井上ひさしの東京裁判三部作の第1作「夢の裂け目」が初日を開けた。2001年初演だったそうだが、私は今回がはじめて。来月、再来月と三部作が連続上演される。
貧しくも明るい昭和の時代。私は敗戦直後のころは知らないが、30年代の高度成長の時代に育っているので、記憶に生々しい。あのころの明るく、活気があって、人と人との距離が今よりも近い空気が伝わってくる。まだ社会のシステムが整っていなくて、それだからこそ、人と人とがぶつかり合っていた温かい時代。この芝居はその時代の空気をたっぷり吸っている。
紙芝居「満月狸ばやし」と東京裁判とのアナロジーに気づく場面は、少し説明的かもしれない。また、気づいた後も、対応関係や図式をすべてあからさまにはせずに、余韻を残して観客にゆだねる手もあったかもしれない。でも、作者はそれを百も承知で、すべてを語ることを選んだ。
天皇の戦争責任ということが――国立の劇場の主催公演で――あからさまに言及されるのは、見方によっては、まだ日本社会が健全さを失っていない証左かもしれない。願わくは、いつの日か「あのころはまだよかった」と回想することのないように。
誤解を避けるためにいうと、この芝居は天皇の戦争責任だけを扱っているのではない。むしろ、私たち庶民の責任はどうかという点に、比重がかかっている。往々にして天皇やA級戦犯の陰に隠れて、被害者意識に逃げ込みがちな私たちの――。
実は、この芝居は音楽劇ということで、多少の危惧をもっていたが、いざはじまると、まったく違和感がなかった。音楽が明るさを支え、活気を生んでいた。役者さんの歌も、よい意味で素人らしくてよかった。
個々の場面では、元芸者仲間の君子と妙子の再会の場面での「柳橋ソング」のデュエットが心にしみた。また、国際検事局に勤務するミドリの登場の歌「伝道士の娘のワルツ」では、この人物の屈折のある境遇を感じさせた。これらの2曲は台詞よりも効果的だった。いずれもクルト・ヴァイルの「三文オペラ」のなかのソングの転用。
刑務所に入れられた紙芝居屋を助け出すために、「満月狸ばやし」を放棄するよう迫るミドリ。放棄すべきか、それとも、真実を守るために放棄せざるべきか――。この芝居の最後のヤマ場の結末は、ここでは控えることにする。
後日談では、ミドリは紙芝居屋と所帯をもつ。一連のミドリの行動の意味を考えていて、その背景にはミドリが戦時中にこうむった苦労があることに思い至った。
(2010.4.8.新国立劇場小劇場)
貧しくも明るい昭和の時代。私は敗戦直後のころは知らないが、30年代の高度成長の時代に育っているので、記憶に生々しい。あのころの明るく、活気があって、人と人との距離が今よりも近い空気が伝わってくる。まだ社会のシステムが整っていなくて、それだからこそ、人と人とがぶつかり合っていた温かい時代。この芝居はその時代の空気をたっぷり吸っている。
紙芝居「満月狸ばやし」と東京裁判とのアナロジーに気づく場面は、少し説明的かもしれない。また、気づいた後も、対応関係や図式をすべてあからさまにはせずに、余韻を残して観客にゆだねる手もあったかもしれない。でも、作者はそれを百も承知で、すべてを語ることを選んだ。
天皇の戦争責任ということが――国立の劇場の主催公演で――あからさまに言及されるのは、見方によっては、まだ日本社会が健全さを失っていない証左かもしれない。願わくは、いつの日か「あのころはまだよかった」と回想することのないように。
誤解を避けるためにいうと、この芝居は天皇の戦争責任だけを扱っているのではない。むしろ、私たち庶民の責任はどうかという点に、比重がかかっている。往々にして天皇やA級戦犯の陰に隠れて、被害者意識に逃げ込みがちな私たちの――。
実は、この芝居は音楽劇ということで、多少の危惧をもっていたが、いざはじまると、まったく違和感がなかった。音楽が明るさを支え、活気を生んでいた。役者さんの歌も、よい意味で素人らしくてよかった。
個々の場面では、元芸者仲間の君子と妙子の再会の場面での「柳橋ソング」のデュエットが心にしみた。また、国際検事局に勤務するミドリの登場の歌「伝道士の娘のワルツ」では、この人物の屈折のある境遇を感じさせた。これらの2曲は台詞よりも効果的だった。いずれもクルト・ヴァイルの「三文オペラ」のなかのソングの転用。
刑務所に入れられた紙芝居屋を助け出すために、「満月狸ばやし」を放棄するよう迫るミドリ。放棄すべきか、それとも、真実を守るために放棄せざるべきか――。この芝居の最後のヤマ場の結末は、ここでは控えることにする。
後日談では、ミドリは紙芝居屋と所帯をもつ。一連のミドリの行動の意味を考えていて、その背景にはミドリが戦時中にこうむった苦労があることに思い至った。
(2010.4.8.新国立劇場小劇場)