Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ソヒエフ/N響

2025年01月20日 | 音楽
 ソヒエフ指揮N響のAプロ。曲目はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。第1楽章冒頭の「人間の主題」がとくに気負わずに提示される。しっかりと演奏されているが、サクサク進む。続く「平和な生活の主題」は美しいが、そこに余分な感情はこめられていない。そして例の「戦争の主題」。小太鼓のリズムが軽く弾むように始まる(竹島悟史さんの名演だ)。そのリズムに乗って「戦争の主題」が受け渡される。「戦争の主題」なんて呼ばれるから、そうかと思って聴くが、そんな呼び名がなければいかにも楽しそうだ。やがてその楽しさは阿鼻叫喚の場面に変貌する。だがその阿鼻叫喚もわたしには悲痛さが感じられなかった。そしてすべてが破壊された荒涼とした風景が現れる。でも、わたしはなにも感じなかった。

 以上がわたしの聴いた第1楽章だ。ソヒエフの耳の良さはよく分かる。N響の優秀さも分かる。だが一切のメッセージ性を排したこの演奏をどう捉えるべきか。純音楽的という言葉で理解するのは簡単だ。だが、そこで思考停止してよいのかと。

 むしろ第2楽章と第3楽章が名演だと思った。過大な身振りのない両楽章がソヒエフの個性に合うのだろうか。とくに第3楽章の、ソヒエフとN響の見事に呼吸の合った演奏に瞠目した。わたしには第3楽章が白眉だった。

 第3楽章から切れ目なく入る第4楽章では、冒頭の「タタタター」というリズム音型がなんの緊張感もなく演奏された。拍子抜けした。やっぱりそうかと思った。第1楽章でわたしの感じたことはこの演奏の基本姿勢だったのだと。

 バンダも加わる第4楽章の最後はもちろん圧倒的な音量だったが、でもそれは音圧で圧倒するよりも、澄んだハーモニーを崩さない優秀さが先に立った。それもまたこの演奏の特徴だった。

 ナチス・ドイツに包囲されたレニングラードで作曲が始められたこの交響曲。千葉潤氏のプログラムノーツによれば、約900日間続いたその戦闘で80万人の犠牲者が出た。しかも悲惨なことには、そのうちの64万人は餓死者だったという。そのような惨状を目の当たりにして、ショスタコーヴィチがなにを感じたかは、想像に難くない。だがその結果生まれたこの交響曲の、とりわけ「戦争の主題」を、どう考えたらよいのだろう。

 ソヒエフとN響のこの演奏は、わたしにもう一度その問いを投げかけた。繰り返すが、なんのメッセージ性もない演奏だ。でも優秀な演奏であることは間違いない。その演奏が物語るものはなんだろう。
(2025.1.19.NHKホール)

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