毎度、お騒がせしております理研、理化学研究所。
理研と言えば直ぐに「湯川秀樹」を思い浮かべると思うのですが、私はどうも印象が悪い。
「湯川=日本人初のノーベル賞受賞」というより「湯川=原爆」。
大東亜戦争中、当時の大日本帝国も新兵器(原子爆弾)を研究開発していたことは有名な話。
当時、海軍は京都大学へ、陸軍は理化学研究所へ依頼し研究開発を進めていた。
京大より理研の研究は進み、仁科芳雄によりほぼ成果が出たため、これをひとつの学説として
発表しようとするもそこは戦時、最高機密事項として軍より厳禁される。
又、昭和天皇の「人類滅亡の因が大和民族であってはならない」という一言で、開発は中止となる。
そして、ここから当時の、理研「湯川秀樹」の名前が出てくる。
理研でありながら、京大には理論面での協力をしていたとされる湯川。
しかし、研究開発予算は米国マンハッタン計画に比べれば遥かに少なく、挙句には中止決定。
この決定に落ち込んだ科学者である湯川は米国に研究結果を渡したのではと言われている。
その褒美が戦後僅か4年後のノーベル賞受賞であると。
広島と長崎は米国にとってみれば戦争を終わらす最終手段。しかし、科学者にとってみれば
あくまでも「実験」。
広島原爆投下の半年前には米国の科学者たちは計画を知り、一部では反対運動が起こる。
そして、米国の科学者を通じ日本の科学者の一部(湯川は当然含まれる)は投下の3ケ月前には
実験があることを知り、広島から疎開したという。
戦後、湯川は原爆について口を閉ざし、核兵器廃絶の平和運動に加わりアインシュタイン宣言にも
共同宣言者として名を連ね、広島平和公園には銘文が存在する。
一連の理研と京大との過当競争を初め、科学者によるコメントがあまりにも人情味、人間味でなく、冷たくも感じる。
このヒトたちは確かに頭が良く、私ごときには理解できないことに日々励んでおられるのでしょうけど、
一般的なヒトとしての道徳観や倫理観が欠如しているようにも感じる。
科学(科学者)とは一体、何ものなのか。。。何のためにあるのか。
現代科学は自己満足の上でひとたび成功を収めると自己増殖し、利権が絡んでくる。
今一度、世で言う科学者たちは本来の「科学の目的」を見直さなければいけない。。。