ブルックナーのことを考えていると、どうしてもブラームスが気になる。二人の関係は実際のところ、どうだったのだろう。有名なエピソードは1889年10月25日にブルックナーとブラームスが会食した件だ。根岸一美氏の「ブルックナー」(音楽之友社、2006年)(↑)によると、当日はブルックナーのグループが先にレストラン「ツム・ローテン・イーゲル」に着いた。だいぶ遅れてからブラームスのグループが着いた。しばらく沈黙の時が流れた。ブラームスがメニューを取って「そうですなぁ、クネーデルと野菜付きの燻製肉にします。これ、私の好物なので」といった。ブルックナーは「結構ですねえ、ドクター、燻製肉とクネーデル、これは私たちふたりが理解し合える点ですねぇ」と応じた。みんな大笑いした。楽しい時間を過ごした。ただ、その後両者が親しくなることはなかった――とのこと。
「その後両者が親しくなる」必要はなかったのだろう。その会食で十分だった。二人はウィーンを二分する抗争に巻き込まれた。ブラームスは抗争から距離を取ったが、ブルックナーは妨害され、攻撃された。二人とも個人的なわだかまりがないことが分かれば、それで十分だったのではないか。
1883年2月11日にブルックナーの交響曲第6番の第2楽章と第3楽章が初演されたとき、客席にはブラームスがいた。ブラームスが拍手喝さいしたことが目撃されている。また1893年3月23日に「ミサ曲第3番」が演奏されたとき、ブラームスはボックス席で耳を傾けて、拍手を惜しまなかったといわれる。
これも有名なエピソードだが、ブルックナーが1896年10月11日に亡くなり、10月14日にカールス教会で葬儀が営まれたとき、ブラームスは教会まで来て、扉のそばに佇んだ。中に入るよう促されたが、ブラームスは「次は私の番だよ」といって立ち去った。ブラームスはそれから6か月後の1897年4月3日に亡くなった。
ブルックナーはワーグナーの一派とみなされ、ブラームスは保守派の旗手とみなされたが、その対立構図は今のわたしたちには理解しがたい。ブルックナーの音楽は、生々しいドラマを語るワーグナーの音楽よりも、文学的な要素のないブラームスの音楽に近いのではないだろうか。当時もそう思う人はいたようだ。オペラ「ヘンゼルとグレーテル」の作曲者フンパーディンクだ。フンパーディンクは「われわれにとって不可解なのは、人々が、アントン・ブルックナーについて、ワーグナーの芸術原理を交響曲に移し替えたものだと思っていることである」と述べた(根岸一美氏の前掲書)。思えば、ブルックナーとブラームスの対立構図は、評論家ハンスリックが意図的に作り上げたものかもしれない。
ブラームスの蔵書にはブルックナーの交響曲第7番の楽譜があった。ブラームスはブルックナーの音楽を正確に理解していたのではないだろうか。
「その後両者が親しくなる」必要はなかったのだろう。その会食で十分だった。二人はウィーンを二分する抗争に巻き込まれた。ブラームスは抗争から距離を取ったが、ブルックナーは妨害され、攻撃された。二人とも個人的なわだかまりがないことが分かれば、それで十分だったのではないか。
1883年2月11日にブルックナーの交響曲第6番の第2楽章と第3楽章が初演されたとき、客席にはブラームスがいた。ブラームスが拍手喝さいしたことが目撃されている。また1893年3月23日に「ミサ曲第3番」が演奏されたとき、ブラームスはボックス席で耳を傾けて、拍手を惜しまなかったといわれる。
これも有名なエピソードだが、ブルックナーが1896年10月11日に亡くなり、10月14日にカールス教会で葬儀が営まれたとき、ブラームスは教会まで来て、扉のそばに佇んだ。中に入るよう促されたが、ブラームスは「次は私の番だよ」といって立ち去った。ブラームスはそれから6か月後の1897年4月3日に亡くなった。
ブルックナーはワーグナーの一派とみなされ、ブラームスは保守派の旗手とみなされたが、その対立構図は今のわたしたちには理解しがたい。ブルックナーの音楽は、生々しいドラマを語るワーグナーの音楽よりも、文学的な要素のないブラームスの音楽に近いのではないだろうか。当時もそう思う人はいたようだ。オペラ「ヘンゼルとグレーテル」の作曲者フンパーディンクだ。フンパーディンクは「われわれにとって不可解なのは、人々が、アントン・ブルックナーについて、ワーグナーの芸術原理を交響曲に移し替えたものだと思っていることである」と述べた(根岸一美氏の前掲書)。思えば、ブルックナーとブラームスの対立構図は、評論家ハンスリックが意図的に作り上げたものかもしれない。
ブラームスの蔵書にはブルックナーの交響曲第7番の楽譜があった。ブラームスはブルックナーの音楽を正確に理解していたのではないだろうか。