Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

モーム生誕150年(2):「雨」・「赤毛」

2024年12月29日 | 読書
 サマセット・モームの「雨」と「赤毛」は南洋の島を舞台にした作品だ。モームは第一次世界大戦中にイギリスの諜報員だったが、神経を使う激務だったのか、健康を害した。静養のために1916年にアメリカに渡り、その足で南洋を旅した。そのときの見聞が反映されている。

 「雨」と「赤毛」はいずれも衝撃的な結末を迎える。短編小説の名手といわれるモームの真骨頂だ。それらの結末には人生の苦さがにじむ。興味深い点は、旧約聖書および新約聖書との関連だ。「雨」も「赤毛」も長年にわたり読み継がれている作品だ。当ブログでは旧約聖書・新約聖書との関連にしぼって書いてみたい。

 「雨」の主要な登場人物は、医師のマクフェイル博士とその妻、伝道師のデイヴィッドソンとその妻、そして売春婦のミス・トムソンの5人だ。南洋の旅行中に疫病発生のため、ある島に閉じ込められる。時あたかも雨季の真最中だ。雨に閉じ込められた5人のあいだに事件が起きる。

 ストーリーの詳細は省くが、伝道師のデイヴィッドソンは厳格すぎるほど厳格な伝道師だ。売春婦のミス・トムソンの放埓な振る舞いが許せない。ミス・トムソンが水夫を相手に開いたパーティーに怒鳴りこむ。そんなデイヴィッドソンが聖書を読む場面がある。ヨハネ福音書の「姦淫の女」の一節だ。

 内容を要約すると、姦淫をはたらいた女(マグダラのマリアと同一視されることがある)が人々に取り囲まれる。モーゼの律法では、姦淫は石打ちの刑に相当する。人々はイエスに問う。「あなたはどうするか」と。イエスはいう。「あなたがたの中で罪のない者が、まず石を投げなさい」と。人々は立ち去る。イエスは女を許す。

 伝道師のデイヴィッドソンはイエスに、ミス・トムソンは姦淫の女になぞらえられる。デイヴィッドソンの導きにより、ミス・トムソンは悔悛の情をしめす。だが最後にどんでん返しが起きる。ミス・トムソンのせいではない。デイヴィッドソンのせいだ。デイヴィッドソンはイエスではなかったのだ。途中に伏線が一か所ある。それは――デイヴィッドソンはネブラスカの山々の夢を見ると、マクフェイル博士(=モーム自身)に告げる。マクフェイル博士はネブラスカの山々を思い出す。あの山々は女の乳房に似ていると。

 「赤毛」は失楽園の南洋版だ。南洋の島で繰り広げられるアダムとイブの物語。それは絵のように美しい。だが楽園追放の事件が起きる。その事件は痛ましい。その後何十年もたって、オチがつく。「雨」の結末と同様に衝撃的だ。わたしたちの実人生にもありそうな話だ。なお「赤毛」の場合は「雨」とは異なり、伏線が周到に張られる。
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モーム生誕150年(1):「英国諜報員アシェンデン」

2024年12月28日 | 読書
 2024年はサマセット・モーム(1874‐1965)の生誕150年だ。モームの作品は大学受験のときに英文読解で読んだ記憶が災いして、大学に入ってからは見向きもしなかった。それから数十年たち、生誕150年なら読んでみようかと思った。手に取ったのは「英国諜報員アシェンデン」。周知のようにモームは、第一次世界大戦中はイギリスの諜報員(スパイ)だった。その経験が書かれているのかと。

 諜報員の仕事は頭が良くなければ務まらないだろう。加えて、目立つ人物ではまずいだろう。頭が良くて、社会に溶け込み、人から警戒されない人物であることが必要だろう。もっと踏み込んでいえば、人の心をつかむ術にたけていなければならないだろう。そうでなければ、人の信頼を得ることはできない。モームの作品を読むとわかるが、モームは人間観察型の作家だ。安易に感情に流されない。だれかに肩入れすることもない。いつも冷静中立だ。おまけに紳士だ。教養の高さは一級品だ。そういう人物はたしかに諜報員に向いているのかもしれない。

 モームは諜報員の仕事について本作でこう書く。「複雑で巨大な機械の小さなネジにすぎない自分には、全体の動きなど知りようがない。関わることができるのは序盤か終盤、中盤に関われることも多少はあるかもしれないが、自分の行ったことがどういう影響をおよぼしたかを知るチャンスはほとんどない。」(第2章「警察の捜査」。新潮文庫より引用)。なるほど、そうだろうなと思う。

 「英国諜報員アシェンデン」はジェームズ・ボンドの007シリーズとは異なり、派手なアクションや金髪美人は出てこない。その代わりに、味のある人物が多数出てくる。モームは本作でも人間観察型の作家なのだ。

 本作は16章からなる。実質的には16篇の短編小説の連作だ。各々の章は独立しているが、同一人物が2~3の章に連続して出てくる場合もある。その場合はそれらの章がまとまって中編小説のようになる。

 印象深い人物の一例をあげると――第10章「裏切り者」に出てくるグラントリー・ケイパーはしみじみした余韻を残す。ケイパーはイギリス人だが、妻はドイツ人だ。イギリスとドイツは戦争中だ。ケイパーはドイツのスパイだが、イギリスの罠に引っかかり、悲劇的な結末を迎える。妻の嘆きは痛々しい。モームはそんなケイパーを非難しない。

 なお「英国諜報員アシェンデン」以外にアシェンデン(=モームの分身)が出てくる作品がある。「サナトリウム」だ(新潮文庫「ジゴロとジゴレット」に所収)。本作はモームには珍しくハッピーエンドを迎える。
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下野竜也/日本フィル

2024年12月22日 | 音楽
 日本フィルの12月の横浜定期は恒例の「第九」。今年の指揮者は下野竜也。前プロにオットー・ニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲が演奏された。なんとも懐かしい。昭和レトロの曲といったら言い過ぎだろうか。何十年ぶりかに聴いた。活力ある音楽と演奏に元気が出た。

 休憩後は「第九」。第1主題がパンチのきいた音で鳴る。下野竜也の「第九」を象徴するかのような音だ。以後明確なリズムで音楽が進行する。幽玄さを気取るところは皆無だ。音楽の流れが明晰だ。だが不満も感じた。音楽の熱が次第に上がることがないのだ。言い換えれば、音楽があるところで急に深まるような感覚がない。

 第2楽章は歯切れの良いリズムが一貫する。それはそれで面白い。そのような演奏で聴くと、リズムだけで音楽を書いたベートーヴェンという作曲家に驚嘆する。他のだれもやったことがないような音楽だ。

 第3楽章は意外に印象に残らなかった。音楽の流れは良く、音も美しいのだが、第1楽章と同じように、熱が高まらないことが気になった。わたしの主観かもしれないが、演奏はあっという間に終わった。ストレスの残らない演奏だった。

 第4楽章が始まる。バリトン独唱(宮本益光)の後に合唱(東京音楽大学)が入ると、その声のフレッシュさに身震いした。透明で、しかも張りのある声だ。若い人でなければ持ちえない純粋さに溢れている。人生の入り口に立ち、希望だけではなく、迷いも恐れもあるだろうが、でも今そのときでなければ持ちえない新鮮さがある。ベテランのプロ合唱団からは失われたものがある。

 合唱の声に耳を澄ましていると、第4楽章の主役は合唱だと痛感する。独唱者4人でもなく、またオーケストラでもなく、合唱が主役だ。ベートーヴェンが書いた音楽はそういう音楽だと。じつは前述のように日本フィルの横浜定期は、毎年12月は「第九」で、しかも合唱は毎年東京音楽大学なのだが、今年はとくにその歌声に感動した。トレーナーの準備が良かったからかもしれないが、下野竜也の明確なアクセントも効果的だったのだろう。

 下野竜也の指揮で驚いたのは、終結直前のマエストーソの部分のテンポだ。周知のようにベートーヴェンの指示は四分音符=60だが、普通は八分音符=60で演奏する。だがそれをベートーヴェンの指示通りにやったのではないだろうか。そうやると音価が2分の1になるので、終結直前にグッとためるのではなく、一気呵成に終結するような演奏になる。帰宅後調べてみると、下野竜也はN響でも読響でも四分音符=60でやったようだ。
(2024.12.21.横浜みなとみらいホール)
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B→C 葵トリオ

2024年12月18日 | 音楽
 葵トリオがB→Cに出演した。1曲目はシュニトケのピアノ三重奏曲。原曲は弦楽三重奏曲だったそうだ。シュニトケ自身がピアノ三重奏曲に編曲した。原曲は1985年の作曲、ピアノ三重奏曲は1992年の編曲。シュニトケ最晩年の作品だ。

 2楽章構成で、2楽章とも緩徐楽章だ。武満徹のピアノ曲「2つのレント」を思い出す。シュニトケのこの曲は沈鬱な楽想が基調だが、時々激情的なパッセージが駆け抜ける。同じような楽章を2つ続けて聴くと、最後はすべてが語り尽くされた感が残る。シュニトケはなぜこの曲を書いたのだろう。シュニトケのペシミスティックな心境の表れだろうか。

 2曲目は細川俊夫の「メモリー ――尹伊桑の追憶に」。同じ沈鬱な音楽でも、細川俊夫の音楽はシュニトケの音楽とはなんと違うのだろう。薄く張った透明な音。時間が止まったような感覚だ。大事な人が亡くなったときの喪失感はそういうものかもしれない。

 3曲目は山本裕之の「彼方と此方」。シュニトケの音楽とも細川俊夫の音楽ともまるで違う。いや、当夜演奏されたどの音楽とも違う。比喩的にいえば、ランダムに動く3つの運動体があり、それがやがてひとつの有機体に収斂し、エネルギーを失うという音楽だ。音の新鮮さが目をみはるようだ。

 4曲目と5曲目は藤倉大の「nui(縫い)」と「nui2(縫い2)」。「nui(縫い)」は短い曲なので印象が残らなかった。「nui2(縫い2)」はリズミカルなピアノの動きの続く部分が印象的だが、その動きにはどこか既視感もあった。

 休憩をはさんで後半。6曲目はバッハのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ト長調BWV1021。バッハの名曲のひとつだが、演奏は一風変わっていた。ヴァイオリンと通奏低音の音楽ではなく、チェロとピアノがヴァイオリンと対等に渡り合うピアノ三重奏のような音響体だ。わたしにはちょっと経験がない音響体だった。

 最後の7曲目はヴァインベルクのピアノ三重奏曲。これは目の覚めるようなパワフルな演奏だった。葵トリオが海外で認められる所以だろう。日本人の演奏家がかつて(そして今も)いわれる「箱庭的」な演奏とは一線を画す。それだけのパワーがあって初めて聴く者の肺腑をつく演奏になるのだろう。

 それにしてもこの曲は面白い。全4楽章の大曲で、どの楽章も面白いが、第4楽章の最後が静かに終わる。激しい闘争のような音楽が続いた後での静かな終わり方。それはなんだろう。作曲は1945年だ。戦争終結後の、喜びもなにもない、空白の時間の訪れだろうか。
(2024.12.17.東京オペラシティ小ホール)
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ルイージ/N響

2024年12月15日 | 音楽
 ルイージ指揮N響の定期演奏会Cプロ。曲目はリストの交響詩「タッソー」と「ファウスト交響曲」。リストの管弦楽曲を再認識する良い機会だ。

 1曲目の交響詩「タッソー」は弦楽器の暗い音色から始まる。やがてバス・クラリネットがテーマを吹く。鬱屈したテーマだ。それにしてもテーマを提示するのがバス・クラリネットであることにハッとする。ちょっと珍しい。演奏が情感豊かだ。曲はその後、明るさを増し、最後は交響詩「プレリュード」を思わせる勝利の音楽になる。N響の金管楽器が輝かしい。

 広瀬大介氏のプログラムノーツによると、リストには交響詩が13曲あるそうだ(その他に交響曲が2曲ある)。その全部は聴いていないが、「タッソー」や「プレリュード」から類推すると、リストの管弦楽曲にはひとつの“色”がありそうだ。それは暗い色だが、どこかに暖色系の色が紛れこむ。渋いようで甘い色だ。リストの交響詩を継承した作曲家はリヒャルト・シュトラウスだろうが、シュトラウスの“色”はもっと華やかだ。そのちがいは半音の使い方からくるだろうが、それ以外にリズムのちがいもありそうだ。リストの管弦楽曲のリズムはストレートだ。

 2曲目の「ファウスト交響曲」はもっと面白かった。ルイージ指揮N響の演奏はこの大曲を隅々まで味わい尽くすものだった。細部のニュアンスを表出し、しかも細部に拘泥するあまり全体が崩れるということがない。細部と全体のバランスがとれた名演だ。

 第3楽章(最終楽章)ではメフィストフェレスがファウストを翻弄する。にっちもさっちもいかなくなったとき、オーケストラが止まり、オルガンが鳴る。教会のオルガンを想起させる。そして静かに男声合唱が始まる。ゲーテの戯曲「ファウスト」第2部の最後の「神秘の合唱」だ。やがてテノール独唱が入り、「女性的なるもの」によるファウストの救済が歌われる。男声合唱は東京オペラシンガーズ。テノール独唱は名歌手のクリストファー・ヴェントリスだった。

 わたしは以前から、最後はなぜ男声合唱なのだろうと思っていた。「女性的なるもの」を歌うのに女声が入らないのはなぜか‥と。だが今回腑に落ちた。ファウストは徹頭徹尾“男”の物語なのだ。そう思った理由は次の通りだ。――第3楽章の途中で第2楽章のグレートヒェンのテーマが回想される。ファウストが不幸に陥れたグレートヒェンだ。ファウストはメフィストフェレスに翻弄されるなかでグレートヒェンを想い出す。そして最後にファウストはグレートヒェンの聖母マリアへのとりなしで救済される。そんな都合の良い話は“男”のエゴのなかにしかないから男声合唱なのではないだろうか。
(2024.12.14.NHKホール)
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