Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

森鴎外「阿部一族」(1)

2023年01月06日 | 読書
 2022年は森鴎外(1862‐1922)の没後100年だった。そこで鴎外の歴史小説をまとめて読んでみた。まず感嘆したのは簡潔明瞭な文体だ。一文たりとも足したり引いたりできない完璧さだ。その点では、「山椒大夫」と「最後の一句」が双璧だと思う。だが、文体だけではなく、現代の視点で見ても、鴎外の歴史小説には興味深い人物が描かれている。それらの人物を何人か拾ってみよう。

 まず「阿部一族」から。名作中の名作なので、ストーリーを紹介するまでもないだろうが、ざっと紹介すると、寛永18年(1641年)に熊本藩主・細川忠利が病死する。家臣18人が殉死する。ところが阿部弥一右衛門には殉死の許しが出なかった(殉死は許しを得てするものらしい。許しを得ない場合は、犬死とされる)。殉死をせずに生き残ることは、武士には耐えられない屈辱のようだ(そのへんの事情は現代社会からは想像が難しい)。弥一右衛門は許しを得ずに切腹する。だが、武士仲間からの蔑視はやまない。故忠利の一周忌の法要が営まれたとき、弥一右衛門の長男は、ある行動に出る。藩主(故忠利の子・光尚)はその行動を反抗ととらえて、阿部一族を滅ぼす。

 興味深いのは、弥一右衛門に殉死の許しが出なかった事情だ。弥一右衛門は病床の忠利に殉死の許しを願い出る。だが、「一体忠利は弥一右衛門の言うことを聴かぬ癖が附いている。これは余程古くからの事で、まだ猪之助といって小姓を勤めていた頃も、猪之助が「御膳を差し上げましょうか」と伺うと、「まだ空腹にはならぬ」という。外の小姓が申し上げると、「好い、出させい」という。忠利はこの男の顔を見ると、反対したくなるのである。」(岩波文庫より引用)。

 現代社会でも(民間会社であろうと官庁であろうと)、長年組織に勤めた人なら、同じような経験をした人も多いのではなかろうか。相手は決定的に強い立場にある(生殺与奪権を握られている場合も多い)。こちらが状況を改善しようとすればするほど、状況はこじれる。そんな厄介な状況が妙にリアルに描かれている。そこには鴎外の経験が投影されているのではないかと……。

 もう一点興味深いのは、林外記(はやし・げき)という人物だ。外記は新藩主・光尚の側近だ。外記は「小才覚があるので、(引用者注:光尚の)若殿様時代のお伽には相応していたが、物の大体を見る事に於ては及ばぬ所があって、とかく苛察に傾きたがる男であった。阿部弥一右衛門は故殿様のお許しを得ずに死んだのだから、真の殉死者と弥一右衛門との間には境界を附けなくてはならぬと考えた。」(同)。その「境界」が問題をこじらせた。現代社会でも、何事によらず、とかく「境界」(区別と言い替えてもよい)をつけたがる人物がいる。それが人間関係を窮屈にする。周りの人々は皆迷惑に思っている。だが、そんな人物にかぎって上司の覚えがめでたい。鴎外の周囲にもいたのだろうか。(続く)
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久生十蘭短篇選

2022年08月09日 | 読書
 久生十蘭(ひさお・じゅうらん)(1902‐1957)には根強いファンがいるようだ。わたしはいままで読んだことがなかったが、先日、あるきっかけから、岩波文庫の「久生十蘭短篇選」を読んだ。

 同書には15篇の短編小説が収められている。一作を除いて、あとは戦後間もないころの作品だ。どの作品にも戦後社会が色濃く反映している。わたしは学生のころ(もう50年も前だ)、野間宏などの第一次戦後派の作品を読んでいた(もうすっかり記憶が薄れているが)。今度、久生十蘭の作品を読んで、戦後社会の実相というか、庶民的な感覚は、久生十蘭の作品のほうがよく反映しているのではないかと思った。

 戦中に書かれた一作をふくめて、15篇すべてがおもしろかったが、あえてベストスリーを選ぶとしたら、どうなるだろうと自問した。お遊びのようなものだが、やってみた。まずベストワンは「母子像」だ。16ページあまりの小品だ。そのなかで凝縮したストーリーが展開する。

 極端に短いので、ストーリーを紹介するまでもないだろう。推理小説にも似た展開だ。ストーリーの背景には、戦争末期のサイパン島での日本人の集団自決、戦後間もないころの戦争孤児、朝鮮戦争の勃発、米兵相手の日本人女性の売春など、戦中・戦後の社会の諸相が織りこまれる。そんな社会の荒波にもまれた少年の悲しい物語だ。

 本作品は1954年に讀賣新聞に発表された。その後、吉田健一が英訳して1955年の「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」主催の第2回世界短篇小説コンクールで第一席となった。久生十蘭は1957年に食道がんで亡くなったので、その2年前の朗報だ。

 「母子像」と同じくらい印象的だったのは「蝶の絵」だ。こちらは46ページあるので、15篇中では長いほうだ。ストーリーは二転三転する。その二転三転のなかで、スマトラ、ニューギニアなどでの日本兵の飢餓、マニラでの情報工作、住民虐殺、そして戦後それらの記憶に苦しむ人物が織りこまれる。本作品には「マリポサMariposa(蝶)」という唄が出てくる。ティト・スキーパTito Schipa(1889‐1965)という歌手(調べてみると、意外なことにオペラ歌手だ)が1922年にうたった唄だ。いまでもYouTubeで聴くことができる。便利な時代になったものだ。

 もう一作は「黄泉から」を選ぶ。敗戦の翌年の1946年(昭和21年)7月13日のお盆の入りの出来事を描いた作品だ。戦後の喧騒に紛れてお盆などは眼中にない人々と、戦争で亡くなった人々を悼む人々とのコントラストを背景とする。作中に「コント」(conte=フランス語で短編小説)という言葉が出てくる。本作品は上質なコントだ。
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川端康成「眠れる美女」

2022年06月13日 | 読書
 川端康成の「眠れる美女」は紛れもない傑作だと思う。三島由紀夫は新潮文庫の解説で「この作品を文句なしに傑作と呼んでいる人は、私の他には、私の知るかぎり一人いる。それはエドワード・サイデンスティッカー氏である」と書いている。解説が書かれたのは1967年11月だ。その後の時代の趨勢により、今では本作品を傑作だと思う人はもっと増えているような気がする。

 なぜそう思うかというと、本作品のグロテスクな幻想性が、今の時代に一層精彩を放つようになっていると感じるからだ。正確にいえば、本作品には執筆当時の時代的な制約を受けた部分と、時代を超越した部分があり、時代を超越した部分が、今でも異彩を放っていると感じるのだ。

 物語の場所は、海辺の一軒家。その家は老人限定の娼家だ。美女が全裸で眠っている。おそらく強い睡眠薬を飲まされているのだろう。叩いても揺すっても起きない。客の老人はその美女と添い寝をする。老人はすでに男性機能を失っている。だから安全だ。そういう老人でないと客になれない。主人公の江口老人はその家に5夜通う。

 5夜の出来事が本作品だ。美女は毎夜異なる。江口老人の欲情と、脳裏に浮かぶ過去の苦い想い出と、そしてその夜に見る悪夢が描かれる。本作品は三層構造だ。

 過去の想い出では、悔恨の情が江口老人を押しつぶす。一方、悪夢は、血の滴る凄惨な夢が多い。どこからそのような夢が訪れるのか。深層心理からだろうが、では、深層心理にはなにがあるのか。老いの実感、死への恐れ、性への渇望、悪への衝動、その他諸々。そこは溶鉱炉のような闇の世界というしかない。

 第一夜の想い出には、若き日の川端康成の実体験が投影されているのだろう。それは清純な想い出だ。ところがその夜に見る夢は、5夜の中でももっともグロテスクだ。その対比をどう考えたらよいのか。第二夜の江口老人の欲情は、5夜の中でももっとも激しい。それは老いにたいする性の反抗のようだ。第三夜には江口老人は過去に犯した悪を思う。第四夜には江口老人は魔界の存在を思う。そこでは善悪の区別が無意味化する。そして第五夜は死が訪れる。もっとも、死は江口老人に訪れるのではない。だが、三島由紀夫が解説で指摘するところによれば、江口老人も無事ではない。

 いうまでもなく、今のジェンダーの視点からは、問題大有りの作品だ。しかし、だからといって、禁忌すべき作品なのかどうか。ジェンダーに真摯に向き合うことと、人間の闇の部分に目を向けることと、両者は両立しないのか。本作品は心の奥底に虚無を抱えた川端康成の、自分も他人も突き放して眺める透徹した視線が交錯する作品だ。
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川端康成「掌の小説」

2022年06月05日 | 読書
 今年は川端康成の没後50年に当たる。そうか、もうそんなになるか、と思う。川端康成の自死は衝撃だった。若い作家ならともかく、功成り名遂げた老作家が……。

 没後50年を記念して、文学展が開かれたり、新たな研究が発表されたりしている。その報道に接するうちに、久しぶりに川端康成を読みたくなった。とはいえ、「伊豆の踊子」、「雪国」、「山の音」といった代表作には触手が伸びない。まず手に取ったのは「掌の小説」だ。「掌」は「てのひら」とも「たなごころ」とも読める。新潮文庫の解説では「てのひら」と読ませている。

 「掌の小説」とは(短編小説よりもさらに短い)掌編小説のことだ。川端康成の掌編小説は一作当たり平均して400字詰め原稿用紙で7枚程度だ(作品によって多少のちがいがあるが)。川端康成は作家生活の初期から晩年にいたるまで掌編小説を書き続けた。その数は諸説ある(研究者によって「掌の小説」にふくめたり、ふくめなかったりする作品があるからだ)。新潮文庫には122篇が収められている。

 122篇の中には駆け出しのころの作品もあれば、戦中戦後の世相を色濃く反映した作品もあり、また晩年に入ってからの作品もある。それぞれおもしろい。わたしが今回再読したのは晩年の中でも最晩年の作品群だ。

 川端康成は昭和37年(1962年)11月10日から翌年8月25日までの朝日新聞PR版に10篇の掌編小説を発表した。また昭和39年(1964年)1月1日の日本経済新聞に1篇を発表した。さらに同年11月16日の朝日新聞PR版に1篇を発表した。それらの12篇が最後の作品群だ。各々の作品は透徹した世界を形作っている。まるで硬い結晶体のようだ。

 それらの作品のどれか数篇を取り上げて、プロットを紹介してもよいのだが、その必要を感じない。どの作品もきわめて短いので、読めばすぐわかる。また作品の真価はプロットにあるのではなく、一切の無駄のない簡潔な文体にあるという気もする。

 それらの掌編小説が上記のように朝日新聞PR版に掲載されたとき、そこには東山魁夷の挿画が添えられていた(川端文学研究会編「論考 川端康成―掌の小説」(おうふう、2001年発行)所収の武田勝彦『「乗馬服」』より)。そして興味深い点は、「不死」、「月下美人」、「地」、「白馬」の4篇は、まず東山魁夷の挿画ができて、川端康成はその挿画に合わせて掌編小説を書いたということだ。そのせいなのかどうなのか、「不死」と「地」は12篇中で(というよりも、すべての掌編小説の中で)もっとも幻想的だ。また「月下美人」では(最後のシーンに出てくる)二階のバルコニーでバイオリンを弾く令嬢の姿が、どことなく唐突だ。それはそのような(先に挿画ができたという)経緯があったからかもしれない。
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小川洋子「ことり」

2022年05月09日 | 読書
 小川洋子の「ことり」(2012年)を読んだ。少し時間を置いてから、もう一度読んだ。わたしの大切な小説になった。

 小鳥を愛し、小鳥の言葉を理解している(ように見える)「お兄さん」。お兄さんの言葉は小鳥に似ている。だれも理解できない。だが弟の「小父さん」には理解できる。母が亡くなり、父が亡くなる。お兄さんと小父さんは二人でひっそり生きる。やがてお兄さんが亡くなる。小父さんひとりになる。小父さんも小鳥を愛する。お兄さんほどではないが、小鳥の言葉がわかる気がする。やがて初老になった小父さんは、ひっそり亡くなる。そんな小父さんの、だれにも知られることのない人生の物語。

 本作品は音楽を感じさせる。その音楽は2楽章で構成されている。第1楽章はお兄さんが生きているときのお兄さんと小父さんの生活。ゆったりしたテンポの平穏な音楽。その平穏さが損なわれないように細心の注意が払われる。第2楽章はお兄さんが亡くなってからの小父さんの生活。多少動きのある音楽。いくつかのテーマが生起する。最後は第1楽章冒頭のテーマに戻って終わる。

 二つの楽章を通じて小鳥の歌う「愛の歌」があらわれる。その歌が二つの楽章をつなぐ。それだけではない。第1楽章、第2楽章それぞれの主要なテーマに変容して、一定の展開をみせる。

 物語の終わり近くに、怪我をしたメジロがあらわれる。小父さんはメジロを介抱する。メジロはやがて元気になる。メジロはまだ幼い。元気になるにつれて、愛の歌を歌おうとする。小父さんはメジロを励ます。だんだんうまくなる。その様子はワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で青年騎士ワルターが靴職人のハンス・ザックスに励まさて愛の歌を歌おうとする場面を思わせる。

 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」ではその直後に野外の歌合戦の場面になる。同様に「ことり」でも野外の「鳴き合わせ会」の場面になる。だが「ことり」の場合は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のような晴れがましさはなく、どこか不穏だ。小父さんはその会になじめない。そして驚くべき行動に出る。

 物語は一気に終結にむかう。先ほど述べたように、物語の冒頭に戻るかたちで終わる。円環が閉じられるように感じる。だからだろうか、冒頭からもう一度読みたくなる。わたしは上述のように二度読んだが、二度目になると、一度目には気になりながらも、十分には意識化できなかった箇所を意識して読むことができた。たとえば怪我をした渡り鳥のエピソード。草陰に身をひそめて夜空を見上げるその鳥は、何を象徴するのだろう。
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小川洋子「博士の愛した数式」

2022年05月05日 | 読書
 小川洋子の代表作といえば、「博士の愛した数式」だろう。2003年に刊行され、ベストセラーになった。映画にもなり、コミックにもなり、また舞台上演もされた。それを今頃になって読むのだから、我ながら周回遅れもいいところだ。

 ベストセラーになったので、プロットを紹介するまでもないだろうが、念のために書いておくと、時は1992年、所は瀬戸内海に面した小さな町。「私」は20代後半のシングルマザーだ。家政婦として「博士」の家に派遣される。博士は60代前半の男性。非凡な数学者だったが、1975年に自動車事故にあい、それ以来記憶が80分しかもたなくなった。80分たつと記憶が消える。もっとも、事故以前の記憶は残っている。たとえば博士は阪神タイガースの江夏投手のファンだった。博士はいまでも江夏投手がエースだと思っている。もう引退しているのに。

 博士は「私」の息子を可愛がる。息子の頭が平たいので、「ルート」と名付ける。形が似ているというのだ。息子も博士になつく。博士と「私」とルートは疑似家族のようになる。孤独な人生を送っている博士と、母子家庭で生活に追われる「私」とルートは、家族の温もりを見出す。弱き者(=博士)への「私」とルートの温かいまなざしと、弱き者(=ルート)への博士の温かいまなざしが重なり合う。

 前述したように、本作品は20年近く前の作品だが、弱き者への温かいまなざしは少しも古びていない。それどころか、いまの時代にリアリティを増しているようにも感じられる。

 脇役が3人登場する。博士の義姉の「未亡人」は、ストーリーに絡み、微妙に揺れる心理が描かれる。「私」の亡母と「私」の元カレ(ルートの父親)は、ストーリーの前史を構成する。「私」の回想の中に登場するだけだが、忘れがたい印象を残す。

 本作品を構成する要素に、数学と阪神タイガースがある。数学ときくと引いてしまう人もいるかもしれない。わたしもそうだった。なので、長いあいだ、「博士の愛した数式」という題名は知っていても(インパクトのある題名だ)、縁のない作品だと思っていた。だが、先日「密やかな結晶」を読み、おもしろかったので、勢いで本作品も読んだわけだが、結果、数学には弱くても、数学を愛する人=博士を愛すことができれば、なんの支障もないことがわかった。

 同様に阪神タイガースも、たとえ野球に興味がなくても、またはアンチ・タイガースであっても、江夏投手のファン=博士を愛せれば、支障はないだろう。

 数学と阪神タイガースは、江夏投手の背番号「28」をキーワードにしてアクロバティックにつながる。ウルトラC級だ。
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小川洋子「密やかな結晶」

2022年05月01日 | 読書
 小川洋子の「密やかな結晶」は1994年に刊行されたので、新しい作品ではないが、近年英訳され、2019年度全米図書賞の翻訳部門にノミネートされ、また2020年度英国ブッカー賞の最終候補になったと、数か月前に新聞各紙で報道された。その記憶が残っていたので、読んでみた。小川洋子の作品を読むのは初めてだ。

 「密やかな結晶」はある島の話だ。鉄道が通っているので、けっして小さな島ではなさそうだ。その島ではある日突然、何かが消えてなくなる。たとえばリボン。島中のリボンが突然「消滅」する。住民の記憶からも消える。万が一リボンを隠し持っている人がいたとしても、他の人々がそれを見たとき、人々はもうそれをリボンとは認識できない。たんなる布切れだ。同じようにして、鈴とか、エメラルドとか、切手とか、その他いろいろなものが消えていく。大物でいえば、フェリーが消えた。人々はもう島から出られない。だが、人々はそんな事態を黙って受け入れる。文句をいわない。

 不思議なことに、記憶が消えない人たちがいる。遺伝子に要因があるのかもしれない。ともかく少数者だ。島には秘密警察がある。それらの人々を取り締まる。記憶が消えたふりをしても、何かの拍子に発覚すれば、秘密警察に捕らえられる。捕えられたら最後どうなるかは、だれもわからない。そのため記憶が消えない人たちは隠れて暮らす。支援のための地下組織もあるようだ。一方、秘密警察は「記憶狩り」をする。街の一画を何台ものトラックで囲み、あらゆる家を調べる。隠し部屋がないかどうか、しらみつぶしに。

 主人公の「わたし」は小説を書く女性だ。記憶が消える普通の人だ。一方、出版社の担当者「R氏」は記憶が消えない特殊な人だ。「わたし」はあるときそれを知る。「R氏」を自宅の秘密部屋に隠す。

 「アンネの日記」をベースにしたスリリングな物語だ。並行して「わたし」の書く小説が挿入される。メインストーリーと小説と、両者で「声」が重要な役割を果たす。メインストーリーでは、あらゆるものが消えた後に、声だけが残る。一方、小説では、主人公が声を失う。市民が独裁国家で声を奪われるように。小説のほうはディストピア社会の寓話のように読める。他方、メインストーリーもそうなのだが、声が最後まで残ることに、未来への希望を託す――というようにも読める。

 他の読み方もできそうだ。記憶が消えるという点でいえば、わたしたちはだれでも、子どものころは感受性に満ちているが、大人になるにつれてそれを一つずつ失い、やがて死に至る。そのアレゴリーとして読めば、本作品は人の一生の寓話になる。また、小川洋子が語るところによれば、島の人々が(フェリーが消滅したので)島から出られない状況を、コロナに閉じ込められた社会のアレゴリーのように読んだ人もいたそうだ。
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夏目漱石「硝子戸の中」

2022年04月03日 | 読書
 先日、早稲田の漱石山房記念館を訪れた。館内とその周囲を見学するうちに、漱石の随筆「硝子戸の中」を思い出した。その余韻が消えないので、久しぶりに読み返した。たぶんこれで3度目だと思う。

 「硝子戸の中」は漱石山房記念館がたっているその場所で書かれた(記念館は漱石の家の跡にたっている)。記念館には漱石の書斎が復元されている。畳十畳くらいだろうか。文机と火鉢が置かれ、本が山積みになっている。漱石はそこで「三四郎」も「こころ」も「明暗」も、要するに「猫」などの初期作品以外はすべて書いた。書斎には硝子戸がはめられ、その先には外廊下があった。漱石は硝子戸越しに外を眺めた。「硝子戸の中」という書名の所以だ(「中」は「うち」と読む)。

 「硝子戸の中」は39編の随筆からなる。各編は400字詰め原稿用紙で3~4枚だ。1915年(大正4年)1月13日から2月23日までの朝日新聞に連載された。漱石は初回(「一」)に、勤め人が駅で新聞を買い、電車の中でそれを読み、ポケットに丸めて役所や会社に入るというシチュエーションを想定している。「硝子戸の中」はいまでいうと、新聞のコラムのようなものだ。

 なので、基本的には気楽でユーモラスな文章だ。だが、わたしは恥ずかしながら、今度初めてそのことに気付いた。いままではどこか暗いイメージをもっていた。漱石は「硝子戸の中」を書いた翌年(1916年、大正5年)に亡くなった。そのせいかどうか、死にまつわる話が多い。だから暗いイメージをもったのだろうか。異色なのは、亡き母の想い出を綴った「三十七」と「三十八」だ。甘美な思慕の念が溶けて流れる。全体の暗さの中でそこだけが色彩をもつ――それがわたしのイメージだった。

 だが、そのイメージは偏っていたようだ。わたしは漱石のユーモアを捉えきれていなかった。たとえば「三十一」と「三十二」に子どもの頃の友達の「喜いちゃん」が出てくる。その話は記憶に残っていたのだが、今度初めてその話が、漱石の意地っ張りな性格を戯画化して描いたものだと気付いた。

 「三十」では「継続中」という言葉が出てくる。すべての人々の「心の奥には、私の知らない、又自分達さえ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか」という(引用は新潮文庫より)。そのテーマは「硝子戸の中」の次に書かれた小説「道草」に引き継がれるわけだが、引用文は続けて「もし彼等の胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼等は果たしてどう思うだろう」という。この「破裂」とはなんだろう。その先を読むと、「死」かもしれないと思うが、そう割り切ってしまうには、書き方が少々入り組んでいるようにも思う。
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漱石山房記念館「漱石からの手紙」展

2022年03月23日 | 読書
 早稲田の夏目漱石の住居跡に漱石山房記念館がたっている。2017年に漱石生誕150年を記念して新宿区が整備したものだ。同館で「漱石からの手紙」展が開かれている。同館を覗きがてら、行ってみた。

 同館は地下鉄東西線「早稲田」駅から徒歩5分ほどだ。もっとも、わたしは道を間違えたので、少し時間がかかった。やっと着くと、新しくて立派な建物がたっていた。中に入る前に裏側の公園にまわってみた。猫の墓があるはずだ。すぐに見つかった。高さ1メートルくらいの石塔がたっていた。説明文を読むと、元の墓は空襲で焼けたらしい。いまの墓(石塔)は戦後再建されたものだ。例の猫をはじめ、漱石が飼っていたほかの動物たちも合祀されている。

 話が脱線するが、漱石の随筆集「硝子戸の中」にはヘクトーという犬が出てくる。その犬が死んだとき、漱石は死骸を庭に埋めて、「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という一句を書いた墓標をたてた。「硝子戸の中」には「彼の墓は猫の墓から東北に当って、ほぼ一間ばかり離れているが、私の書斎の、寒い日の照らない北側の縁に出て、硝子戸のうちから、霜に荒らされた裏庭を覗くと、二つとも能く見える」とある(新潮文庫より引用)。

 話を元に戻して、館内に入って展示を見た。手紙の一通一通を丁寧に見たほうがよいのだろうが、何通かを読んだだけで、雑にすました。それだけでも、漱石の交友の広さと深さが実感された。その交友関係の厚さは、漱石の天分というと大袈裟かもしれないが、漱石の本質の一面を表すように思えた。

 上記の「硝子戸の中」は39編の随筆からなるが、どの随筆も当地(漱石の家)を訪れた人たち、または漱石自身、もしくは肉親の話だ。言い換えれば、花鳥風月の話ではない。漱石の興味は徹底して人間にあった。その表れが膨大な量の手紙ではないだろうか。

 上掲のチラシ(↑)に使われている写真は1914年12月に撮られたものだ。ちょうど「硝子戸の中」の執筆当時のものだ。案外穏やかな表情をしている。じつはわたしは「硝子戸の中」の直後に書かれた「道草」の印象から、漱石は気難しい人だったのではないかと思っていた。でも、本展を見ているうちに、漱石は人懐こい人だったかもしれないと思えてきた。だからこそ、あれだけ人間への洞察に満ちた作品を書けたのではないか。

 さて、同館を出て、早稲田駅に戻った。もう土地勘はできていた。駅にむかう道すがら、「硝子戸の中」に出てくる「ある女」のエピソードを思い出した。深夜に漱石が「ある女」を送っていった道はこのへんだったろうか、と。
(2022.3.12.漱石山房記念館)
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樋田毅「最後の社主 朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム」

2022年02月17日 | 読書
 樋田毅(ひだ・つよし)氏の「彼は早稲田で死んだ」(2021年、文藝春秋社)を読み、ブログを書いた。同書は1972年に早稲田大学で起きた革マル派による(当時第一文学部2年生だった)川口大三郎君のリンチ殺人事件をめぐる回想録だ。わたしもその渦中にいたので、自分史の一端を読む思いがした。著者に興味をもったので、次に「記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実」(2018年、岩波書店)を読み、その感想もブログに書いた。

 樋田氏の著作にはそれら2冊のあいだに「最後の社主 朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム」(2020年、講談社)がある。朝日新聞社の最後の社主となった村山美知子氏(1920‐2020)(以下「美知子氏」)の評伝だ。さすがにこれは縁のない世界だと思ったが、朝日新聞社の記者として過ごした樋田氏の職場人生を知りたくて、それも読んでみた。

 樋田氏は一貫して社会部の事件記者として過ごしたが、青天の霹靂というか、2007年4月に大阪本社秘書課に異動になった。仕事は神戸市在住の朝日新聞社の社主・美知子氏のお世話だ。事前に大阪本社代表が樋田氏を美知子氏のもとに連れて行った。代表は樋田氏をこう紹介した。「樋田君は社会部の事件記者が長かったので、不調法なところは多々ありますが、いいやつなのでよろしくお願いします」と。

 美知子氏は朝日新聞社の創業者・村山龍平(1850‐1933)の孫だ。村山家の当主で、朝日新聞社の最大株主だ。朝日新聞社は社長以下、腫れ物にさわるように美知子氏に接していた。樋田氏は畑違いの仕事に戸惑うことが多かった。だが、次第に美知子氏の人柄に惹かれていった。というよりもむしろ、社主としての務めを果たそうとする美知子氏に共感していった。

 樋田氏の共感は、経営側の最晩年の美知子氏にたいする対応とぶつかった。経営側は長年の村山家(朝日新聞社のオーナー)との対立に終止符を打つべく、高齢になって衰えた美知子氏に攻勢をかけた。樋田氏はその強引なやり方に憤った。自分の良心と経営側の方針とのギャップに苦しんだ。経営側はそんな樋田氏が邪魔になり、樋田氏を潰した。

 美知子氏は経営側に敗北した。本書は美知子氏の敗北の物語だ。同時に樋田氏の敗北の物語でもある。わたしも長い職場人生を送ったので、思い当たるふしがある。たとえば、小さなことだが、朝日新聞社の元社長の秋山耿太郎氏らが村山家の墓石を買おうとする。秋山氏は美知子氏が入院する病室を訪ね、「社主、お墓も造っちゃいましょうね」という。美知子氏は同意しなかったが、秋山氏は了解を取ったとして強引に進める。わたしの職場でも同様のやり方が横行した。わたしも何度煮え湯を飲まされたことか。その都度憤ったが、後の祭りだった。
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樋田毅「記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実」

2022年02月14日 | 読書
 先日、樋田毅氏の「彼は早稲田で死んだ」(2021年、文藝春秋社)を読み、ブログを書いた。1972年11月に早稲田大学第一文学部2年生だった川口大三郎君が、キャンパス内で革マル派のリンチにより殺された事件の回想録だ。著者の樋田氏は当時1年生だった。樋田氏はその事件を契機に起きた革マル派を排斥する運動のリーダー格だった。わたしは川口君と同じ2年生だった。わたしはノンポリ学生だったが、川口君の事件は大学を揺るがす大事件だったので、激動の渦中にいた。いまからちょうど50年前になる。わたしの中では時間の厚い堆積に埋もれていたが、本書はその記憶を呼び覚ました。

 樋田氏はその後、第一文学部を卒業して大学院に進んだが、中退して朝日新聞社に就職した。新聞記者時代に担当したもっとも印象的な事件は「赤報隊事件」だったようだ。その取材記録を「記者襲撃」(2018年、岩波書店)にまとめている。

 赤報隊事件といっても、忘れていたり、知らなかったりする人もいるかもしれない。1987年5月3日の夜、朝日新聞阪神支局(兵庫県西宮市)に目出し帽をかぶった男が現れ、散弾銃で記者ひとりを射殺し、記者ひとりに重傷を負わせた事件だ。当時は社会を震撼させた。警察も懸命に捜査しただろう。朝日新聞社も取材班を編成して犯人を追った。樋田氏はその取材班に加わった。

 赤報隊を名乗るテロリスト(たち)は、阪神支局襲撃の前にも、同年1月24日に同社東京本社に散弾銃2発を撃ち込んでいた。また阪神支局襲撃後も、同社の社員寮などを襲い、挙句の果てはリクルートコスモス社を襲い、また愛知韓国人会館を襲った。それらすべての犯行は未解決のまま、2003年に公訴時効をむかえた。

 警察もそうだが、朝日新聞取材班も、右翼と、「大規模な合同結婚式などで世間を騒がせた教団」との2つのルートを追った。樋田氏は右翼と同教団のそれぞれの関係者に会い、質問を重ねた。時には朝日新聞への激しい憎悪を感じたり、殺意のようなものを感じたりすることもあったようだ。本書にもその一端が書かれている。

 犯人(グループ)からは合計6通の犯行声明文が送られた。本書にはそのすべてが収録されている。どの犯行声明文にも「反日」という言葉が使われている。樋田氏は書く、「「赤報隊」が犯行声明文で頻繁に用いた「反日」という言葉は事件当時、耳慣れない言葉だった。だが、現在はネット上で在日韓国人らを罵倒する用語として飛び交い、ヘイトスピーチ・デモで使われる「スローガン」にもなっている。」と。

 わたしも考えてみた。もし阪神支局襲撃事件がいま起きたら、社会はどう反応するだろう。ネット上にはどんな言葉があふれるだろう、と。
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樋田毅「彼は早稲田で死んだ」

2022年02月01日 | 読書
 樋田毅(ひだ・つよし)氏の「彼は早稲田で死んだ」を読んだ。1972年11月8日に早稲田大学第一文学部2年生だった川口大三郎君(後述するが、わたしは川口君と同学年だ)がキャンパス内で革マル派のリンチにより殺された事件と、その事件を契機に起きた自治会執行部から革マル派を排除して新たな執行部を作ろうとした運動の回想録だ。

 著者の樋田氏は当時同学部の1年生で、その運動のリーダー格だった。わたしは2年生で、クラスはちがうが、川口君と同学年だった。わたしは運動に積極的に関わったわけではないが(そのことにたいする後ろめたさがある)、学部を揺るがす大事件だったので、激動の渦中にいた。樋田氏は本書の中で、当時のご自身を、長髪で髭をはやしていたと書かれているので、「あの人かな」とおぼろげながら思い出す。

 本書は7章で構成されている。そのうちの第1章から第4章までは上記の事件と運動を描いている。生々しいルポルタージュだ。当時の記憶がよみがえる。とても当時から50年近くたったとは思えない克明な筆致だ。膨大な資料にもとづく記述であることは容易に想像がつくが、それ以上にリーダー格として運動の中心にいた樋田氏の脳裏には、当時の出来事が深く刻みこまれているのだろう。

 わたしはその運動の中にはいなかった。運動から距離を置くノンポリ学生のひとりだった。とくに運動が文学部キャンパスでは困難になり、本部キャンパスに移ってからは、集会にも出なくなった。本書はそんな当時のわたしを告発する。

 第5章では川口君の事件から離れる。第6章と第7章で川口君の事件に戻り、50年近くたったいま、樋田氏が当時の革マル派の活動家たちに会い、「なぜあのようなことをしたのか」、「当時なにを考えていたのか」、「いまはどう思うか」と問う。事件当時第一文学部自治会委員長だった田中敏夫氏はすでに亡くなっていた。未亡人の話によると、同氏は事件のことを語りたがらず、郷里でひっそり暮らしたようだ。

 当時書記長でリンチ殺人事件の実行犯のひとりだったSさんは、2度のインタビューに応じたが、最終的にはインタビューの公表を拒んだ。「川口君のご遺族や関係者の気持ちを思うと、加害者である自分の発言を表に出すべきではない」という趣旨の丁寧な手紙が樋田氏に届いたそうだ。

 一方、当時副委員長で、その後大学教授、思想家、環境運動家として活動する大岩圭之助氏(ペンネーム「辻信一」氏)は、樋田氏との対談に応じ、「理屈で説明したら噓になる。責任を取れるようなものではない」という趣旨の発言をした。あるところから先は考えない割り切った発言のように思う。田中敏夫氏やSさんに窺える心情とは対照的だ。
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宮本輝「川三部作」(3):「道頓堀川」

2022年01月12日 | 読書
 宮本輝「川三部作」の第3部「道頓堀川」。時は1969年(昭和44年)、所は大阪の道頓堀川の河畔、主人公は21歳(大学4年生)の安岡邦彦。第1作「泥の河」の主人公は8歳(小学2年生)で子どもの世界を生き、第2作「螢川」の主人公は14~15歳(中学2~3年生)で思春期の時期をすごすのにたいして、「道頓堀川」の主人公は今後の生き方に悩む時期をすごす。

 もっとも、「道頓堀川」は邦彦が主人公というよりは、道頓堀に生きる人々の群像劇だ。その中心には邦彦が住み込みで働く喫茶店のマスター、武内鉄男(50歳)がいる。武内と、武内が戦争直後の闇市で出会い、結婚した鈴子、そして鈴子とのあいだに生まれた政夫、さらに鈴子が政夫をつれて駆け落ちした杉山元一、それらの人々の人生がメインストーリーだ。

 武内は不器用で孤独な男だ。その武内の鈴子への愛と怒り、そして(武内の一方的な感情かもしれないが)理解と和解が描かれる。紆余曲折をたどる武内の心の軌跡は、戦争直後の混乱期とその終わり(社会の落ち着き)に重なる。戦後を描いた「泥の河」(1955年、昭和30年)、「螢川」(1962年、昭和37年)の大きな物語が「道頓堀川」で幕を閉じる。

 「泥の河」の最終場面では、主人公の両親は大阪から新潟へ転居しようとする。主人公にとって転居は友人との別れを意味する。また「螢川」の最終場面では、主人公の母親は(父親はすでに亡くなっている)富山から大阪への転居を考える。主人公にとって転居は初恋の人との別れを意味する。それぞれ転居が重要な要素だ。

 「道頓堀川」の最終場面では、明記はされないが、主人公は道頓堀から去るように読める。そう読めるように、いくつかの伏線が張られている。主要な伏線は次の一節だ。「その瞬間、邦彦は、このすさまじい汚濁と喧騒と色とりどりの電飾板に包まれた巨大な泥溝の淵(引用者注:道頓堀)から、なんとかして逃げて行きたいと思った。それは思いのほか困難な仕事のような気がした。」(第10章の最後の段落)。

 そして第11章(最終章)がくる。その最終場面で邦彦は、迷い犬を追って、外に駆け出す。武内は「邦ちゃん、煙草を買うて来てくれへんか」という。だが「聞こえなかったはずはないのに、邦彦は武内の言葉を無視して法善寺への細道を歩いて行った。」とある。なぜ邦彦は無視したのか。邦彦はもう戻らないからではないか。もし戻らないとしたら、「道頓堀川」の最終場面は「泥の河」、「螢川」と同じパターンになる。

 その読み方を補強するように、最終場面にむけて邦彦の周囲の人々が一人、また一人と道頓堀を去る。具体的には、邦彦の亡父の愛人だった弘美が岡山に去り、またゲイボーイの「かおる」が新橋に去ることを決める。「道頓堀川」は道頓堀のひと時代の終わりを描いた作品なのだ。
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宮本輝「川三部作」(2):「螢川」

2022年01月09日 | 読書
 宮本輝の「川三部作」の第2部「螢川」は、時は1962年(昭和37年)、所は富山の常願寺川の支流「いたち川」の河畔、主人公は中学2年生(作中で中学3年生になる。年齢は14~15歳)の水島竜夫。第1部の「泥の河」とは別の話だが、時と年齢は「泥の河」から7年たったことを示す。結果、「泥の河」は小学2年生の目で見た世界だが、「螢川」は大人の世界を垣間見た中学2~3年生の世界になる。

 両者のちがいは作品の構成に表れる。「泥の河」では時間が直線的に進む。作中の時間はつねに現在だ。一方、「螢川」では頻繁に過去が回想される。現在は過去の積み重ねのうえにある。言い換えるなら、「螢川」では時間は現在と過去のあいだをジグザグに進む。両者のその構成のちがいは小学2年生と中学2~3年生の時間感覚のちがいを反映するのだろう。

 過去の回想場面では主に竜夫の父と母との出会いと結婚が語られる。一言でいうと、二人ともわけありだ。それでも結婚に踏みきり、竜夫を生む。二人はそのことで負い目を負う。竜夫がそのいきさつを知っているわけではないが、竜夫を取り巻く世界として二人の過去が語られる。それが作品に奥行きを生む。

 竜夫は同級生の英子に恋をする。「泥の河」でも信雄は喜一の姉に、いや、それ以上に喜一の母に惹かれる。だが、小学2年生の信雄はそれを意識しない。一方、竜夫は明確に意識する。性的な関心もある。中学3年生なので当然だろうが、竜夫よりも英子のほうが心身ともに成熟している。それも重要な要素として描かれる。

 一種の象徴的な存在として(それがなにの象徴かは、読者の解釈にゆだねられる)、「泥の河」に登場する巨大な鯉と同様に、「螢川」では螢の大群が登場する。竜夫と英子をふくめた4人で螢の大群を見に行く(その場面がこの作品のクライマックスだ)。「何万何十万もの螢火が、川のふちで静かにうねっていた。そしてそれは、四人がそれぞれの心に描いていた華麗なおとぎ絵ではなかったのである。/螢の大群は、滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱と化し、(以下略)」と描写される。

 これは異様な描写だ。メルヘンだと思って螢の大群を見に行ったら、それはメルヘンではなく、「沈黙と死臭」を孕む「光の澱」だったという不気味さは、子どもから大人への通過儀礼のようなものだろう。一方、「泥の河」の巨大な鯉は、人生の脅威の暗示だったかもしれないが、少なくとも信雄の目には、自然の驚異を超えない。

 螢の大群は「泥の河」の巨大な鯉よりも、むしろ喜一の存在に近いかもしれない。喜一は見知らぬ少年として信雄の前に現れ、二人は親しくなるが、やがて信雄は喜一の異常な面に気づく。その経過は「螢川」の螢の大群の先駆のようだ。
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宮本輝「川三部作」(1):「泥の河」

2022年01月06日 | 読書
 宮本輝(1947‐)のデビュー作「泥の河」(初出「文芸展望」1977.7)は、太宰治賞を受賞し、後に映画化された。次作の「螢川」(同「文芸展望」1977.10)は芥川賞を受賞した。続く「道頓堀川」(同「文芸展望」1978.4)は、初出時の版を大幅に加筆して、著者初めての長編小説となった。

 それらの3作は「川三部作」と呼ばれている。たぶん華々しい文壇デビューだったろう。だが、当時のわたしは仕事が忙しくて、文学からは遠ざかっていた。その後もこの作家の名前は見聞きしていたが、作品を読むことはなかった。そんなわたしが今頃になって、初めて川三部作を読んだ。抒情的と評されることが多い3作の、みずみずしい感性に触れて、しっとりした余韻に浸った。

 「泥の河」は、時は1955年(昭和30年)、所は大阪の安治川(あじかわ)の河畔、主人公は小学2年生(8歳)の板倉信雄。信雄と(ある日突然信雄の前に現れた)同い年の松本喜一との交流が描かれる。続く「螢川」と「道頓堀川」は、時も所も、そして主人公も変わるので、「泥の河」との関連はないが、時と主人公の年齢は「泥の河」からの年月の経過を反映する。

 1955年(昭和30年)で8歳という「泥の河」の設定は、宮本輝の年齢と一致する。「螢川」と「道頓堀川」も同様に一致する。3作それぞれに著者がその年齢で見た風景が投影されていると見ていい。そしてその風景は著者より4歳年下のわたしが見た風景とも共通する。3作にはそれぞれの時期の風景が刻印されている。

 1955年(昭和30年)当時は、大人には戦争の傷跡が生々しかった。しかし子どもの信雄は(わたしもそうだったが)そんなことは露知らず、明るくのびのび育った。一方、喜一は安治川につながれた小舟で(母と姉とともに)貧しく暮らしている。ガスも電気も水道もない。学校にも行っていない。当時はそんな子どももいただろう。

 信雄と喜一が天神祭りに出かける場面がクライマックスだ。信雄の父が二人に小遣いをわたす。喜一は「僕、お金持って遊びに行くのん、初めてや」という。喜一のはしゃぎぶりが痛々しい。ところが喜一はその小遣いを落としてしまう。ズボンのポケットに穴が開いていたのだ。その後の出来事は書かないが、胸がふさぐ。

 なにかの象徴のように、川に巨大な鯉が現れる。最初は信雄と喜一が初めて出会ったときに現れる。その晩、高熱を出した信雄は「鯉に乗った少年(引用者注:喜一)が泥の川をのぼっていく」夢を見る。その鯉は信雄と喜一の別れのときにも現れる。川を「悠揚と」泳いでいく。この「悠揚と」という言葉にはネガティブな語感はない。鯉はなにの象徴か。研究者によってさまざまな解釈があるようだが、わたしは喜一の守護神であってくれれば、と思う。
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