Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

館山旅行

2020年01月25日 | 身辺雑記
 しばらく前に(正月明けの頃だった)房総半島の館山に行った。東京から館山までは、以前はJR内房線で行ったが、今ではバスが主流になっている。わたしもバスで行った。なんの変哲もない一泊旅行だったが、心に残っていることがあるので、簡単に旅行記を。

 バスが東京湾アクアラインを通って千葉県に入ると、のどかな山里風景の中を走るようになる。しばらくすると鋸南町に入った。屋根にブルーシートをかぶせた民家が目立つ。昨年の台風15号と19号の被害だろう。復旧が遅れていることは新聞等で報道されているが、それを目の当たりにすると、「あれから何か月もたつのに‥」と胸が痛む。気のせいか、ブルーシートをかぶせた民家は、ポツンポツンと点在するのではなく、ある場所に固まっているように見える。そんな場所が何か所もある。地形とか風向きとか、何か原因があるのだろうか。

 宿に着いてフロントの人に「去年は大変でしたね」と話しかけると、「そうなんです。うちもガラスが何枚か割れました。でも、それ以上に停電が続いたのが大変でした」と。わたしも当時その宿のホームページで休業が続いているのを見ていた。停電が原因だった。営業再開になったら早く行こうと思っていたが、体調を崩したので、今頃になった。今はお客さんも戻っているようでホッとした。

 その日は東京も暖かい天気だったが、館山は東京よりも2度くらい暖かく、海岸を歩くと気持ちがよかった。高校生くらいの男の子が3人堤防の上で話していた。見渡す限りの海の中で、時間を忘れて話す様子が好ましかった。その男の子たちは日没までいた。写真(↑)はわたしの部屋から夕暮れの海を撮ったもの。写真には写っていないが、男の子たちはまだ堤防にいた。

 夕食を終えて部屋に戻ると、東京湾をはさんで三浦半島の灯台がよく見えた。灯台は3基あり、観音崎の灯台、久里浜の灯台、剣崎の灯台だった。それらの灯台が等間隔に並び、暗い海に光を放っていた。船舶の航行を守るその光が力強く、また暖かかった。

 翌朝もよく晴れた。窓を開けて潮風を入れた。波の音に癒された。人間が波の音に癒されるのは、何かわけがあるのだろうか。わたしの義父は亡くなる前に「波の音が聞きたい」といった。わたしは波の音のCDを買ってきて聞かせた。義父はその数日後に亡くなった。自宅で亡くなったのでできたことかもしれない。病院だったらできただろうか。

 人間も自然界の一部なので、体の奥底に自然のリズムが宿っているのかもしれない。そう思うくらい波の音が体に響いた。
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友人を悼む

2019年12月13日 | 身辺雑記
 高校時代の友人が今年2月にフランスのリヨンで亡くなった。友人は2年ほど前にリタイアしてから、自分のためにお金を使うんだといって、毎月のように海外旅行に出かけた。個人旅行ではなく、添乗員が同行するツアーに参加して、そのようなツアーで行く観光地をつぶさに回った。旅行から帰ると、写真を見せながら、現地の風物や社会状況の話をした。そのときの友人は楽しそうだった。

 今年の2月にはフランスに行った。フランスに行くという話は聞いていた。そんなある日、奥様から電話がかかってきた、「主人が亡くなったんです」と。えっ、と驚いた。詳しい状況を聞きたかったが、奥様もわからない様子だった。わかっていることは、リヨンのホテルで亡くなったということ。遺体はまだ日本に帰ってきていないが、葬儀の日取りを決めたこと。ただ、遺体が間に合うかどうかはわからない‥。

 奥様も途方に暮れているようだった。何度か電話で話すうちにわかってきたのだが、友人はリヨンのホテルに泊まっていて(一人部屋)、朝、集合時間に現れないので、添乗員が見に行ったところ、部屋で倒れていたとのこと。ツアーはその日の予定があるので、友人の処理を警察に託して、ホテルを出発した。警察は司法解剖をした後、遺体を日本に送るか、現地で荼毘にふすか、その判断を旅行会社経由で奥様に求めてきたそうだ。

 奥様は遺体を日本に送るよう求め、結局、遺体は葬儀の直前に到着した。遺体についてきた死亡診断書にはフランス語で「腸に細菌がついた」とだけ書いてあったそうだ。死因についてはそれ以上のことはわからない。奥様もわたしたちも、友人が亡くなったという事実だけを受け入れざるを得なかった。

 わたしはそれ以来、友人の死についてモヤモヤした状態が続いていたが、10月になって「あっ、これだ!」とわかる事態が起きた。わたし自身が下腹部に激痛を起こし、救急車で病院に搬送された。鼠径ヘルニアの嵌頓という診断だった。深夜だったが、消化器外科の当直医がいて、整復に成功した。その際の当直医の説明によると、整復ができなかった場合は緊急手術になり、手遅れになると腸が壊死して、敗血症になり、重篤の状態になる(死ぬ)可能性もあったそうだ。

 友人はこれだったのではないかと思った。友人は添乗員の部屋に電話をした形跡があるそうだ。だが、添乗員は出なかったのだろう。もし添乗員が電話に出ていたら、と思わないでもない。ともかく友人は一晩のうちに亡くなった。奥様の話によると、友人は鼠径ヘルニアを自覚していて、旅行前に奥様に「死ぬ場合もあるんだぞ」といったそうだ。旅行後には病院の予約を入れていたというが‥。
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平成最後の日に

2019年04月30日 | 身辺雑記
 平成最後の日の東京は、朝方、雨模様だった。4月からリタイア生活に入り、午前中は近くの図書館で過ごすことが多いのだが、今日はなにか感じるところがあって、CDを聴きたくなった。では、なにを聴くか。フッと思い浮かんだのは、ベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」だった。演奏は? 大家の録音が目白押しだが、あまり重くないほうがいい。そう思って、1954年オランダ生まれのロナルド・ブラウティハムの盤にした。

 その演奏では、モダン・ピアノではなく、フォルテピアノが使われている。古雅なその響きを聴いているうちに、ベートーヴェンが弾く姿が目に浮かんだ。ボサボサの髪を振り乱して、猛烈な勢いで弾いたのではないか、と。

 「ディアベリ変奏曲」を選んだのは、33曲もの変奏の迷宮に心を遊ばせたくなったからだ。平成最後の日の過ごし方として、それはふさわしく思えた。

 平成という時代区分にどれほどの意味があるのか、その議論は別にして、今上天皇への想いはたしかにある。それをはっきり意識したのは(いや、わたしの想いがなんであるかを、はっきり理解したのは)、一昨年、政治学者で音楽評論家でもある片山杜秀氏と宗教学者の島薗進氏の「近代天皇論――「神聖」か、「象徴」か」(集英社新書)を読んだときだ。

 一言でいうと、今上天皇は象徴天皇制をだれよりも深く、突き詰めて考え、それを実践してきた、という論旨だったと思う。退位の意向をにじませた「お言葉」は、その帰結であり、総仕上げのようなものだと、本書がそこまで明言していたかどうかは、今、記憶がないが、少なくともわたしはそう理解した。

 「お言葉」が発表されたとき、日本の保守層からは猛反発が起きた。わたしのような者でも、当時、保守層の某シンポジウムを傍聴する機会があり、その反発の大きさに驚いた。その「お言葉」は、はからずも、今上天皇がなにと闘ってきたかを可視化した。今振り返ってみると、そう思う。

 象徴天皇の威力が、もっとも望ましい形で、最大限に発揮されたのは、東日本大震災に当たって発表されたビデオメッセージではなかったろうか。大震災の発生後まだ間もない時期に、人々が深い喪失感のうちにあったとき、今上天皇の国民に寄りそうデオメッセージは、国民の心を一つにした。

 ペリリュー島への慰霊の旅も印象的だった。海に向かって頭を下げる天皇皇后両陛下の姿は、わたしたちに「戦争を忘れてはいけない」と語っているようだった。それは戦後民主主義の(その価値観の)体現のように見えた。
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わたしの卒業旅行

2019年04月25日 | 身辺雑記
 4月からリタイア生活に入った。事前に卒業旅行を計画した。友人夫妻が福島県の飯坂温泉に住んでいて、遊びに来ないかと誘ってくれたので、友人夫妻を訪問しようと思っていた。だが、3月に入って、まずわたしが風邪をひき、続いて妻も風邪をひいたので、止むを得ず、4月初めの訪問予定はドタキャンして、4月22日から2泊3日で訪問させてもらった。

 4月22日、妻とわたしが福島駅に着くと、友人夫妻が迎えに来てくれていた。車で飯坂温泉へ。友人宅に行く途中、「花ももの里」(写真↑)に寄った。40品種・約300本の花ももが咲く桃源郷だった。

 友人宅で昼食。昔話に花が咲く、というよりも、久しぶりに会った気がしない。ブランクを全然感じないで話に入っていけた。友人とわたしは、長年、同じ団体で働いていたが、職場が違うので、仕事上の接点はあまりなかった。友人は2つの病院の事務部長を歴任して定年を迎えた。趣味が広くて、若い頃から登山と写真を本格的にやっていた。また、定年前後の時期にはタイとミャンマーの医療支援のNGO活動に参加した。再就職が終わって郷里の飯坂温泉に引っ込んでからは、畑仕事を始めた。畑仕事はまったくの未経験。同窓生の指導を受け、本を読みながら、約500坪の畑で多様な野菜や果物を作っている。

 その夜は友人夫妻とわたしたち夫婦で大宴会。友人が作ったアスパラガスその他の野菜に舌鼓を打ち、友人が支援しているワイナリーのワインを飲みながら、夜の更けるのも忘れて語り合った。

 翌日は午前中、畑の隅に設けられたピザ窯でピザを焼き、晴れた空の下で、空き箱に座って食べた。その美味しかったこと! 気分は最高!

 午後は車で福島第一・第二原発のそばまで連れて行ってもらった。浪江町、双葉町、大熊町と名前だけは知っている町を通過。「帰還困難地区」の立看板が林立し、民家の出入り口にはバリケードが付けられている。持参した線量計は、飯坂温泉では0.05マイクロシーベルト程度だったが、みるみる上昇して0.95程度までいった。帰りは高速道路を使った。道路脇に線量表示があり、2.4程度を示している。車内と屋外ではずいぶん違う。友人は「こういう所でも働いている人がいるんだからなあ」と言っていた。

 帰宅後、妻と温泉に行った(前日も行った)。飯坂温泉には10か所以上の温泉場がある。各温泉場には個性があり、また風情がある。

 その晩も大宴会。友人とこんなに語り合ったことはかつてなかった。それがなによりの収穫だった。
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亡父の呉海軍工廠時代

2019年03月07日 | 身辺雑記
 わたしの父は1917年(大正6年)に東京の羽田で生まれ、1998年(平成10年)に同地で亡くなった。満80歳だった。わたしが小さい頃は町工場で旋盤工をしていたが、わたしが中学生の頃にボール盤を購入して自宅で仕事を始め、しばらくして旋盤を購入した。亡くなる日まで仕事をしていたが、その日の午後に納品のため自転車で家を出たときに心臓発作に襲われ、そのまま息を引き取った。

 父は生前よく「戦争中は呉の海軍工廠にいた」と言っていた。「戦艦大和を見た。今度の艦は大きいなと驚いた」とも言っていた。そんな断片的な話がいくつか記憶に残っている。「戦争中はラジオに出てヴァイオリンを弾いた」とか、「広島の原爆のキノコ雲を見た。おれは原爆を知らなかったが、中には知っている人がいて、『あれは原爆だ』と言っていた」とか、「反戦ビラを見たことがある」とも言っていた。

 だが、いずれも断片的な話で、亡父の呉海軍工廠時代の全貌はつかめなかった。父が亡くなって久しいが、わたしはそんなモヤモヤした気持ちを抱いていたので、2018年1月に呉海軍工廠の跡地に行ってみた。

 そのときの訪問記をブログに書いたところ、それを読んだある方がコメントを寄せてくださった。その方は呉海軍工廠ゆかりの人々を訪ねた本(※1)を上梓している方だった。以後、その方とコメント欄での交流が続き(※2)、その方のご指導を受けて、わたしは亡父の軍歴照会を厚生労働省に行ない、先日その回答を得た。

 亡父は昭和16年(1941年)2月に国民徴用令により徴用され、呉海軍工廠製鋼部普通工員となり、昭和20年(1945年)9月に徴用解除(解傭)になったことがわかった。あわせて厚生労働省からは「呉海軍工廠徴工名簿(徴用工員・自家徴用)」の亡父の部分の写しが送られてきた。亡父の名が記載されているその名簿は、わたしには言葉にならないほど重かった。

 それらの事実をコメント欄でお伝えしたところ、その方(ハンドルネーム「フランツ」様)は驚くべき資料を教えてくれた。その資料は「つわぶき第48号」という会報誌で、そこに島根県立津和野高等女学校(当時)から呉海軍工廠の製鋼部(!)に学徒動員された方の手記が載っていた(「島根津和野高女から呉海軍工廠に動員される」)。

 その手記を書いた方は、呉海軍工廠製鋼部で旋盤を使ったというから、亡父と同じ職場にいた可能性が強いと思われる。また昭和20年8月15日に玉音放送を聞くために製鋼部本部に軍人、工員、学徒の順に並んだというので、その工員の中に亡父がいたことはまちがいない。わたしには亡父の姿が見えるような気がした。そんな思いがけない経験をさせていただいた「フランツ」様に心から感謝する。

(※1)書名は「ポツダム少尉‐68年ぶりのご挨拶‐呉の奇跡」(自費出版・非売品)。わたしは東京の大田区立図書館から借りた。全国では140か所の図書館に収蔵されているという。
大田区立図書館の該当ページ

(※2)2018年1月8日の「瀬戸内の旅(1):呉海軍工廠跡」のコメント欄で今までに合計30回のコメントのやり取りをした。
コメント (40)
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「T4作戦」パネル展

2019年02月05日 | 身辺雑記
 2月1日~2日のわずか2日間だったが、都内でナチスの「T4作戦」パネル展が開かれた。わたしは東京新聞の記事(※)で知り、友人にも連絡して、行ってみた。2月1日の午後2時頃に会場に着くと、ヴィデオの上映が始まるところだった。ヴィデオはNHKのETV特集「それはホロコーストの“リハーサル”だった」。何人か集まっている観客の中に友人の姿を見つけた。

 ヴィデオは上映時間1時間の長いものだった。障害者を組織的に殺害した「T4作戦」(その犠牲者は20万人とも、それ以上ともいわれる)を、大竹しのぶのナレーションが、感情を押さえて、静かに語っていった。

 「T4作戦」のことは、何年か前にフランツ・ルツィウスの「灰色のバスがやってきた」(山下公子訳、草思社)を読んで知っていた。ヴィデオが語る事実はその範囲を出なかったが、実際にドイツの現場を訪れ、犠牲者の遺族と面会する映像は、わたしの眼を釘付けにした。

 そこで見たことを、今、言葉でなぞっても仕方がないので、それは控えるが、一つだけ、その後ずっと考え続けていることがあるので、それを述べてみたい。心ある人に共に考えてもらえれば、と思う。

 それは障害者を集めて殺害し、遺体を焼却する施設で働いていた人々へのインタビューの中に出てくる言葉だ。それらの人々はいっている、「私たちは命令に従っただけです。その命令は法律に基づいています。違法な命令ではありません。私たちは職務に忠実だったのです。(戦後の今でも)悪いことをしたとは思っていません」と。

 それを聞いて、わたしは2018年の夏に観た映画「ゲッベルスと私」を思い出した。ナチスの宣伝相ゲッベルスの秘書だった女性へのインタビューの記録映画だが、インタビュー当時103歳だったその女性は、頭脳明晰で、記憶の混濁もなく、明快に「私は職務を忠実に果たしたまでです」と答えていた。悪びれたところや、反省や後悔の念はなかった。

 思えば、ハンナ・アーレントが戦後のアイヒマン裁判を傍聴して、「悪の凡庸さ」と喝破したのも、同様の事例だったろう。

 「私は職務に忠実だっただけ」という思考回路が問題の拡大に決定的な役割を果たしたことに、世界は戦後の比較的早い段階で気付いたと思われるが、その思考回路を乗り越える方法を、世界は(今に至るまで)案出できているのだろうか‥。
(2019.2.1.都生協連会館)

(※)東京新聞の記事
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晩秋の徳本峠

2018年10月30日 | 身辺雑記
 友人夫婦とわたしたち夫婦とで徳本峠(とくごうとうげ)に行ってきた。徳本峠は上高地に入る旧道。今ではバスで新島々から上高地に入るが、昔はバスが通っていなかったので、徒歩で徳本峠を越えて上高地に入った。その旧道は今でも残っていて、山好きの人々に歩かれている。

 わたしたちはバスで上高地に入り、明神に1泊してから、翌日徳本峠を越えて島々に下った。上高地に入ったのは10月28日。当日は快晴で、穂高連峰がよく見えた。数日前に西穂高岳から奥穂高岳に向かう稜線上で遭難事故があったが、その稜線は白く雪がついていた。

 明神の宿は今では山小屋というよりも、旅館というほうがふさわしくなった。宿に着いたのは午後2時頃。夕食までには時間があるので、徳沢まで散策した。片道1時間ほどの距離。歩いていると暖かかったが、明神に戻った頃には薄暗くなって、空気も冷たくなった。

 夕食後、食堂でビールを飲みながら、友人と語り合った。その友人は仕事仲間だが、働いている場所が違ったので、今までゆっくり話したことがなかった。友人は生い立ちのことから始まって、その関係で差別を受けたこと、そのため差別反対が信条であることを熱く語った。

 翌朝は午前6時出発。曇り空のため、まだ暗かったが、歩いているうちに明るくなった。時々小雨が降ってきたが、雨具を着るほどではなかった。2時間ほどで徳本峠着。展望はまったくなく、強風が吹いていたので、すぐ下山にかかった。山小屋が開いていれば、中に入ってコーヒーでも飲みたかったが、残念ながら今年の営業を終えていた。

 下山路は風がなく、曇り空ではあったが、穏やかな天気だった。木々はすっかり葉を落とし、冬枯れの風景だったが、そのため見通しがよく、葉の茂っている季節には見えない風景が見えた。

 途中からは黄葉に次ぐ黄葉。秋まっさかりの山を堪能した。同行した友人夫婦は山の大ベテランだが、このコースは初めてで、歓声をあげて喜んでいた。写真(↑)はその途中で写したもの(登山道はこのように谷筋の沢沿いについている)。

 島々のバス停に着いたのは午後3時40分頃。わずか数分の差でバスが行った後だった。次のバスまで30分ほど待たなければならなかったが、幸いタクシーが通りかかったので、それに乗って松本へ。帰りの電車では、周りの乗客に気をつかいながら、静かに大人しく、ビールで乾杯した。
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迷子になった想い出

2018年08月17日 | 身辺雑記
 8月12日に行方不明になった藤本理稀(よしき)ちゃん(2歳)が15日に無事に発見されたニュースに安堵して、わたしも多くの方々と同じように、あれこれ思った。

 まず理稀ちゃんを発見した尾畠春夫さん(78歳)が、「子どもだから上に行くと思った」と語っていることに瞠目した。大人が山中で迷ったら、大概の人は下に行く。わたし自身、山で遭難した経験があるので、よくわかるが、道に迷ったら上に行くのが鉄則だとわかっていても、下に行こうとする。だが、子どもは違うのだろうか。それとも遊びだったからだろうか。

 また場所が周防大島だったことに、一種の感慨があった。当地は、わたしが今読んでいる民俗学者の宮本常一の「忘れられた日本人」の中の「子供をさがす」の場所だからだ。昭和20年代だと思うが、やはり周防大島の集落で、子どもが行方不明になった。そのとき村人たちは、だれが采配を振るうわけでもなく、みんなで手分けして地域の隅々まで合理的に探したという。

 興味深いのは、その集落にはよそから来て住みついた人々もいたが、そういう人々は、子どもの捜索には加わらず、道にたむろして「子どもの家の批評をしたり、海へでもはまって、もう死んでしまっただろうなどと言っている。」ことだ。

 共同体として機能している人々とそうでない人々と、その明暗がくっきり分かれることに、今の社会にも通じる、なんというか、普遍性がないだろうか。人間とは昔も今もなにも変わらず、むしろ今はネット社会なので、あらゆる面が露わになっているという気がする。

 もう一つの感想は、わたし自身の想い出だ。わたしも子どもの頃に迷子になったことがある。わたしの家には風呂がなかったので、近くの銭湯に行っていたが、その日は修理かなにかで休業中だったので、遠くの銭湯に行った。一人で行ったから、たぶん小学生のときだったと思う。ともかく銭湯に入って、外に出たら、道に迷った。

 わたしは自信をもって歩いていたのだが、あたりの家並みに見覚えがなかった。夜だったので、不安になってきた。とうとう広い車道に出た。それがどこだかわからなかった。通りすがりの人に聞くと、家とは反対方向に来ていたようだ。その人は「一人で帰れるか」と聞いてくれたが、「帰れる」と答えた。家に帰る道のりの遠かったこと。やっと着いたら、両親が心配していた。「なにをしていたんだ!」と怒られたかもしれない。でも、道に迷ったとはいわなかった。
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秋田駒ケ岳と乳頭山

2018年08月09日 | 身辺雑記
 今年の夏山は秋田駒ヶ岳(1637m)に行った。去年は月山(1984m)に行ったので、2年続けて東北の山になった。秋田駒ヶ岳も月山も、今まで登ったことがないので選んだが、もう一つの理由は(そしてそれが本音だが)、北アルプスや南アルプスの山小屋の混雑が嫌になったからでもある。そんなことをいうのは、年を取った証しだが。

 7月31日(火)、猛暑の東京を後にして、秋田新幹線で田沢湖へ。そこからバスで乳頭温泉へ。乳頭温泉は今年2月にも訪れたので、これで2度目だ。2月のときは雪に埋もれた温泉地だったが、今回は見違えるような緑の濃さ。宿にザックを置いてブナ林を散歩した。ブヨや蚊の一斉攻撃を受けた。

 8月1日(水)、バスを乗り継いで秋田駒ヶ岳八合目へ。バスで八合目まで上がってしまうので、歩くのは二合分だけ。しかも遊歩道のように整備された道なので、楽なことこの上ない。あいにくガスが濃かったので、展望はまったくきかなかったが、その分涼しくて、天然クーラーの中にいるようだった。途中、風の強い場所があり、地図を開いていたら、風で破れた。

 8月2日(木)、宿から乳頭山(1478m)へ直登。風が通らない登山道なので、じっとり汗をかき、ブヨに悩まされながら登ったが、高層湿原の田代平に出ると、さわやかな風が吹き、高山植物が咲いて、まさに山上の楽園。

 山頂への道から秋田駒ヶ岳が見えた(写真↑)。山頂に着くと、目の前に岩手山(2038m)がそびえ、その横には八幡平(1614m)が広がっていた。乳頭山の標高は丹沢の山々程度なのに、森林限界を超え、展望が雄大だった。

 汗びっしょりになって宿に戻り、温泉で汗を流して、冷たいビールを飲んだ。そのビールの美味しかったこと!

 8月3日(金)、バスで田沢湖に戻り、秋田新幹線で秋田へ。羽越本線に乗り換えて象潟(きさかた)に向かう前に、乗り継ぎ時間を使って、秋田県立美術館に寄った。藤田嗣治の超大作「秋田の行事」を見るため。それについては、もし書けたら、別途書いてみたい。

 象潟には友人夫婦がいる。駅まで出迎えてくれた。ご主人は、元は大工だったが、今は専業農家で、主にイチジクを栽培している。北限のイチジクとして、地元自治体が力を入れているそうだ。そのイチジク畑を案内してもらった。よい匂いがした。その晩は泊めてもらった。自分の田舎に帰ったようだった。
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白井聡「国体論 菊と星条旗」

2018年07月10日 | 身辺雑記
 森友・加計問題を巡って国会、中央省庁その他で起きていることと、その一方で底堅い動きを続ける内閣支持率とをどう考えたらよいのか、その解明の糸口がつかめればと思って、白井聡(しらい さとし)の「国体論 菊と星条旗」(集英社新書)を読んでみた。

 本書の骨子は、明治維新(1868年)から現在までの日本の近現代史を、明治維新から太平洋戦争の敗戦(1945年)までの前半部分と、敗戦から現在までの後半部分とに分け、前半部分を、天皇を頂点とする「国体」の形成期、安定期、崩壊期の3段階で把握し、後半部分も、再編された「国体」の同様の3段階で把握することにある。

 わたしなどは、日本の近現代史というと、明治、大正、昭和、平成という元号で捉えがちだが、それよりも、日本の敗戦という大きな区切りで分け、その前と後とで捉えることは、新鮮で、また説得力がある。

 かつ本書で特徴的な点は、前半部分で辿った「国体」の形成、安定そして崩壊の過程が、後半部分でも、「国体」が再編された上で、繰り返されているという指摘だ。

 では、「国体」の再編とは何か。いうまでもなく、天皇制は戦後も維持されたが、戦後は天皇を上回る位置にアメリカがいる、という形での再編だった、というのが本書の見方だ。具体的には日本国憲法と合わせて日米安保条約が存在し、実質的には日米安保条約のほうに実効性があるという状況を生んだ。

 そして今、わたしたちは再編された「国体」の形成期と安定期を過ぎ、崩壊期に入っている、と著者はいう。明治維新から敗戦までの前半部分は77年続いたが、敗戦から現在までの後半部分もすでに73年たち、崩壊がどのような形で訪れるか、それは予測できないにしても、崩壊は近づいている、と。

 以上が本書のフレームワークだ。それ自体ひじょうに興味深いが、そのフレームワークに沿って解釈されるディテールが、また興味深い。たとえば、今上天皇の退位の「お言葉」の意味は何だったか。それに対する安倍首相の対応はどうだったか。その一方で、トランプ大統領とのゴルフ外交や、その近親者の歓待は何を意味するか、等々。

 で、冒頭の「内閣支持率の底堅い動きはなぜか」だが、それが崩壊期の現象の一つだと考えると、分からないでもない。しかもそれが戦前~戦中期の「最も内省の稀薄な意志と衆愚の盲動」(坂口安吾の代表作「白痴」より)の繰り返しだとしたら、これほど恐ろしいものはない。
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上高地から徳本峠へ

2018年06月06日 | 身辺雑記
 上高地から徳本峠(とくごうとうげ)を越えて島々に下る道は、わたしの定番ルート。毎年、春と秋に出かけている。今年は6月2日(土)に上高地に泊まり、翌3日(日)に歩いた。3日は上高地でウェストン祭があるので、前日の2日は宿が一杯ではないかと懸念したが、直前にもかかわらず、取れたのが幸いだった。

 新宿から松本へのJR「あずさ」は、臨時列車の座席が取れた。出発時点では満席になっていたので、ギリギリのタイミングだったかもしれない。

 上高地に着くと、観光客で賑わういつもの上高地だったが、夕食後、まだ明るいうちに河童橋に出ると、昼間の賑わいが嘘のように、ひっそりした、静かな河童橋になっていた。

 翌日は、朝早く出発するため、朝食は弁当にしてもらった。5時起床。弁当を食べて6時出発。まだ人影もまばらな道を明神へ。明神から右に折れて、徳本峠への登り道へ。前述のように、毎年この時期に歩いているが、花の様子は毎年違う。今年はサンカヨウが多かった(写真↑)。白い花が清楚なので、好きな花だ。ニリンソウとショウジョウバカマは例年通りの咲き具合。

 徳本峠から下りてくるグループと何度かすれ違った。皆さん、前日は徳本峠の小屋に泊まり、今日はウェストン祭に参加するのだろう。感心したのは、上り優先が徹底されていること。昔、わたしが山登りを始めた頃は、先輩からも、山小屋でも、上り優先とよくいわれたものだ。ところが、最近では、あまりいわれなくなった。そのためだろうか、だれか上ってきても、道を譲らないどころか、スピードを緩めずに下りてくる人がいる(中高年の人に多いような気がする)。でも、今回はさすがにそういう人はいなかった。

 初老の単独行の男性が、わたしを追い抜いていった。ピッケルとビニール袋を持って、飄々と歩いていく。小屋を手伝っている人かと思った。徳本峠に着くと、その人が休んでいたので、言葉を交わした。71歳。前々日に横尾にテントを張り、前日は奥穂までピストン(!)。健脚だ。今日は明神に荷物を置き、徳本峠までピストン。「仕事を止めたので、これからは好きな時に、好きな山に行ける。幸せだなあ(笑い)」と。

 徳本峠からの下山路は、緑、緑、緑で、緑に埋もれるとか、緑に染まりそうだとか、そんな形容がふさわしかった。

 その晩は浅間温泉の定宿で一泊。温泉で汗を流して、ビールを飲み、ついでに地酒も少々(?)。
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ガルミッシュ=パルテンキルヘン

2018年05月12日 | 身辺雑記
 ある方が「ガルミッシュには私も近いうちに行きたい」と書いておられた。その方は世界中を旅しておられるので、旅のノウハウは、わたしは足元にも及ばないが、他の方で(たとえば音楽好きの方や、山好きの方で)ミュンヘンに行ったついでに、ガルミッシュにも足をのばしてみようとお考えになる方はいるかもしれない。以下は、そういう方のために、何かの参考になればと思って――。

 ガルミッシュの正式名称はガルミッシュ=パルテンキルヘンGarmisch-Partenkirchen(以下、ガルミッシュ)。ミュンヘンから電車で1時間20分ほど。電車は1時間ごとに出ている。

 ガルミッシュは作曲家リヒャルト・シュトラウス(1864‐1949)のゆかりの町。ミュンヘン生まれのシュトラウスは、1908年にガルミッシュに屋敷を建てた。広大な敷地を持つその屋敷には、今もシュトラウスの子孫が住んでいるので、中に入ることはできないが、外から見ることはできる。写真(↑)は周辺の風景。岩山の右の奥がドイツの最高峰ツークシュピッツェ(2962m)。シュトラウスはこの風景を見ながら「アルプス交響曲」を作曲した。

 シュトラウスの屋敷は、民家なので、ガイドブックや地図には出ていない。場所は駅の西側のガルミッシュ地区(東側はパルテンキルヘン地区)のマクシミリアン通りからツェプリッツ通りに折れた所にある。駅から歩いて15分ほど。なお、パルテンキルヘン地区にはリヒャルト・シュトラウス博物館がある。

 ガルミッシュは児童文学作家ミヒャエル・エンデ(1929‐1995)の出身地でもある。ガルミッシュの中心部に緑豊かなミヒャエル・エンデ・クアパークがあり、「モモ」や「はてしない物語」などの物語世界を展示する博物館がある。

 前述のツークシュピッツェは、登山鉄道とロープウェイで山頂まで行ける。山頂にはレストランがあり、アルプスの山々や氷河を眺めながらビールが飲める。

 登山鉄道は、ガルミッシュ駅の西側のツークシュピッツ鉄道駅から乗る。山頂まで行く方法は二通りある。登山鉄道のアイプゼーEibsee駅で途中下車してロープウェイで行く方法と、登山鉄道の終点のツークシュピッツプラットZugspizplatt駅まで行き、そこからロープウェイで行く方法。前者の方が速いし、展望もきくので、お薦め。切符は共通なので、自由に選択できる。

 なおアイプゼーは小さな湖で、よく整備された散策路がついている。一周して2~3時間。スニーカーでも歩ける。
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チロル旅行日記

2018年05月03日 | 身辺雑記
 友人4人を連れてオーストリアとドイツの旅に行き、添乗員の真似事をしてきました。以下はその旅日記です。

 4月23日(月)。夕方にミュンヘン空港着。中央駅の近くのホテルにチェックイン後、皆さんとビアホールの「ホーフブロイハウス」へ。かつてはヒトラーがアジ演説をしたこともあるビアホール。ミュンヘン名物の白ビールで乾杯。ブラスバンドが陽気な音楽を演奏し、店内は耳を聾さんばかりの盛り上がりぶり。

 4月24日(火)。鉄道でオーストリアのチロル地方のブリックスレッグへ。特急は停まらないローカル駅です。そこからバスで30分ほどのアルプバッハへ。「オーストリアで一番美しい村」に選ばれたことがあるという小村。牧草地にはタンポポが咲き乱れ、遠くの山並みには白い雪がかぶっています(写真↑)。友人の一人は「平和そのものだな」と。

 4月25日(水)。真っ青な空のもと、午前中はハイキング。タンポポ以外にもリュウキンカ、サクラソウなどの花が咲き、花好きの友人は大喜び。午後はアルプバッハに戻って、各自のんびり過ごしました。

 4月26日(木)。あいにくの小雨。さて、どうするかと相談した結果、インスブルックまでの小旅行に出かけました。

 4月27日(金)。快晴。ドイツのバイエルン地方のガルミッシュ・パルテンキルヘンへの移動日。インスブルックからガルミッシュ・パルテンキルヘンまでの区間はアルプスの山々が連なる絶景路線。皆さんは写真を撮るのに大忙し。ガルミッシュ・パルテンキルヘンに到着後、ドイツの最高峰ツーク・シュピッツェへ。登山鉄道とロープウェイで山頂へ。アルプスの大展望に歓声が上がりました。

 4月28日(土)。午前中はガルミッシュ・パルテンキルヘン内を散策。町外れにある作曲家リヒャルト・シュトラウスの屋敷まで歩き、そこからツーク・シュピッツェの雄姿を眺めて「アルプス交響曲」を思い浮かべました。午後は鉄道でミュンヘンに移動し、ニンフェンブルク宮殿を見学した後、ミュンヘン大学に行き、ナチスに対する抵抗運動「白バラ」に想いを馳せました。

 4月29日(日)。午前中はダッハウ強制収容所跡へ。ナチスが作った多数の強制収容所の最初期のもの。言葉もありません。夜は2人の希望者とともにバイエルン州立歌劇場でオペラ「メフィストーフェレ」を鑑賞。今回の旅では添乗員の真似事に徹したため、オペラを観て、やっと自分を取り戻せた感じがしました。
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帰国報告

2018年05月01日 | 身辺雑記
 本日無事に帰国しました。今回の旅ではオーストリアのチロル地方のアルプバッハという小村に3泊と、ドイツのバイエルン地方のガルミッシュ・パルテンキルヒェンという町に1泊がメインで、その前後にミュンヘンに3泊しました。写真↑はアルプバッハでのハイキング中に出会った少女です(猫が2匹まとわりついていました)。オペラは最終日にバイエルン州立歌劇場でアッリーゴ・ボーイト(1842‐1918)の「メフィストーフェレ」を観ました。その感想は後日また報告します。
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旅行予定

2018年04月23日 | 身辺雑記
4月23日から山好きの友人たちとオーストリアのチロル地方に行ってきます。オペラの予定は1回だけです。帰国は5月1日の予定です。
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