Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ブルックナー随想(3):ブラームス

2025年01月15日 | 音楽
 ブルックナーのことを考えていると、どうしてもブラームスが気になる。二人の関係は実際のところ、どうだったのだろう。有名なエピソードは1889年10月25日にブルックナーとブラームスが会食した件だ。根岸一美氏の「ブルックナー」(音楽之友社、2006年)(↑)によると、当日はブルックナーのグループが先にレストラン「ツム・ローテン・イーゲル」に着いた。だいぶ遅れてからブラームスのグループが着いた。しばらく沈黙の時が流れた。ブラームスがメニューを取って「そうですなぁ、クネーデルと野菜付きの燻製肉にします。これ、私の好物なので」といった。ブルックナーは「結構ですねえ、ドクター、燻製肉とクネーデル、これは私たちふたりが理解し合える点ですねぇ」と応じた。みんな大笑いした。楽しい時間を過ごした。ただ、その後両者が親しくなることはなかった――とのこと。

 「その後両者が親しくなる」必要はなかったのだろう。その会食で十分だった。二人はウィーンを二分する抗争に巻き込まれた。ブラームスは抗争から距離を取ったが、ブルックナーは妨害され、攻撃された。二人とも個人的なわだかまりがないことが分かれば、それで十分だったのではないか。

 1883年2月11日にブルックナーの交響曲第6番の第2楽章と第3楽章が初演されたとき、客席にはブラームスがいた。ブラームスが拍手喝さいしたことが目撃されている。また1893年3月23日に「ミサ曲第3番」が演奏されたとき、ブラームスはボックス席で耳を傾けて、拍手を惜しまなかったといわれる。

 これも有名なエピソードだが、ブルックナーが1896年10月11日に亡くなり、10月14日にカールス教会で葬儀が営まれたとき、ブラームスは教会まで来て、扉のそばに佇んだ。中に入るよう促されたが、ブラームスは「次は私の番だよ」といって立ち去った。ブラームスはそれから6か月後の1897年4月3日に亡くなった。

 ブルックナーはワーグナーの一派とみなされ、ブラームスは保守派の旗手とみなされたが、その対立構図は今のわたしたちには理解しがたい。ブルックナーの音楽は、生々しいドラマを語るワーグナーの音楽よりも、文学的な要素のないブラームスの音楽に近いのではないだろうか。当時もそう思う人はいたようだ。オペラ「ヘンゼルとグレーテル」の作曲者フンパーディンクだ。フンパーディンクは「われわれにとって不可解なのは、人々が、アントン・ブルックナーについて、ワーグナーの芸術原理を交響曲に移し替えたものだと思っていることである」と述べた(根岸一美氏の前掲書)。思えば、ブルックナーとブラームスの対立構図は、評論家ハンスリックが意図的に作り上げたものかもしれない。

 ブラームスの蔵書にはブルックナーの交響曲第7番の楽譜があった。ブラームスはブルックナーの音楽を正確に理解していたのではないだろうか。
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ブルックナー随想(2):キッツラーの練習帳

2025年01月12日 | 音楽
 ブルックナーがザンクト・フローリアン修道院の少年聖歌隊員になったのは1837年、13歳のときだ。ブルックナーは国民学校の校長で少年聖歌隊長のミヒャエル・ボーグナーの家に寄宿した。ボーグナーから通奏低音を教わり、またフランツ・ラーブから声楽を、フランツ・グルーバーからヴァイオリンを、そしてアントン・カッティンガーからピアノとオルガンを教わった。

 そのようにして、ブルックナーは身近な音楽家から音楽を学んだ。ザンクト・フローリアンの時代だけではなく、それ以降も。ブルックナーの伝記を読んでもっとも圧倒されるのは、音楽を学ぶ貪欲さ、そして謙虚さだ。

 ブルックナーは1855年にウィーンを訪れた。ウィーン大学の高名な教授ジーモン・ゼヒターに学ぶためだ。ブルックナーは前年に作曲してザンクト・フローリアンで初演した「ミサ・ソレムニス」を持参した。ゼヒターは入門を許す。以降、1861年までの6年間、ブルックナーは主に手紙を通じてゼヒターから指導を受ける。

 ブルックナーは1856年にリンツ大聖堂のオルガン奏者に就任した。それでもなおゼヒターの指導を受け続けた。余談だが、シューベルトもゼヒターの指導を受けた。1828年のことだ。シューベルトはその年に亡くなった。シューベルトとゼヒターの師弟関係は短命に終わった。だがともかくシューベルトとブルックナーは兄弟弟子に当たる。

 ブルックナーの伝記を読んで一番驚くのは、ブルックナーがゼヒターの次にリンツ歌劇場の首席楽長オットー・キッツラーの指導を受け始めたことだ。そのときブルックナーは37歳になっていた。キッツラーはブルックナーより10歳も年下だ。ブルックナーはそのキッツラーから1863年までの2年間指導を受けた。

 ブルックナーはキッツラーのもとで多くの習作を書いた。その中には交響曲がある。今では交響曲第00番と呼ばれる曲だ。演奏時間は約40分。ブルックナーの片鱗がうかがえる。また弦楽四重奏曲も書いた。演奏時間は約20分。部分的にモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの音がする。その他に何曲ものピアノ小品がある。「キッツラーの練習帳」と呼ばれる習作群だ。

 それらのピアノ小品を録音したCDが何種類かある。上掲のCD(↑)はブルックナーが所有していたベーゼンドルファーのピアノフォルテを弾いたものだ。ブルックナーは1848年、24歳のときにザンクト・フローリアンの書記官フランツ・ザイラーからベーゼンドルファーのピアノフォルテを遺贈された。ブルックナーはそのピアノフォルテを生涯所有した。当CDのピアノフォルテはそれかもしれない。
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ブルックナー随想(1):ザンクト・フローリアン訪問記

2025年01月09日 | 音楽
 2024年はブルックナー(1824‐1896)の生誕200年だった。1年遅れだが、ブルックナーの随想を。まずはブルックナーの聖地ザンクト・フローリアンの訪問記から。

 ザンクト・フローリアンを訪れたのは2015年8月のことだ。ザルツブルク音楽祭に出かけたついでに訪れた。ザルツブルクから電車に乗ってリンツまで約1時間。リンツからバスに乗って約30分でザンクト・フローリアンに着いた。

 リンツを出たバスはしばらく市内を走る。なんの変哲もない地方都市だ。20分くらいたつと風景が変わる。のどかな農村地帯だ。すると間もなくザンクト・フローリアン。小さい村だ。ガストホーフが何軒かある。テラスで男たちがビールかワインを飲んでいる。のんびりした光景だ。

 ブルックナーがいた修道院(写真↑。Wikipediaより)は村の中心にある。小さい村には似つかわしくない威容を誇る。修道院に入るとすぐにレストランがある。ちょうどお昼時だったので食事をとった。古色蒼然としたレストランだ。ブルックナーもこのレストランで食事をとったり、ビールを飲んだりしたのだろうか。

 食事を終えて奥に行くと礼拝堂がある。オルガン奏者が曲をさらっている。じっと耳を傾けた。ブルックナーが弾いたオルガンの音だ。至福の時とはこのような時をいう。頭の中が空になった。だれかに声をかけられた。振り返ると、年配の女性がいた。「申し訳ないが、これからオルガン・コンサートがある」と。謝ってチケットを買った。年配の女性は笑顔を見せた。何人かの聴衆が集まった。プログラムにはブルックナーの曲は入っていなかった。なぜだろう。ハッと気が付いた。ブルックナーはオルガン曲をほとんど残していないからだ。

 コンサートが終わってバスでリンツに戻った。まだ時間が早い。欲が出て、ブルックナーの生地アンスフェルデンに行ってみようと思った。駅の構内の路線図を見ると、アンスフェルデンという駅がある。インフォメーションで尋ねると、電車が出るところだ。急いで飛び乗った。アンスフェルデンは10分程度で着いた。駅前には何もない。ザンクト・フローリアン以上に田舎のようだ。

 アンスフェルデンとザンクト・フローリアンから見ると、リンツは都会だ。そしてウィーンは国際都市だ。ブルックナーがザンクト・フローリアンからリンツへ、そしてウィーンへと進出したときには、どれほど緊張したことか。ブルックナーはウィーンに移ってからも、折に触れてザンクト・フローリアンの修道院を訪れた。その際にはオルガンを弾いた。ブルックナーはザンクト・フローリアンにいると安心できたのだろう。
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半村良「能登怪異譚」

2025年01月06日 | 読書
 能登半島地震から1年たった。現地では倒壊した家屋がそのまま残っていたり、水道がまだ通っていない地域があったりすると報じられている。それらの復旧の遅れはどうしてなのか。そもそも能登半島地震への対応は初動からおかしかった。ヴォランティアに行くなと号令がかかった。また岸田首相(当時)や馳県知事の現地入りが遅かった。その延長線上に今がある。

 半村良の「能登怪異譚」は能登にまつわる怪談を9篇収めた短編集だ。どの話も能登弁で書かれている。間延びしてユーモラスだ。だが内容はゾッとする。たとえば「箪笥」は主人公・市助の子どもが夜になると箪笥の上に座る話だ。なぜ箪笥の上に座るのかは分からない。ともかく箪笥の上で夜を過ごす。朝になると普通の生活に戻る。市助には子どもが8人いる。最初は一番下の子どもがそうなる。だんだん増えて、ついには8人全員がそうなる。妻や祖父や祖母もそうなる。市助は気味が悪くなって家出をする。

 市助の家は古民家だ。電気をつけても暗い。おまけに部屋数が多い。葬式でもなければ3か月も半年も入らない部屋がある。もしわたしがそんな家に泊まり、がらんとした部屋に一人で寝たら、どんな気持ちになるだろう。部屋には古い箪笥がある。箪笥の上は暗い。そこに何かの気配がしないか。「箪笥」はそんな気配から生まれた話かもしれない。

 「箪笥」は一種の寓話かもしれない。市助は一家のあるじだが、市助を除く家族全員の結束が固い。市助は疎外感を味わう。市助は家出をする。そんな話は実際にありそうだ。「箪笥」では市助は最後に家に戻る。だがハッピーエンドだろうか。家に戻ることは、家族に屈服し、家族の仲間に入れてもらうことを意味するかもしれない。市助は一人でいたほうが自由で幸せだったのではないだろうか、という解釈も成り立つ。

 ネタばれは避けるが、「箪笥」は最後にオチがつく。そのオチが怖い。さすがに半村良は小説がうまいと舌を巻く。

 「箪笥」が箪笥の上の暗い空間から生まれた(かもしれない)話だとすれば、「蛞蝓」(なめくじ)は土蔵の中に大量の蛞蝓が発生したことから生まれた話かもしれない(あるいは、夜釣りをしているときに、海に浮かぶクラゲを見て生まれた話かもしれない)。両者は一対をなす。また「雀谷」(すずめだに)と「蟹婆」(かにばあば)は推理小説的な手法で一対をなす。同様に「仁助と甚八」と「夫婦喧嘩」はコミカルな点で対をなす。「夢たまご」と「終の岩屋」は人生の寓意という点で一対だ。

 ただ「縺れ糸」(もつれいと)は対になる作品が見当たらない。その話だけ孤立している。現代への警句が読み取れる話だ。
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2024年の音楽回顧

2024年12月31日 | 音楽
 2024年の大晦日になった。今年は気が付いたら年末になっていた感じがする。多くの人がいうように、今年は秋らしい秋が短かったからだろうか。

 2024年はどんな年だったろう。音楽にかぎって、しかもわたしの経験の範囲内で振り返ってみると、まず思い出すのは「サントリーホール サマーフェスティバル」だ。同フェスティバルは毎年わたしの一番の楽しみだが、今年はとくに充実していた。同フェスティバルは「ザ・プロデューサー・シリーズ」、「テーマ作曲家」、「芥川也寸志サントリー作曲賞」の3本柱で構成されるが、今年はその中の「ザ・プロデューサー・シリーズ」と「テーマ作曲家」が連動していた。

 今年のプロデューサーはアルディッティ弦楽四重奏団を率いるアーヴィン・アルディッティだった。アルディッティは20世紀後半の現代音楽のレジェンドだ。一方、テーマ作曲家はフランスのフィリップ・マヌリだ。二人の協働関係は長い。マヌリの新曲をアルディッティ弦楽四重奏団が初演したケースが何度かある。今年の同フェスティバルではアルディッティがプロデュースするオーケストラ・プログラムにマヌリの曲を取り上げた。またマヌリの室内楽コンサートにアルディッティ弦楽四重奏団が初演した曲を取り上げた。

 新国立劇場はベッリーニの「夢遊病の女」とロッシーニの「ウィリアム・テル」を新制作した。両作品の連続上演により、ベルカントオペラに焦点が当たった。とくにベッリーニのオペラの上演は新国立劇場では初めてだった。大きな穴がやっと埋まった。またロッシーニのオペラの中では特異な存在の「ウィリアム・テル」の上演は意欲的な企画だった。

 今年も多くの音楽家が亡くなった。感慨深いのは、ドイツの作曲家ヴォルフガング・リームの逝去だ。リームは20世紀後半の音楽界で存在感が際立った。わたしはザルツブルクやチューリヒで見かけたことがある。大柄な人物だったが、以前から健康不安が伝えられた。ついに亡くなった。戦後の現代音楽の一時代が終わった感がある。

 最後に私事をひとつ。わたしは今年、日本フィルの定期会員になって50年がたった。わたしは1974年の春季から定期会員になった。それ以来50年間、日本フィルの浮き沈みを見てきた。今は好調だが、低迷したときもある。オーケストラとは生き物だ。

 わたしは日本フィルを今の若い楽員が生まれる前から聴いてきたわけだが、N響などの他のオーケストラにも、わたし以上に古株の聴衆がいるだろう。そのような古株の聴衆がオーケストラを支える時代になった。そのような聴衆の層が育ったのは、日本が戦争をしなかったからかもしれない。平和の副産物だ。平和の副産物は、オーケストラの聴衆にかぎらず、社会の隅々にあるのではないだろうか。
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