鈴鹿市議会議員 中西だいすけの活動日誌

鈴鹿市議会議員として年齢も含め5期目のベテランになりました。日々の活動や感じたこと、議会での動きなどをつづります。

南相馬 ~ 中川議員との話

2013年05月17日 01時28分41秒 | Weblog

南相馬市の中川議員のご自宅から、海の方に向いた写真になります。津波の際はここまでがれきや、それとともに自動車や御遺体が流れ着いたそうです。中川さんとお話をしていて、その光景が心に影を今も落としていることを、お話しされる表情から感じました。
写真に写っているヤギは、癒されるかと思って飼っているとのことでした。

当日は、冷たい海風が吹く天候で、震災前は海岸線に松林がありこのような風は吹いてこなかったとのことでした。海風は、伊勢湾岸の潮風とはまた違った匂いで、はじめ匂いを嗅いだ時、金属臭のようななんとも言えない感じでした。

さて、本題に入る前に地図で確認を少し整理を。
(地図をクリックして拡大してください)

南相馬市は3つの自治体が震災の5年前に合併してできた都市です。北部から鹿島区、中央部に原町区、南部に小高区となっています。
地図中の青い点線がそれぞれの区を分ける線になっています。また、この線のところは小高くなっていたりしていて、3つの平地として分けていることにもなっています。

ここでお気づき頂けるかと思いますが、この区を分ける境界、行政的な観点での境界も、地形的な境界も、ほぼ福島原発からの距離の線と重なっているのです。30キロのラインは鹿島区と原町区を、20キロのラインは原町区と小高区をほぼ分ける形になっています。前に書きましたが、この線によって、いろいろなことが変わってしまう線が、もともとのまちの境界とほぼ重なってしまっていることが問題になっているのです。

写真は中川議員のご自宅の中、津波の際は1階に海水が押し寄せ、中の家財道具などが流されてしまったとのことです。

中川議員はざっくばらんに感じたことも含めてたくさんお話しいただきました。ここには私がその場の会話をメモしたものを転記させて頂きます。ですので、ご本人が話された内容を詳細に書いているのではありませんので、ご了承ください。

・ 津波だけなら復興できただろうが、原発事故で難しくなった。
・ 住民投票で合併が選択されたにもかかわらず、合併が失敗だったという人もいる。人間関係が非常に難しい。
・ 鹿島区の仮設住宅に小高区の方が居住しているが、津波で被災した鹿島区の避難者と、東電からの補償が小高区だけということで問題が。
20キロと30キロの線引きをされたことが住民分断の原因。同じ地区でもその線が問題になる場合が。避難勧奨区域内でも同様のことが。
・ まち自体がダメになる。
・ それまでは仲良く暮らしていた同居世帯が、避難を機に家族バラバラになってしまったことも。
・ 市内に働く場所はあるが、避難した人には働く場所がないというミスマッチ。
・ 市内に働く場所があっても、有期雇用で正規ではない。
・ ゴミの焼却について、生活ごみについて大きな課題がある。
・ 震災直後は自己犠牲の精神が住民にあったように思うが、エゴが出てきている。
・20キロ圏内への居住は困難だろう。
「震災でわかったのは、国も県もなにもしてくれない」
・ 2年経っても、どこから手をつけていいかわからない。
・ 国から役人を課長職等に据えている。
・ 職員の中でも避難して転居した人がいる。
・ 対策本部で議員はオブザーバーであり発言できなかった。
・ せめて議長を対策本部に入れるべき。
・ 各地区で議員は突き上げを食らった。
・ 議員は避難所や体育館で活動していたがバラバラであった。
・ 避難所から逃げ出す人もいた。気を使ったのか、夜中にいなくなったりした。
・ 職員派遣は期間が短いと、受け入れ自治体にも負担が大きい。
除染に同意しない→補償で暮らす→働かなくなってしまう。
お金が人を狂わせる。

お話しを聞いていて強く感じたのは、宮城や岩手の津波被災とはまた違った形、被災地での‘絆’がよく言われていたりしますが、南相馬での原発事故による被災と避難は、地域内住民の‘絆’を壊してしまったという点で、非常に深刻な問題ということです。コミュニティを崩壊させつつあるといえます。

また、国と県に対する言葉は、今の国政と地方政治との関係、地方政治の中での県と市の関係を考える上で、非常に重い言葉ではないでしょうか。
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