の話し
昨日の続きです。

これが「旧県庁本庁舎」です。この佇まい「なかなか」でしょう? 1930年(昭和5年)竣工です。


現在は「三の丸庁舎」と呼ばれています。この距離、この角度も「なかなか」です。「レンガ張り」の近世ゴシック建築です。

どう見ても「4階建て」なのですが、どの解説を見ても「3階建て」となっています。何故なんだろう? いつか調べなければ。


この玄関は、真に「お役所的」で、「重厚」と云うよりも「威圧的」です。しかし、この威圧感も「懐かしい」のです。


知事はこの「車寄せ」に「黒塗り」の「高級車」を横付けし、秘書課長か何かに「ドア」を開けさせ、守衛の敬礼を受け「登庁」したのでしょう。


正面玄関は「スッキリ!」で「遊び」がありません。まぁ。この先の「ホール」に「注意」を引きつける為の演出かも知れません。


玄関から外の眺めです。これも「スッキリ!」です。


直ぐに内部を見たいでしょうが、ここは「我慢」して頂き、裏側の入り口です。外観は「裏側」らしく「控えめ」なデザインです。


この内部の「色使い」が気に入っています。私がガラスに映っています。


壁の上部から天井の「白」が「イイ!」です。


「灰色」がかった「薄緑の自然石」、表面の「質感」がとてもいいです。そして、上下の「黒のタイル」が、空間全体を引き締めています。


裏側には「ホール」が無い分、この玄関回りに「ちから」が入っています。やっぱり、私の性格上「表」よりも「裏」に「惹かれる」ようです。

「華やか」な「表側」よりも、「寂しさ」漂う「裏側」に「こころ」が動きます。

ありました!「寂しさ」漂う、赤く「錆びた」蝶番が!「真鍮製」ではなく「鉄製」です。昭和5年から「そのまま」の様に見えます。



さてと。これから「内部」に入って行きます。

内部の話しは「明日」です。宜しくネ!
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