“いじめ”について、今の状況でなくなるのかを考えるとき、残念ながら、形が変わりこそすれ、なくならないのではないかと考えています。もちろん、いじめをできる限りなくす方向に動くことは大切な取組と考えていますし、自分自身もいじめはなくすべきと考えています。ジュニアバレーのコーチをするときも、その点には注意を払っています。
では、なぜなくならないと考えているのか。それは“いじめ”について、大人自身が自分たちの行動を真剣に振り返り、自分たちの行動や考えを変化させる考えがあるのか、その点が非常に懐疑的だからです。
以下、調べやすいこともありWikipediaから引用しながら話をすすめます。■ いじめ ‐ Wikipedia ■
まず、どのように“いじめ”が定義されているかを考えるとき、日本ではいじめ対策基本第2条において「児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう」とされ、「児童」が対象となっています。一方で国際的には「自尊心を損なわせ弱体化させることを目的とした、執念深い、冷酷な、あるいは悪意のある企てによる、長期に亘って繰り返される不快な行為」とされ、「児童に限らない」と考えられていることがあります。
つまり、社会として子どもも大人も連続し地続きであるのに、いじめを大人の社会規範などとは別のところにあるかのようにすることで、大人自身が自分の責任を直視しなかったり、自分たちの行動を自分たちの論理で正当化しやすくしているのではないでしょうか。そう考えると、“いじめ”は全ての人にありえることだと考えなければ、いじめをなくすことは難しいと考えます。
“いじめ”の分類の考えから、教育社会学者の藤田英典氏によるいじめの4つ形態について、①モラルの低下・混乱によるもの、②社会的偏見・差別による排除的なもの、③閉鎖的な集団内で特定の個人に対して発生するもの、④特定の個人への暴行・恐喝を反復するもの、となっています。この分類から考えても、いじめは子どもだけではなく、大人社会にとっても課題であることは明らかですし、子どもと別の課題ではないことも明らかではないでしょうか。
これらのうち①、②、④は目につきやすいところで、対策もいろいろな形で取り組まれていると思います。例えば、様々な社会的マイノリティの方々に対するいじめに類する行為などについては、その解消が国際的にも取り組まれているところですし、日本国内での関心も高いところだと思います。しかし、③についてはどうでしょうか、非常に心もとない状況だと思います。
③について2つの視点があると思います。ひとつは、ある集団内でその構成員によって行われる場合。もうひとつは、ある集団の構成要因や集団規範がつくられ、そこにすでに“いじめ”と同様の仕組みが埋め込まれている場合です。後者について言えば、少数派や少数意見を抑圧するような仕組みが作られている事例は多く見られますし、それらはそれ自体に疑問を持つことがない限り、過去からの積み重ねでできあがっていて、容易には変えられないものとなっています。
つまり、大人は作られた制度や仕組みとその運用の中で、“いじめ”につながる行動を行っている場合があり、意識的であれ無意識であれ、それらの解消に大人自身が取り組まない中では、いじめをなくすことは難しいと考えます。いくら制度を根拠にしたところで、結果としてそれがいじめと同様の構造を持っているのであれば、その制度や仕組みは変えるべきものだと思います。
前に書いたかもしれませんが、いじめは「その人がその人であることを認められない、尊重されない。」という状況だと思います。突き詰めれば、憲法における基本的人権の尊重が実践されているかどうかであり、それには子どもも大人も区別はなく、すべての人が正当に評価され、その上でいろいろな活動に参加できる世の中でなければ、鈴鹿からいじめはなくならないと思いますし、日本からいじめはなくならないと考えています。