今朝の奈良市の最低気温は6.1℃、最高気温は12.3℃、五條市の最低気温は4.9℃、最高気温は10.6℃でした。今日は朝からくもり空で時折雨が降っていたようですが、アメダスの観測拠点は、南部の山の仲を除いて降水量が記録されていませんでした。橿原市の記録でも、雨は観測されていないようです。雨が弱すぎて雨量として観測できなったのでしょうが、目の前で降っているのに雨量0、と記録されるのはなんとも不思議な気がします。ちなみに花粉は、どうやらこちらでもピークを迎えつつあるようです。雨はこれから明日の朝まで降り続くようですが、雨上がりの明日午後や明後日に一体どれほどの飛散量に達するのか、戦々恐々として迎えるよりありません。
さて、ネットニュースを観てましたら、戦前、無着陸飛行距離と無着陸飛行平均速度で世界記録を樹立した東京帝国大学航空研究所の実験用飛行機「航研機」が羽田空港の滑走路下に埋まっている、という話がありました。航研機についてググってみましたら、全長14.6m、全幅28mという主翼が異様に長い機体で、その長大な主翼に大量のガソリンを積み込み、沈頭鋲の採用など空気抵抗を抑えるための工夫やエンジンの燃費効率をアップするための工夫を凝らして作り上げた、当時我が国にあった航空技術の粋を凝らして建造された飛行機でした。時に昭和12年(1937年)5月13日から15日にかけて、62時間22分49秒飛行し、その航続距離は1万651キロと11mに及び、当時の世界記録を更新したとのことです。昭和12年は後に戦争を通じて我が国の主力戦闘機となた零式艦上戦闘機開発のための「十二試艦上戦闘機計画」が示された時で、我が国の航空技術が飛躍的に伸びつつあった時期と重なりますが、それでも未熟な部分も多々あったはずの当時の技術で世界記録を樹立し得たというのは実に素晴らしいことです。
ところが羽田に保管されていた実験機は、戦後すぐに進駐してきたアメリカにより「軍用機」とされて廃棄処分されました。当時の羽田飛行場の近くには「鴨池」という池があったそうで、ここに航研機他多くの飛行機が捨てられ、上から埋め立てられたのだそうです。爆弾を積めるものでもなし、偵察ができそうな構造でもなし、もちろん空戦などできようはずもない、その形状を見れば素人でも「戦う」ための飛行機ではないことなどすぐに分かりそうなものですが、それを一顧だにせずゴミとして処分した当時の進駐軍のやりようには度し難さを覚えますが、戦後飛行機の製造開発研究を全て禁止したことを思えば、いかなる理由であれ保存する、なんてことはあり得なかったのでしょう。それに、そうやって飛行機畑の優秀な人材が解き放たれて自動車産業などに散らばったをからこそ、今の我が国があると言っても過言ではありませんから、航研機の犠牲は必然であったのかもしれません。
しかし、それが羽田空港の滑走路の下に埋まっているとは知りませんでした。今更発掘などできようはずもありませんが、せめて次に羽田に降りる時は、この下にかつて世界一に輝いた飛行機が埋まっているのだな、と思い出せたら良いなと思います。
さて、ネットニュースを観てましたら、戦前、無着陸飛行距離と無着陸飛行平均速度で世界記録を樹立した東京帝国大学航空研究所の実験用飛行機「航研機」が羽田空港の滑走路下に埋まっている、という話がありました。航研機についてググってみましたら、全長14.6m、全幅28mという主翼が異様に長い機体で、その長大な主翼に大量のガソリンを積み込み、沈頭鋲の採用など空気抵抗を抑えるための工夫やエンジンの燃費効率をアップするための工夫を凝らして作り上げた、当時我が国にあった航空技術の粋を凝らして建造された飛行機でした。時に昭和12年(1937年)5月13日から15日にかけて、62時間22分49秒飛行し、その航続距離は1万651キロと11mに及び、当時の世界記録を更新したとのことです。昭和12年は後に戦争を通じて我が国の主力戦闘機となた零式艦上戦闘機開発のための「十二試艦上戦闘機計画」が示された時で、我が国の航空技術が飛躍的に伸びつつあった時期と重なりますが、それでも未熟な部分も多々あったはずの当時の技術で世界記録を樹立し得たというのは実に素晴らしいことです。
ところが羽田に保管されていた実験機は、戦後すぐに進駐してきたアメリカにより「軍用機」とされて廃棄処分されました。当時の羽田飛行場の近くには「鴨池」という池があったそうで、ここに航研機他多くの飛行機が捨てられ、上から埋め立てられたのだそうです。爆弾を積めるものでもなし、偵察ができそうな構造でもなし、もちろん空戦などできようはずもない、その形状を見れば素人でも「戦う」ための飛行機ではないことなどすぐに分かりそうなものですが、それを一顧だにせずゴミとして処分した当時の進駐軍のやりようには度し難さを覚えますが、戦後飛行機の製造開発研究を全て禁止したことを思えば、いかなる理由であれ保存する、なんてことはあり得なかったのでしょう。それに、そうやって飛行機畑の優秀な人材が解き放たれて自動車産業などに散らばったをからこそ、今の我が国があると言っても過言ではありませんから、航研機の犠牲は必然であったのかもしれません。
しかし、それが羽田空港の滑走路の下に埋まっているとは知りませんでした。今更発掘などできようはずもありませんが、せめて次に羽田に降りる時は、この下にかつて世界一に輝いた飛行機が埋まっているのだな、と思い出せたら良いなと思います。