今日は所用で京都まで車で出かけておりました。前日の天気予報では雪の懸念もあったため、少々不安を抱えてのドライブでしたが、山の方に少し雪が溶け残っているばかりで、道中は全く問題ありませんでした。もっとも、今夜からまた寒波襲来で天気が荒れるそうなので、本当に運が良かったのだな、と思います。
さて、京都ー奈良間を走るときいつも思うのは、両者の格差です。京都は着々と新しい高速道路を建設したりして往来の便を図ろうとしており、ひと頃に比べて著しく走りやすく、かつ早く行けるようになりました。一方奈良県はと言うと、一応それなりに工事も進めて多少便利になりつつあるのですけど、京都の状況を見るとまるで未開の土地並に遅れているように思えます。作っている道路の見栄えも京都の方が美しいように感じられるのははたして気のせいでしょうか? どう言うわけか、総じて奈良の方が田舎じみて見えてしまうのです。どちらも我が国を代表する歴史ある土地柄ですのに、道一つとっても何故こんな格差が生じてしまったのか、考えてみると不思議です。平城京が数十年しか持たず、今や何もない野原になってしまっているのに対し、平安京が拡張を続けて千年以上たった今も日本を代表する大都市として活動しているという活力の差が、如実に現れているのでしょうけど、その差がいつどのように生じたのか、と言うよりも、逆に言えば、どうして奈良のような土地にかつて日本を支配した中央政権が誕生したのかと言う方が、よほど不思議と言えるのかも知れません。例えばわざわざ宮崎から大阪経由で挑戦して一度は失敗し、それでも諦めずにわざわざ紀州から山越えでやって来るほどの執念を見せた初代天皇は、一体この場所に何を求めていたのでしょう。政争に敗れて京都を追い落とされた後醍醐天皇が、京都政権の向こうを張ってわざわざ奈良県の山奥に南朝を営んだのは、一体何に惹かれて拠点と定められたのでしょう? かつての大和の国には、それほどの有形無形の何らかの宝があったということなのでしょう。ではそれが何なのか、そして、いつ失われてしまったのか。神倭磐余日子尊の東征は単なる伝説なのかも知れないですけど、その伝説を生み出すだけの「何か」がこの大和の地にあったのは確かなわけで、実際に大和朝廷から平城京に至る文化と権力の中枢だった時期もあったのですから、何かあったのは違いないと思うのです。
今や近畿でも一人発展から取り残された感のある奈良県ではありますが、そういう歴史的経緯を今一度反芻し、かつての栄光の源泉が何であったのかを真摯に考え発掘を試みるのもよいのではないかと思います。そういう発想に基づいた考えが行政のトップにあったなら、石舞台壁画の無惨な姿も、ひょっとしたら無かったかも知れませんし。
さて、京都ー奈良間を走るときいつも思うのは、両者の格差です。京都は着々と新しい高速道路を建設したりして往来の便を図ろうとしており、ひと頃に比べて著しく走りやすく、かつ早く行けるようになりました。一方奈良県はと言うと、一応それなりに工事も進めて多少便利になりつつあるのですけど、京都の状況を見るとまるで未開の土地並に遅れているように思えます。作っている道路の見栄えも京都の方が美しいように感じられるのははたして気のせいでしょうか? どう言うわけか、総じて奈良の方が田舎じみて見えてしまうのです。どちらも我が国を代表する歴史ある土地柄ですのに、道一つとっても何故こんな格差が生じてしまったのか、考えてみると不思議です。平城京が数十年しか持たず、今や何もない野原になってしまっているのに対し、平安京が拡張を続けて千年以上たった今も日本を代表する大都市として活動しているという活力の差が、如実に現れているのでしょうけど、その差がいつどのように生じたのか、と言うよりも、逆に言えば、どうして奈良のような土地にかつて日本を支配した中央政権が誕生したのかと言う方が、よほど不思議と言えるのかも知れません。例えばわざわざ宮崎から大阪経由で挑戦して一度は失敗し、それでも諦めずにわざわざ紀州から山越えでやって来るほどの執念を見せた初代天皇は、一体この場所に何を求めていたのでしょう。政争に敗れて京都を追い落とされた後醍醐天皇が、京都政権の向こうを張ってわざわざ奈良県の山奥に南朝を営んだのは、一体何に惹かれて拠点と定められたのでしょう? かつての大和の国には、それほどの有形無形の何らかの宝があったということなのでしょう。ではそれが何なのか、そして、いつ失われてしまったのか。神倭磐余日子尊の東征は単なる伝説なのかも知れないですけど、その伝説を生み出すだけの「何か」がこの大和の地にあったのは確かなわけで、実際に大和朝廷から平城京に至る文化と権力の中枢だった時期もあったのですから、何かあったのは違いないと思うのです。
今や近畿でも一人発展から取り残された感のある奈良県ではありますが、そういう歴史的経緯を今一度反芻し、かつての栄光の源泉が何であったのかを真摯に考え発掘を試みるのもよいのではないかと思います。そういう発想に基づいた考えが行政のトップにあったなら、石舞台壁画の無惨な姿も、ひょっとしたら無かったかも知れませんし。
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