新国立劇場の「トリスタンとイゾルデ」。当初予定されたトリスタン役とイゾルデ役の歌手がキャンセルして、わたしには未知の歌手が代役に立った。がっかりしたが、代役の歌手が役目を果たした。わたしもそうだが、劇場側もホッとしたことだろう。
代役に立った歌手は、まずトリスタン役はゾルターン・ニャリ。個性的な声だが、歌はしっかりしている。第3幕のモノローグもメリハリがある。イゾルデ役はリエネ・キンチャ。第1幕の長丁場は緊張感を欠いたが、第3幕の「愛の死」は抑揚に富む。繰り返すが、総じて2人とも及第点だ。
多少脱線するが、この作品はトリスタンとイゾルデの半音階を駆使した音楽と、クルヴェナールの跳躍の多い音楽と、マルケ王の動きの乏しい音楽との3種類の音楽からなる。わたしはだんだんクルヴェナールの音楽が好きになる自分に気付く。そのクルヴェナールをうたったエギルス・シリンスは、ドイツの無骨さを感じさせる好演だった。またマルケ王をうたったヴィルヘルム・シュヴィングハマーは声に力があった。なおブランゲーネをうたった藤村実穂は少しやせたようだが、声は健在だ。
歌手の話が先行したが、本公演の主役は大野和士指揮する都響の演奏だった。繊細で、起伏に富み、夢見るように柔らかかった。とくに第2幕の「愛の二重唱」は、トリスタン、イゾルデそしてブランゲーネの好演ともあいまって(3人とも大野和士の指揮するアンサンブルに完全に入っていた)、今まで聴いたことがないほど甘い音楽になった。わたしはバイロイト、ベルリン(シュターツオーパー)、ドレスデンなどで聴いたが、それらのどの都市にもない個性をもつ演奏だった。
本公演は2010年12月から翌年1月にかけて初演されたプロダクションの再演だ。わたしは初演のときも観たが、やはり忘れていることが多々ある。なかでも重要な点を2点あげると、第一に、第2幕で「愛の二重唱」に入ると夜空に星がまたたくことだ。それは「愛の二重唱」がそれまでの音楽とは隔絶した音楽であることを示す。
第二に、第3幕の終盤に登場するイゾルデが赤い衣装を着ていることだ。このプロダクションでは、登場人物はすべて黒か灰色の衣装を着ている。だが最後の最後にイゾルデが赤い衣装を着る。その赤は海に沈む夕日の赤と一致する。劇的効果が見事だ。
デイヴィッド・マクヴィカーの凝縮された演出、ロバート・ジョーンズの洗練された美術と衣装、ポール・コンスタブルの美しい照明。13年ぶりに観たこのプロダクションは、少しも古びていなかった。
(2024.3.20.新国立劇場)
代役に立った歌手は、まずトリスタン役はゾルターン・ニャリ。個性的な声だが、歌はしっかりしている。第3幕のモノローグもメリハリがある。イゾルデ役はリエネ・キンチャ。第1幕の長丁場は緊張感を欠いたが、第3幕の「愛の死」は抑揚に富む。繰り返すが、総じて2人とも及第点だ。
多少脱線するが、この作品はトリスタンとイゾルデの半音階を駆使した音楽と、クルヴェナールの跳躍の多い音楽と、マルケ王の動きの乏しい音楽との3種類の音楽からなる。わたしはだんだんクルヴェナールの音楽が好きになる自分に気付く。そのクルヴェナールをうたったエギルス・シリンスは、ドイツの無骨さを感じさせる好演だった。またマルケ王をうたったヴィルヘルム・シュヴィングハマーは声に力があった。なおブランゲーネをうたった藤村実穂は少しやせたようだが、声は健在だ。
歌手の話が先行したが、本公演の主役は大野和士指揮する都響の演奏だった。繊細で、起伏に富み、夢見るように柔らかかった。とくに第2幕の「愛の二重唱」は、トリスタン、イゾルデそしてブランゲーネの好演ともあいまって(3人とも大野和士の指揮するアンサンブルに完全に入っていた)、今まで聴いたことがないほど甘い音楽になった。わたしはバイロイト、ベルリン(シュターツオーパー)、ドレスデンなどで聴いたが、それらのどの都市にもない個性をもつ演奏だった。
本公演は2010年12月から翌年1月にかけて初演されたプロダクションの再演だ。わたしは初演のときも観たが、やはり忘れていることが多々ある。なかでも重要な点を2点あげると、第一に、第2幕で「愛の二重唱」に入ると夜空に星がまたたくことだ。それは「愛の二重唱」がそれまでの音楽とは隔絶した音楽であることを示す。
第二に、第3幕の終盤に登場するイゾルデが赤い衣装を着ていることだ。このプロダクションでは、登場人物はすべて黒か灰色の衣装を着ている。だが最後の最後にイゾルデが赤い衣装を着る。その赤は海に沈む夕日の赤と一致する。劇的効果が見事だ。
デイヴィッド・マクヴィカーの凝縮された演出、ロバート・ジョーンズの洗練された美術と衣装、ポール・コンスタブルの美しい照明。13年ぶりに観たこのプロダクションは、少しも古びていなかった。
(2024.3.20.新国立劇場)