議会改革特別委員会の視察から帰ってきました。
移動の時、列車を待ちながらふと思ったことなのだけど、人は自分が必要と考えない限りは、取り組みへの動きは遅いものなのだろうなと。
ある意味、あたりまえの感想なのかもしれないけれど…
たとえば、自分がある列車に乗る予定でいたら、時間も気にするし、乗り口も気にしているはずで、構内放送にも耳を傾けていると思う。なぜなら、乗れなければそれは自分の責任だから。
けれど人数が増えると、誰かがしてくれるだろうとか、みんなと同じようにしていればいいとか、結局、変な意味で集団での行動に安住してしまう。
乗れればいいじゃないかという感じで。
もし、ある列車に乗るときに、乗り口のところにちゃんと立っていなかったり、駆け込み乗車をしたりするようだったら、列車に乗せてもらえないとしたら、集団で行動していても、変な意味で安住することはないと思う。
ひとりひとりの個人が、それぞれに時間を気にして、乗る場所についても意識して、そのために構内放送にも耳を傾けてというように、その結果、みんなが同じ行動をしているということになるんだと思う。
議会改革について、同じようなことじゃないかなと、列車を待ちながらぼーっと思ってました。
移動の時、列車を待ちながらふと思ったことなのだけど、人は自分が必要と考えない限りは、取り組みへの動きは遅いものなのだろうなと。
ある意味、あたりまえの感想なのかもしれないけれど…
たとえば、自分がある列車に乗る予定でいたら、時間も気にするし、乗り口も気にしているはずで、構内放送にも耳を傾けていると思う。なぜなら、乗れなければそれは自分の責任だから。
けれど人数が増えると、誰かがしてくれるだろうとか、みんなと同じようにしていればいいとか、結局、変な意味で集団での行動に安住してしまう。
乗れればいいじゃないかという感じで。
もし、ある列車に乗るときに、乗り口のところにちゃんと立っていなかったり、駆け込み乗車をしたりするようだったら、列車に乗せてもらえないとしたら、集団で行動していても、変な意味で安住することはないと思う。
ひとりひとりの個人が、それぞれに時間を気にして、乗る場所についても意識して、そのために構内放送にも耳を傾けてというように、その結果、みんなが同じ行動をしているということになるんだと思う。
議会改革について、同じようなことじゃないかなと、列車を待ちながらぼーっと思ってました。