Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

デュトワ/N響

2014年12月14日 | 音楽
 デュトワ/N響の定期Cプロ。前半2曲が‘レクイエム’、後半が「新世界より」というプログラムだ。前半の2曲が興味深い。後半はサービスか――と。でも、その予想はくつがえされた。

 1曲目は武満徹の「弦楽のためのレクイエム」。冒頭の弦の音が透明だ。一点の曇りもない明るい音の世界。拍節感が明瞭に出る。でも、そこが問題だ。我々日本人がこの曲に抱いている茫漠とした音のイメージとは異質だ。細かい音型(たとえば小さなスラー)には発見があった。でも、表面的なレベルにとどまった。全体としてはなにも語らない演奏。

 外人の指揮者がこの曲を振ると、時々こうなる。デュトワもそうなのか。「鳥は星形の庭に降りる」とか、そういった作品にはない世界がこの曲にはあって、西洋人には理解できない性質のものなのか。

 だが、この曲がこれからも、日本人の間だけではなく、西洋人の間でも、生きていかなければならないとしたら、どうなるのだろう。また、日本人の間であっても、小澤征爾や岩城宏之といった、いわばこの曲の‘第1世代’ではなく、若い人たちに委ねられたときには、どうなるのだろう。話はそう簡単ではないかもしれない。

 2曲目はベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出のために」。この曲を、他ならぬ今年の年末に聴くことには、わたしはかなりの思い入れがあった。というのは、今年聴いた演奏会の中で、もっとも鮮烈な経験として残ったものの一つに、メッツマッハー指揮の新日本フィルが演奏したツィンマーマンの「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」があったからだ。

 あの曲の最後にはバッハのカンタータ「おお永遠よ、汝おそろしき言葉よ」BWV60のコラール「たくさんです。主よ」が引用されている。いうまでもないが、そのコラールはベルクがヴァイオリン協奏曲で引用したものと同じだ。ベルクは魂が昇天する音楽として引用した。一方、ツィンマーマンは自らの命を断つ予告として引用した。

 でも、デュトワの指揮は、あまりにもデリケート、かつ穏やかな、予定調和的な演奏だった。音の生々しさは消えていた。アラベラ・美歩・シュタインバッハーのヴァイオリン独奏も同様だった。

 一転して3曲目のドヴォルザークの「新世界から」は正気に返ったような演奏だった。こういったスタンダードなレパートリーで信頼できる解釈者の姿がそこにあった。
(2014.12.13.NHKホール)
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