Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

向井潤吉アトリエ館「名もなき風景」展

2025年03月04日 | 美術
 駒沢大学駅から歩いて数分の向井潤吉アトリエ館。洋画家の向井潤吉(1901‐1995)の住居兼アトリアだった建物をそのまま使った美術館だ。向井潤吉の生活空間の中で作品をみることができる。わたしが行ったのは平日の午前中だが、10人程度の人が来ていた。向井潤吉の人気ぶりがうかがえる。

 チラシ(↑)に使われている作品は「不詳[長野県更埴市森区]」(1961年頃)。遠くの山並みには雪がびっしり付いている。手前の里山は上のほうには雪が残るが、中腹から下は雪が消えて、枯れ木の茶褐色と芽吹きの新緑のまだら模様だ。畑の土はすっかり乾き、草が生える。それらの風景を締めるように小屋がたつ。日本の農村のどこにでもありそうな風景だ。向井潤吉はその風景を目にとめてイーゼルを立てたのだろう。早春の暖かい日差しのもとで絵筆を走らせる向井潤吉の姿が目に浮かぶ。

 だが、向井潤吉の作品を知れば知るほど、ほんとうにこの通りの(何もない、すっきりした)風景だったのだろうかと思う。電信柱の一本くらいはあったかもしれない。また人家や物置があったかもしれない。

 たとえあったとしても、向井潤吉はそれらのものを画面から消した。遠くの山並み、手前の里山、そして近くの畑と小屋だけを描いた。それは純化された世界だ。向井潤吉は現実には壊されて失われていく風景のエッセンスを作品にとどめた。それは向井潤吉の時代の流れへの抵抗だったかもしれない。今わたしたちが向井潤吉の作品に惹かれるのは、それが一種の理想郷だからだろう。

 周知のように、向井潤吉は戦争中に(前回のブログで取り上げた宮本三郎と同様に)戦争画をたくさん描いた。そんな向井潤吉と宮本三郎は戦後どう生きたか。宮本三郎は試行錯誤の末に、赤を主体にした鮮烈な色彩の裸体画と、さらにはギリシャ神話や聖書に題材をとった(西洋絵画の伝統的な図像を下敷きにした)作品に行きついた。

 一方、向井潤吉は古民家を描き続けた。抽象画をはじめ新たな潮流が押し寄せる戦後の画壇にあって、向井潤吉は異色の存在だったかもしれない。だがその作品の裏側には、戦後の高度成長期の渦中で変貌する農村に心を痛める向井潤吉の真情があったとすれば、作品の見え方も変わる。

 向井潤吉と宮本三郎、そして藤田嗣治をふくむ戦争画を描いた画家たちが、戦後どう生きたか。具体的には、戦争画を描いたことをどう思って生きていたのか。それを(非難する意味ではなくて)聞いてみたい気がする。
(2025.2.27.向井潤吉アトリエ館)
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宮本三郎記念美術館「Journeys――宮本三郎 旅する絵画」展

2025年02月28日 | 美術
 自由が丘駅から歩いて数分のところに宮本三郎記念美術館がある。洋画家の宮本三郎(1905‐1974)の住居兼アトリエがあった場所だ。同館では今「Journeys―宮本三郎 旅する絵画」展が開催されている。

 宮本三郎は第二次世界大戦中の戦争画と戦後の(それも晩年になってからの)鮮烈な色彩の裸体画のイメージが強い。本展はそれらの、いわば表の顔とは違った、旅先で描いた風景画を追った企画展だ。素顔の宮本三郎がうかがえる。

 チラシ(↑)に使われている作品は「風景/柴山潟の四手網漁」(1944年頃)。宮本三郎が故郷の石川県に疎開したときの作品だ。全体に靄のかかったような画面がターナー(1775‐1851)を連想させる。だが一般的に宮本三郎とターナーが結び付けられることはない。本作かぎりの偶然だろう。おもしろいことに、本展に展示されている「風景/虹」(1944年頃)はターナーと同時代人のコンスタブル(1776‐1837)を連想させる。荒れた野原、嵐が去った後の雲が渦巻く空、そこから射す日の光と大きな虹という諸要素は、コンスタブルの「虹が立つハムステッド・ヒース」と似ている。

 上記の2作品から感じられることは、一種の虚脱感だ。宮本三郎は疎開の直前まで劇的でヒロイックな戦争画を描いていた。しかし体調を壊して故郷に疎開した。そのときの心象風景はこうだったのかと。思えば、宮本三郎は1938年に初めて渡欧して、パリの画塾に学びながら、ヨーロッパの絵画をどん欲に吸収した。しかし、第二次世界大戦の勃発のため、翌年帰国して、従軍画家として戦地を飛びまわった。そんな慌ただしい年月を送った後での故郷への疎開だ。気が抜けたのだろうか。

 本展には1938年の渡欧時の作品も展示されている。本展のHP(↓)には「郊外の町」(1939年)の画像が掲載されている。明るくナイーブな色彩が印象的だ。でも、わたしはむしろ水彩画の「フィレンツェ 風景」(1938‐39年頃)と「町並み」(1939年)のほうが気に入った。伸びやかな線が好ましい。

 宮本三郎は1952年にもう一度渡欧した。フランス、イタリア、スペイン、ギリシャをまわった。本展にはそのときの油彩画が4点展示されている。前記の1938年の渡欧時の作品と比較すると、西洋の風土・文化と対峙する緊張感が感じられる。

 戦後の復興期の作品が印象的だ。「夕暮れの公園」(1964年)や「夜景」(1964年)は多くの人が行きかう都会の賑わいを描く。だが、どこか、心ここにあらずという感がただよう。宮本三郎と戦後復興との距離感を感じる。
(2025.2.12.宮本三郎記念美術館)

(※)本展のHP
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下野竜也/N響

2025年02月23日 | 音楽
 N響の定期演奏会Cプロ。指揮は下野竜也で、プログラムはスッペとオッフェンバックを中心にしたもの。スッペ(1819‐1895)とオッフェンバック(1819‐1880)は同い年だ。ワーグナー(1813‐1883)とヴェルディ(1813‐1901)が同い年なのと似ている。

 1曲目はスッペの「軽騎兵」序曲。冒頭の金管楽器がさすがに良い音だ。スッペにしては上等すぎるといったら語弊があるが、オペレッタの場末の雰囲気(これも語弊があるが、けっして悪い意味でいっているのではない。言い直せば、世俗的な雰囲気)とは多少ニュアンスの違う音だ。それにしても、「軽騎兵」序曲は明暗のコントラストが濃やかな名曲だ。N響の演奏はその点でも見事だった。

 2曲目はサン・サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番。ヴァイオリン独奏は三浦文彰。三浦文彰の演奏は何度か聴いたことがあるが、当日の演奏は今まで聴いた中でもっとも感心した演奏だ。まず音が見事だ。冒頭の太い音から、第2楽章の最後の、ほとんど聴こえるか聴こえないかというくらいの細い音まで、NHKホールの大空間によく響いた。また、音楽の形を崩さない演奏スタイルが、サン・サーンスのこの曲にふさわしい。というのは、この曲は過度に甘く演奏されることがあるからだ。三浦文彰の演奏はそのような自己満足的な演奏とは一線を画した。

 アンコールが演奏された。ヴュータンの「アメリカの想い出「ヤンキー・ドゥードゥル」」だ。華麗なテクニックを開放して、満場の喝さいを浴びた。

 休憩をはさんで、3曲目はスッペの「詩人と農夫」序曲。チェロの首席奏者・辻本玲の弾くソロが情感豊かな名演だ。曲自体は、わたしは「軽騎兵」のほうがよくできていると思うが、でも実演を聴くと、やはり聴き応えがある。

 4曲目はオッフェンバック(ロザンタール編曲)の「パリの喜び」。オッフェンバックのオペレッタの音楽を指揮者のロザンタールがバレエ音楽用に編曲した。序曲と23曲の小品からなるが、当日は序曲と16曲が演奏された。

 例のカンカン踊りを含むこの曲で一挙に盛り上がった、といいたいところだが、どうなのだろう。オッフェンバックのオペレッタの味は、ロザンタールが編曲したこのバレエ音楽で、多少損なわれたのではないだろうか。わたしが経験したオッフェンバックのオペレッタは、2001年12月にパリのシャトレ座で観た「美しきエレーヌ」だ。ミンコフスキ指揮のルーヴル宮音楽隊がピットに入り、活気のある演奏を繰り広げた。パリっ子たちは大喜びだ。わたしも興奮して、寒い夜のパリをホテルまで(地下鉄に乗らずに)歩いて帰った。
(2025.2.22.NHKホール)
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戦後を生きて(1):原風景

2025年02月19日 | 身辺雑記
 2月にしては暖かい日曜日。大田区立龍子記念館を訪れた。日本画家の川端龍子の作品と高橋龍太郎の現代美術コレクションのコラボ企画をみるためだ。みた後で記念館の向かいに建つ川端龍子の旧宅(写真↑)を見学した。白梅がきれいに咲いていた。帰路、近くの公園で一休みした。お昼時だった。ベンチに座って、往きに買ったどら焼きを食べた。

 小さな公園だった。少し離れたベンチに労働者風の二人の男性が腰かけて、缶ビールか缶酎ハイを飲んでいた。とくに話もせずに、のんびり過ごしていた。小さな音でトランジスタラジオをかけていた。わたしは二人を見るともなく見て、「おれにもこんな人生があったかもしれないな」と思った。

 わたしは1951年(昭和26年)に東京の羽田で生まれた。父は町工場の旋盤工だった。わたしの家から町工場のある馬込まで、毎日自転車で通った。約30分はかかっただろう。晴れの日はともかく、雨の日はたいへんだったと思う。馬込の町工場の手前に坂がある。じつは龍子記念館はその坂の下にある。父が出勤のときは上り坂だ。あの坂を自転車で上るのはたいへんだっただろうと思う。

 父はわたしが高校に入るころに町工場をやめた。ボール盤を買って自宅で仕事を始めた。そのうち借金をして旋盤を買った。だれも雇わずに一人で仕事をした。仕事は細々と続いた。父はわたしに仕事を継がせようとは思わなかった。わたしもそんなことは考えたことがなかった。わたしはやがて大学に行き、そして就職した。

 わたしはベンチに座って缶ビールか缶酎ハイを飲む二人の男性を見て、わたしも人生のどこかで違った選択をしていれば、あのような人生になったかもしれないと思った。それも幸せだったかもしれない。そのほうがお似合いだったかもしれない、とも思った。でも結局、それはわたしの人生ではなかった。

 前記のように、わたしは1951年(昭和26年)の生まれだ。原風景が3~4歳のころに見た風景だとすれば、1950年代のなかば(昭和30年前後)の風景がわたしの原風景だ。それは町工場がひしめく京浜工業地帯の一角の風景だ。溝には町工場の廃液が浮いていた。工員たちは溝で立小便をした。だがわたしは汚いと思ったことがなかった。そこがわたしの生まれ育った場所だ。

 今年は戦後80年だ。わたしの人生は戦後のかなりの部分と重なる。戦後とはどんな時代だったのか。それをわたしの人生から振り返ってみたい。大上段に構えずに(そんなことは柄ではない)、個人史として、不定期に、思いつくままに。話がアットランダムに飛ぶだろう。申し訳ない。
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藤岡幸夫/東京シティ・フィル

2025年02月15日 | 音楽
 藤岡幸夫が東京シティ・フィルを振って仏陀をテーマとする大作2曲を演奏する企画を立てた。昨夜はその第1弾。東京シティ・フィルの定期演奏会で伊福部昭(1914‐2006)の交響頌偈「釈迦」(1989)を演奏した。第2弾は2月20日に都民芸術フェスティバルの一環として貴志康一(1909‐1937)の交響曲「仏陀」(1934)を演奏する。貴志康一の「仏陀」は1934年に貴志康一がベルリン・フィルを振って初演したことで知られる。

 伊福部昭の交響頌偈「釈迦」は浄土宗東京教区青年会、東宝ミュージック、ユーメックスの委嘱で書かれた(柴田克彦氏のプログラム・ノートによる)。頌偈は「じゅげ」と読む。「佛の徳を讃える歌」を意味する。

 曲は3楽章からなる。緩―急―緩の構成だ。演奏時間は約40分。第2楽章と第3楽章に混声合唱が加わる。全体的に壮大なスケールをもつ大曲だ。第1楽章は東洋的な音調が悠然と流れる音楽。第2楽章はいかにも伊福部昭らしいダイナミックな音楽。第3楽章は釈迦(仏陀)をたたえる賛歌。

 演奏は入念に準備された見事な演奏だった。初演以来何度か演奏された曲のようだが、一般的にはあまり知られず、当夜の演奏は蘇演といってもいいくらいだ。そのような曲を取り上げて、曲の真価を問う目的意識をもつ演奏だった。

 オーケストレーションがおもしろい。柴田克彦氏がプログラム・ノートで触れている2台のチューブラ・ベルの活躍をはじめとして(1台ではなく2台であることがミソだ)、それ以外にも、フルート・パートにはアルトフルートが、オーボエ・パートにはイングリッシュホルンが、クラリネット・パートにはバスクラリネットが、そしてファゴット・パートにはコントラファゴットが加わる。それらの低音木管楽器が重要な働きをして、東洋的な情緒を醸成する。

 備忘的に書いておきたいが、藤岡幸夫はプレトークで、修業中の釈迦の煩悩とのたたかいを描く第2楽章では、釈迦を誘惑する女声の部分は、伊福部昭の速度指定だと聖女のように聴こえるので、速度を速めると言っていた。合唱は東京シティ・フィル・コーアが担当した。第2楽章はともかく、第3楽章はもう一段の精度がほしかった。

 順序が逆になったが、当夜は1曲目にブラームスの交響曲第3番が演奏された。実演では意外に聴く機会が少ない曲なので、楽しみにしていた。第1楽章の冒頭で弦楽器が分厚い音で鳴った。思わず引き込まれた。だが、楽章を追うにつれて、音が希薄になった。藤岡幸夫のキャラクターからいって、今後はエネルギーが渦巻くブラームスを期待したい。
(2025.2.14.東京オペラシティ)
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