Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

デュトワ/N響

2014年12月08日 | 音楽
 デュトワ/N響による「ペレアスとメリザンド」の演奏会形式上演。弦は16型だから、オペラハウス的には大編成だが、抑えに抑えた演奏なので(とくに休憩前の第3幕までは)、声にかぶることは一切なかった。

 演奏会形式で聴くと、やはり発見がある。たとえば第2幕の最後の場。ゴローに命じられてペレアスとメリザンドが夜の海岸に指輪を探しに行く。一瞬、月の光が射す。そのとき、ハープがポロンと鳴った。なるほど、あの月光の印象は、ハープによってもたらされていたのかと――。

 もう一つは、第5幕でメリザンドが息を引き取るとき、フルート3本にトランペット(1番奏者)が音を重ねていた。第5幕ではトランペットが重要な役割を果たすが、この箇所でのトランペットの効果には、今まで気付いていなかった。

 デュトワの指揮は精妙かつ静的。とくに第3幕までは各場ごとに1枚の絵(フランス語で‘タブロー’といってみたくなる)を描いていくような趣があった。休憩後の第4幕からはダイナミックレンジが広がり、表現の振幅も大きくなった。といっても、休憩を挟んでガラッと変わったわけではなく、第3幕から徐々に変化が現れた。

 オーケストラの話が先行したが、この公演で特筆すべきは歌手だった。とくにペレアスを歌ったステファーヌ・デグーとゴローを歌ったヴァンサン・ル・テクシエ。ともにフランス語のディクションがすばらしい。声そのものにドラマがある。人間的な生々しい感情を内面に抑えた、息詰まるようなドラマ。

 でも、それとは別の次元だが、デグーはバリトンだ。テクシエはバス・バリトン。もちろんバランスは取れているのだが、アンサンブルの重心はどうしても低くなる。テノールに優れた歌手がいれば、ペレアスはテノールの方が――、と思った次第だ。

 メリザンドはカレン・ヴルチ。上述の2人にくらべると、単調さを感じた。でも、それがヴルチのせいだと言い切れるものかどうか。メリザンドは、つかみどころのない、不思議な女性だ。ドビュッシーの音楽もそう書かれている。なので、舞台で演技をともなって初めて効果が出るのであって、演奏会形式では不利かもしれない。

 イニョルドのカトゥーナ・ガデリアは、声がまっすぐに出る。医師のデーヴィッド・ウィルソン・ジョンソンはすごい存在感だ。ジュヌヴィエーヴのナタリー・シュトゥッツマンは、この位できて当たり前か。
(2014.12.7.NHKホール)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする