仕事始めはやっぱり大変でした。まず、朝起きることが出来ません。目覚ましのおかげで目こそ覚めたものの、蒲団から出る気がしないのです。そのうちにうとうと2度寝してしまってたりして、ようやく起きたのはもう家を出ないと遅刻確実というギリギリの時間。ただ幸いだったのは、まだ世間は正月休みの最中なのか、道路に車があまりなく、普段は渋滞して動かないところもスムーズに通過できた事です。おかげで、思ったよりも早めに到着することが出来ました。まあこんな幸運は今日まででしょうから、今夜こそ早く寝て、明日に備えないといけません。
さて、朝日新聞というのは面白い新聞で、時折「何でこんな物を?」と言うような記事を一面トップに持ってきたりしてくれます。今朝職場でみたそれには、「旧満州国の中央銀行が阿片専売制に資金提供」という資料が中国の公文書館から見つかった、と書いてありました。まあ近現代史的にはそれなりに価値のあるニュースなのかも知れませんけど、仮にも大新聞の1面トップを堂々と飾るだけの価値があるのか? と、私は首を傾げざるを得ません。しかもその記事は、満州国中央銀行が阿片専売制度確立に重要な役割を果たしていたことが明らかになった、と断言しております。一人の学者が公文書館から文献を発掘したからと言って、それがそう言い切るだけの学術的根拠になりうるのでしょうか? 私は人文科学の世界はほとんど判りませんが、資料がありました、これこの通りでこれから見るとこういうことが言えます、と出されたものが、何の批判も検討もされず、そうですか、それは素晴らしい成果です! と認めてもらえるような世界なのでしょうか? もし本当にそんな世界なら、私は今すぐ自然科学から人文科学へ籍を替えたいと思います。そんな簡単に自説を公認してもらえるんだったら、こんな楽なことはありません。
でも、いくら人文科学が実験も追試も出来ないからと言って、実際にはそんな簡単でいい加減なことは無いはずじゃないか、と私は考えます。特に歴史関係では、考古学会がかつて旧石器の捏造によって手痛い目を見ていたりもするのですから、歴史学でだって、発掘した、とされる資料その物に対する検討や批判、その内容の解釈についての討論など、もっと真剣かつ厳密に行われていてもいいんじゃないでしょうか? 記事の内容に臭うある種の偏向性も気にはなりますけど、それ以上に自分達の主張に合致するからと、何の躊躇いもなく全面的に一つの学説を支持して見せる無邪気さに危うさを覚えます。それこそかつて日本を誤らせた一方的なものの見方の典型のように感じられるのですよ。
さて、朝日新聞というのは面白い新聞で、時折「何でこんな物を?」と言うような記事を一面トップに持ってきたりしてくれます。今朝職場でみたそれには、「旧満州国の中央銀行が阿片専売制に資金提供」という資料が中国の公文書館から見つかった、と書いてありました。まあ近現代史的にはそれなりに価値のあるニュースなのかも知れませんけど、仮にも大新聞の1面トップを堂々と飾るだけの価値があるのか? と、私は首を傾げざるを得ません。しかもその記事は、満州国中央銀行が阿片専売制度確立に重要な役割を果たしていたことが明らかになった、と断言しております。一人の学者が公文書館から文献を発掘したからと言って、それがそう言い切るだけの学術的根拠になりうるのでしょうか? 私は人文科学の世界はほとんど判りませんが、資料がありました、これこの通りでこれから見るとこういうことが言えます、と出されたものが、何の批判も検討もされず、そうですか、それは素晴らしい成果です! と認めてもらえるような世界なのでしょうか? もし本当にそんな世界なら、私は今すぐ自然科学から人文科学へ籍を替えたいと思います。そんな簡単に自説を公認してもらえるんだったら、こんな楽なことはありません。
でも、いくら人文科学が実験も追試も出来ないからと言って、実際にはそんな簡単でいい加減なことは無いはずじゃないか、と私は考えます。特に歴史関係では、考古学会がかつて旧石器の捏造によって手痛い目を見ていたりもするのですから、歴史学でだって、発掘した、とされる資料その物に対する検討や批判、その内容の解釈についての討論など、もっと真剣かつ厳密に行われていてもいいんじゃないでしょうか? 記事の内容に臭うある種の偏向性も気にはなりますけど、それ以上に自分達の主張に合致するからと、何の躊躇いもなく全面的に一つの学説を支持して見せる無邪気さに危うさを覚えます。それこそかつて日本を誤らせた一方的なものの見方の典型のように感じられるのですよ。
