初台(東京シティ・フィル)から溜池(東響)へ。連チャンは苦手だが、定期演奏会が重なったので仕方がない。東響はノットの指揮でブルックナーの交響曲第8番(第1稿、ノヴァーク版)。ノットの音楽監督ラスト・シーズンの幕開けだ。
ブルックナーの交響曲第8番の第1稿はずいぶん聴くようになった。直近では2024年9月にルイージ指揮N響で聴いた。ルイージとN響の演奏も立派だったが、ノットと東響の演奏はルイージとN響をふくめたどの演奏とも異なる演奏だった。
端的に言って、ノットと東響のような第1稿の演奏は聴いたことがない。第1稿には(ルイージとN響がそうであったように)ごつごつした荒削りの音楽というイメージがある。だがノットと東響の演奏で聴くと、緻密に構築された音楽に変貌する。ノットと東響はその音楽を滑らかに演奏した。驚くほどの説得力がある。第1稿の解釈として、今までだれも到達しなかった高さに達した感がある。
少し具体的に言うと、たとえば第1楽章の例の(第1稿の)激しいコーダがじつに必然的に聴こえた。もちろん聴衆のわたしが第1稿に慣れたという事情もあるだろう。だがそれだけではなく、第1楽章全体を通して、コーダを突出したものにしない歩みがあったからだ。そういう説得力があった。
ただハープが入らない第2楽章のトリオは、やはり引っ掛かった。第2稿が頭に染みついているからだろう。第3楽章のシンバル3回+3回=6回は、しつこくはあるが、でもむしろ微笑んでしまうような思いがした。
一番感銘を受けたのは第4楽章だ。第1稿の緻密さの典型的な表れだ。ノットと東響は長大で複雑で隙のない論理を克明に追った。力量不足の指揮者なら、迷子になったり、無駄と思える箇所があったりするかもしれないが、ノットと東響にはそんなことは微塵もない。一本筋が通っている。音が積み重なり、熱狂のうちに終結する第1稿のコーダは圧倒的だった。
石原勇太郎氏が執筆したプログラムノートに「第1稿と第2稿の違いはしばしば大袈裟に語られるが、実は2つの稿はきわめて類似している」とある。なるほど、そういう見方もあるのかと思う。第1稿と第2稿の違いをおもしろがる時期は過ぎたのかもしれない。交響曲第3番や第4番はともかくとして、少なくとも第8番にかんしてはそう思う。ノットと東響の演奏はそういう見方を裏付けるような演奏だったともいえる。その意味では、目から鱗が落ちるような演奏だった。
(2025.4.5.サントリーホール)