Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ノット/東響

2025年04月07日 | 音楽
 初台(東京シティ・フィル)から溜池(東響)へ。連チャンは苦手だが、定期演奏会が重なったので仕方がない。東響はノットの指揮でブルックナーの交響曲第8番(第1稿、ノヴァーク版)。ノットの音楽監督ラスト・シーズンの幕開けだ。

 ブルックナーの交響曲第8番の第1稿はずいぶん聴くようになった。直近では2024年9月にルイージ指揮N響で聴いた。ルイージとN響の演奏も立派だったが、ノットと東響の演奏はルイージとN響をふくめたどの演奏とも異なる演奏だった。

 端的に言って、ノットと東響のような第1稿の演奏は聴いたことがない。第1稿には(ルイージとN響がそうであったように)ごつごつした荒削りの音楽というイメージがある。だがノットと東響の演奏で聴くと、緻密に構築された音楽に変貌する。ノットと東響はその音楽を滑らかに演奏した。驚くほどの説得力がある。第1稿の解釈として、今までだれも到達しなかった高さに達した感がある。

 少し具体的に言うと、たとえば第1楽章の例の(第1稿の)激しいコーダがじつに必然的に聴こえた。もちろん聴衆のわたしが第1稿に慣れたという事情もあるだろう。だがそれだけではなく、第1楽章全体を通して、コーダを突出したものにしない歩みがあったからだ。そういう説得力があった。

 ただハープが入らない第2楽章のトリオは、やはり引っ掛かった。第2稿が頭に染みついているからだろう。第3楽章のシンバル3回+3回=6回は、しつこくはあるが、でもむしろ微笑んでしまうような思いがした。

 一番感銘を受けたのは第4楽章だ。第1稿の緻密さの典型的な表れだ。ノットと東響は長大で複雑で隙のない論理を克明に追った。力量不足の指揮者なら、迷子になったり、無駄と思える箇所があったりするかもしれないが、ノットと東響にはそんなことは微塵もない。一本筋が通っている。音が積み重なり、熱狂のうちに終結する第1稿のコーダは圧倒的だった。

 石原勇太郎氏が執筆したプログラムノートに「第1稿と第2稿の違いはしばしば大袈裟に語られるが、実は2つの稿はきわめて類似している」とある。なるほど、そういう見方もあるのかと思う。第1稿と第2稿の違いをおもしろがる時期は過ぎたのかもしれない。交響曲第3番や第4番はともかくとして、少なくとも第8番にかんしてはそう思う。ノットと東響の演奏はそういう見方を裏付けるような演奏だったともいえる。その意味では、目から鱗が落ちるような演奏だった。
(2025.4.5.サントリーホール)
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高関健/東京シティ・フィル

2025年04月06日 | 音楽
 東京シティ・フィルが創立50周年のシーズンを迎えた。高関健のもとで好調理に記念すべきシーズンを迎えることができた。わたしは高校時代のブラスバンドの後輩が同フィルの創立メンバーだったので、創立当時にチケットを買わされて何度か聴きに行った。当時とくらべると今の充実ぶりは目をみはるようだ。

 記念すべきシーズンの最初の定期演奏会は、高関健の指揮でまずショスタコーヴィチの組曲「ボルト」の抜粋。同じショスタコーヴィチでも「祝典序曲」なら月並みな感じがしただろうが、「ボルト」という選曲が高関健らしい。演奏は各曲(5曲)のキャラクターが鮮明に描出される好演だった。たとえば「官僚の踊り(ポルカ)」のピッコロや「荷馬車引きの踊り(変奏曲)」のトロンボーンなど。

 良い機会なので書いておきたいが、ピッコロを吹いたのは正木知花さんだ。いつもは二番フルートを吹いている。正木さんの二番奏者としてのセンスはピカイチだと思う。一番奏者は、前は竹山愛さん、今は多久和怜子さんだが、(もちろん二人は優秀だが)二人が安心して吹けるのも正木さんが下で支えているからではないだろうか。

 2曲目はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は大谷康子。大谷さんは1981年から13年間東京シティ・フィルのコンサートマスターを務めた。今の楽員たちの大先輩だ。ヴァイオリン独奏も良かったが、オーケストラもしっかりバックを付けていた。わたしはあらためてこの曲は良い曲だと思った。3曲目にサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」が演奏された。

 4曲目はストラヴィンスキーの「春の祭典」。鮮烈な演奏だった。高関健はプレトークで「春の祭典」の各フレーズにはすべて出典がある(たとえば「ボルガの舟歌」など)という研究があることを紹介した。また「『春の祭典』というと変拍子とか、それ以前の『火の鳥』や『ペトルーシュカ』とは断絶した音楽とかと考えがちだが、オペラ『ナイチンゲール』は第1幕が『火の鳥』と、第2幕が『ペトルーシュカ』と、第3幕は『春の祭典』と作曲時期が重なる」と。

 なるほど、そういわれてみると、「春の祭典」の聴き方が少し変わる。その意味で面白かった。一方で、「春の祭典」にはそのような民族的な要素から抜け出る部分があることも事実で(たとえば第1部の最後の「大地の踊り」と第2部の最後の「いけにえの踊り」)、その部分をことさらに意識する結果になった。演奏は、不必要に力まずに、力を抜くべきところは抜き、それがかえって大地を揺るがすような箇所を際立たせた。また平板になりがちな第2部冒頭が細かくニュアンスづけられていた。
(2025.4.5.東京オペラシティ)
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物価高騰のクラシック音楽への波及

2025年04月03日 | 音楽
 物価高騰の余波がクラシック音楽にも及んでいる。今年10月のウィーン国立歌劇場の来日公演のチケット代は、平日で最高7万9000円、土日で最高8万2000円だ。夫婦や恋人同士で行けば16万円前後。それでも行く人がいる。富めるものと冨まざるものとの格差拡大が表れる。

 今年8月のサントリーホール・サマーフェスティバルのスケジュールが発表された。同フェスティバルは例年「ザ・プロデューサー・シリーズ」と「国際作曲委嘱シリーズ」と「芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会」の3本柱で構成される。だが今年は「ザ・プロデューサー・シリーズ」はない。大幅な規模縮小だ。制作コストの上昇のためだろうか。

 話が横道にそれるが、サントリーホール・サマーフェスティバルはわたしの一年間のメインイベントだ。毎年、今年のザ・プロデューサーはだれだろうと楽しみにしていた。それがなくなる。ショックが大きい。来年以降はどうなのだろう。

 同様に規模縮小の例では、新国立劇場の今年9月からの新シーズンもそうだ。新制作は「ヴォツェック」と「エレクトラ」の2本だけ。新作オペラやバロック・オペラの新制作はない。これも制作コストの上昇のあおりだろう。併せて、国からの補助金の削減も大きな要因だろう。

 もう一例をあげると、東京オペラシティのB→Cシリーズのチケット代が4月から4000円になった。3月までの3000円から1000円のアップだ。コスト上昇のためだろう。仕方がないとは思うが、それにしても3000円から4000円へのアップは大きい。3500円とかの中間段階をすっ飛ばす。だが、そのような上昇の仕方が、今の世の中ではざらになった。なんだかタガが外れた上がり方だ。

 聴衆としては、嘆いてばかりもいられない。自衛手段は、席のランクを下げるか、演奏会に行く回数を減らすかしかない。あるいはネット配信に比重を移すか。今はベルリン・フィルの定期演奏会をネットで視聴できる時代だ。「生の音楽にはかなわない」などと言ってはいられない、という声が出るかもしれない。

 だが、そんな時代であっても、わたしの主なフィールドである在京オーケストラは頑張っている。チケット代の値上げを極力抑えながら、意欲的な公演を続ける。不思議なもので、聴衆の数は減っていないように見える。みんな生活をやりくりしながら演奏会に出かけている。地方オーケストラもそうだろう。どのオーケストラも指揮者体制を整えて、曲目に工夫を凝らす。地元の支持も厚いのだろう。地方オーケストラに腰を据えて取り組む指揮者がいることも頼もしい。
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ヴァンスカ/東響

2025年03月30日 | 音楽
 オスモ・ヴァンスカが東響に初登場した。1曲目はニールセンの序曲「ヘリオス」。ヴァンスカは読響を振っていたころに(もう何年も前だ)ニールセンやベートーヴェンの交響曲をよく演奏した。久しぶりなので、楽しみにしていた。

 だが、演奏が始まると、当時とはだいぶ様子が違う。読響のころのヴァンスカは、オーケストラの手綱を締めて、贅肉のない引き締まった音を出していた。ところが今回の東響では手綱を緩めて、たっぷり鳴らす。また読響のときは、打点が先に先にと進み、前のめりのテンポ感があった。今回はそれが消えた。ごく普通のテンポ感だ。

 2曲目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。ピアノ独奏はイノン・バルナタン。ピアノ独奏もさることながら、わたしはオーケストラが気になった。弱音のコントロールに気を配った演奏だ。そこに鋭角的なアクセントを打ち込む。緊張感のある演奏だ。以前のヴァンスカのイメージが少し戻る。

 バルナタンは初めて聴いたが、とても良かった。音の分離が良いというのはオーディオ用語かもしれないが、まさにそう感じた。どんなに速いパッセージでも音が明瞭に分離して聴こえる。音が団子状にならない。ひじょうにクリアーな演奏だ。なおバルナタンのアンコールがあった。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第6番から第3楽章だ。音の粒子が輝くような演奏だった。

 3曲目はプロコフィエフの交響曲第5番。第1楽章は1曲目と同じような鳴らし方だ。どこか緩い。それが今のヴァンスカの鳴らし方なのだろうか。フィンランドのラハティ交響楽団を鍛え上げ、またアメリカのミネソタ交響楽団を長年率いた重責から解放されて、少し変わったのか。あるいはヴァンスカは1953年生まれなので、年齢も影響しているのかと、取り止めのないことを考えた。

 第2楽章はバレエ「ロメオとジュリエット」のために書いた音楽の転用だ。以前のヴァンスカなら鮮やかに演奏しただろうが、今はどうかと注目した。結果的には、第1楽章ほどの違和感はなかったが、それでもまだ腑に落ちない部分があった。次の第3楽章アダージョにも満足できなかった。音にプロコフィエフ特有の光沢がない。第4楽章フィナーレが一番しっくりした。よく決まった演奏だ。

 終演後は大喝采だった。それはそれでよいが、わたしは違和感の原因をさぐった。ヴァンスカは東響が初めてだったからだろうか。それともコンサートマスターが、当初予定のグレブ・ニキティンが急病のため、田尻順に代わったことも影響したのだろうかと。
(2025.3.29.サントリーホール)
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「カナレットとヴェネツィアの輝き」展

2025年03月26日 | 美術
 昨年秋にSOMPO美術館で「カナレットとヴェネツィアの輝き」展を見た。予想以上におもしろかった。ブログを書こうと思っていたが、そのままになった。本展は今、京都文化博物館に巡回中だ(4月13日まで。4月24日から山口県立美術館に巡回する)。遅ればせながら、感想を。

 カナレット(1697‐1768)はヴェドゥータ(都市景観図)の巨匠だ。ヨーロッパの主要な美術館に行くとたいていカナレットの作品がある。定規で線を引いたような遠近法が目を引く。だが少なくともわたしの場合は、それほど注意して見るわけでもなく、さっと通り過ぎていた。

 本展はカナレットが注目に値する画家であることを示す。たんなる絵葉書のような作品ではない。加えて、先回りしていえば、本展はカナレットを出発点としてヴェドゥータがどう変遷したか、その軌跡を(モネに至るまで)概観する。

 カナレットというと、「ああ、あの遠近法の画家ね」とか「ヴェネツィアを描いた画家ね」とかといって、それで分かった気になるが、わたしは本展で、カナレットがヴェネツィアの光を表現するために、無数の泡のような点を描き加えたことを知った。その典型的な例はチラシ(↑)に使われている「昇天祭、モーロ河に戻るブチントーロ」(1738‐1742頃)だ。舟につけられた無数の点は、離れて見ると、光のきらめきのように見える。

 だが、わたしが本展で一番惹かれた作品は、ヴェネツィアの裏町を描いた「サン・ヴィオ広場から見たカナル・グランデ」(1730年以降)だった。前記の「昇天祭、モーロ河に戻るブチントーロ」がヴェネツィアのハレの日を描いた作品であるのに対して、「サン・ヴィオ広場から見たカナル・グランデ」は穏やかな日常を描いた作品だ。男たちが舟の上で仕事をしている。河岸には暇そうな男がぶらぶらしている。立小便をしている男もいる。犬もいる。建物の上階では女が洗濯物を干している。温かみのある日常風景だ。

 カナレットの作品は当時よく売れた。とくにグランド・ツアーでヴェネツィアを訪れたイギリス貴族の子弟に大人気だった。そんな関係からだろう、カナレットがイギリスに招かれて描いた作品が展示されている。「ロンドン、ラネラーのロトンダ内部」(1751年頃)は見事な遠近法だ。一方、風景画は色がくすんでいる。カナレットらしくない。ヴェネツィアとロンドンの光の違いだろうか。

 カナレットが晩年に描いたローマの作品が展示されている。まったく精彩がない。ヴェネツィアを描いた頃のカナレットは、特別な輝きを放っていたようだ。
(2024.10.22.SOMPO美術館)
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