鈴鹿市議会議員 中西だいすけの活動日誌

鈴鹿市議会議員として年齢も含め5期目のベテランになりました。日々の活動や感じたこと、議会での動きなどをつづります。

南相馬 ~ 考えてみてください

2013年05月17日 02時14分50秒 | Weblog

この図を見てください。
左は、福島第一原発で発電施設が爆発して飛散した放射性物質の状況を示したものです。緑の反円部分は20キロのラインですが。
右は、福島第一原発からの距離、20キロと30キロを示している線です。

これらの地図、同じ意味なんでしょうか?

左の地図はもう起こってしまったこととその結果。
右はまだ作業が進行中の施設からの距離。

ここからは個人的な考えです。

左の地図は、福島第一原発でなにかが起こった時、放射性物質が飛散する距離を表している。風向きが少し違えば、同じくらいの範囲で拡散するということの証拠なのではないでしょうか。
右の地図は、拡散した場合に影響がある範囲を示している。

ということは、どちらの地図にも書かれている‘避難指示解除準備区域’ですが、本当に大丈夫と言えるのでしょうか。

たしかに、市街地や集落では除染作業などで空間線量が下がり、緑色で示されている区域でも、日常生活をしても問題ないであろう線量になりつつあるのでしょう。

が、まだ問題がとても解決したと言えない福島第一原発の状況の中で、本当に安心して住める状況なのか、リスクがほとんどないと言えるのかといえば、誰もそんなことはとても言えないのではないでしょうか。

私も、南相馬市に行ったときは、もしものことをある程度想定していました。大きな余震があって、もし建屋が大きなダメージを受け、待機中に大量の放射性物質がまき散らされたらなどということをです。

次の1分…大丈夫だろう、1時間…それも大丈夫だろう、1日…大きな余震があったら、10年…建物は持つんだろうか。。。

そう考えると、政治の責任は重いと思います。
国や県の役人はもちろんですが、国会も県議会も真剣にそこに住む人のことを考えなければいけないと思います。

今の大人の世代は、福島第一原発周辺で生まれ育った次世代のふるさとを奪ってしまったのではないでしょうか。
これまでの多額の補助金や補償金の話があるとしても、それは大人の世代だけの話。子どもたちにもそれを背負わせてしまうのは、大人の無責任ではないかと思います。

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南相馬 ~ 中川議員との話

2013年05月17日 01時28分41秒 | Weblog

南相馬市の中川議員のご自宅から、海の方に向いた写真になります。津波の際はここまでがれきや、それとともに自動車や御遺体が流れ着いたそうです。中川さんとお話をしていて、その光景が心に影を今も落としていることを、お話しされる表情から感じました。
写真に写っているヤギは、癒されるかと思って飼っているとのことでした。

当日は、冷たい海風が吹く天候で、震災前は海岸線に松林がありこのような風は吹いてこなかったとのことでした。海風は、伊勢湾岸の潮風とはまた違った匂いで、はじめ匂いを嗅いだ時、金属臭のようななんとも言えない感じでした。

さて、本題に入る前に地図で確認を少し整理を。
(地図をクリックして拡大してください)

南相馬市は3つの自治体が震災の5年前に合併してできた都市です。北部から鹿島区、中央部に原町区、南部に小高区となっています。
地図中の青い点線がそれぞれの区を分ける線になっています。また、この線のところは小高くなっていたりしていて、3つの平地として分けていることにもなっています。

ここでお気づき頂けるかと思いますが、この区を分ける境界、行政的な観点での境界も、地形的な境界も、ほぼ福島原発からの距離の線と重なっているのです。30キロのラインは鹿島区と原町区を、20キロのラインは原町区と小高区をほぼ分ける形になっています。前に書きましたが、この線によって、いろいろなことが変わってしまう線が、もともとのまちの境界とほぼ重なってしまっていることが問題になっているのです。

写真は中川議員のご自宅の中、津波の際は1階に海水が押し寄せ、中の家財道具などが流されてしまったとのことです。

中川議員はざっくばらんに感じたことも含めてたくさんお話しいただきました。ここには私がその場の会話をメモしたものを転記させて頂きます。ですので、ご本人が話された内容を詳細に書いているのではありませんので、ご了承ください。

・ 津波だけなら復興できただろうが、原発事故で難しくなった。
・ 住民投票で合併が選択されたにもかかわらず、合併が失敗だったという人もいる。人間関係が非常に難しい。
・ 鹿島区の仮設住宅に小高区の方が居住しているが、津波で被災した鹿島区の避難者と、東電からの補償が小高区だけということで問題が。
20キロと30キロの線引きをされたことが住民分断の原因。同じ地区でもその線が問題になる場合が。避難勧奨区域内でも同様のことが。
・ まち自体がダメになる。
・ それまでは仲良く暮らしていた同居世帯が、避難を機に家族バラバラになってしまったことも。
・ 市内に働く場所はあるが、避難した人には働く場所がないというミスマッチ。
・ 市内に働く場所があっても、有期雇用で正規ではない。
・ ゴミの焼却について、生活ごみについて大きな課題がある。
・ 震災直後は自己犠牲の精神が住民にあったように思うが、エゴが出てきている。
・20キロ圏内への居住は困難だろう。
「震災でわかったのは、国も県もなにもしてくれない」
・ 2年経っても、どこから手をつけていいかわからない。
・ 国から役人を課長職等に据えている。
・ 職員の中でも避難して転居した人がいる。
・ 対策本部で議員はオブザーバーであり発言できなかった。
・ せめて議長を対策本部に入れるべき。
・ 各地区で議員は突き上げを食らった。
・ 議員は避難所や体育館で活動していたがバラバラであった。
・ 避難所から逃げ出す人もいた。気を使ったのか、夜中にいなくなったりした。
・ 職員派遣は期間が短いと、受け入れ自治体にも負担が大きい。
除染に同意しない→補償で暮らす→働かなくなってしまう。
お金が人を狂わせる。

お話しを聞いていて強く感じたのは、宮城や岩手の津波被災とはまた違った形、被災地での‘絆’がよく言われていたりしますが、南相馬での原発事故による被災と避難は、地域内住民の‘絆’を壊してしまったという点で、非常に深刻な問題ということです。コミュニティを崩壊させつつあるといえます。

また、国と県に対する言葉は、今の国政と地方政治との関係、地方政治の中での県と市の関係を考える上で、非常に重い言葉ではないでしょうか。
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坂井市の取り組みから

2013年05月17日 00時04分21秒 | Weblog
坂井市には、昨年から自分なりに行政とやり取りしている「公共施設マネジメント白書」 について、特に合意形成の部分に焦点を当てる形で視察を行いました。

鈴鹿市においても、現在、公共施設カルテを作成しているところですが、それはあくまで施設情報だけで、それから後の手順が非常に重要だと考えます。
手順について、議会はもちろんですが、市民との間に公共施設の維持更新問題に関する情報をいかに伝え、大まかな方向性について合意をいかに形成していくかということです。

そのことについては、坂井市のスケジュールを参考に整理をすれば、鈴鹿市でも同様の動きができると考えますが、そのためには、白書を作成する際に必要となる人口動態や、財政状況の推移を含めた財政白書的な情報を整理する必要があります。後者については、議会内有志での動きもあることから、それらと連携させる考えもありえます。

つまり、施設カルテが完成した時に、市民向けに啓発活動を行うべきですし、その際に、鈴鹿市の状況がわかる資料も必要です。
この啓発活動をどう行うのか、坂井市の動きを参考に考えると、現時点の鈴鹿市ではそれぞれの地区の自治会長会、もしくは公民館区ごとに行うかなどの整理が必要と考えます。

また、視察の際に気づいたことで、白書を作成して終わりではなく、その後も進行管理を行っていくために、作成の際の合意形成の動きを、なんらかの形で継続していくことが必要と思います。
例えば、白書は作成後、そこに書かれていることをどのように実行していくか、それを関係する市民に説明することも求められるものなので、グループリーダー以上の職員は必ず年に一度、公共施設白書を確認する研修を取り入れるなどです。

今できることは、施設カルテを公表する際に、かならず職員向け研修をすべての事務系職員に行うことではないかと思います。


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以上、データシティ鯖江も含めた簡単な感想です。

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