Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ザルツブルク:皇帝ティトの慈悲

2017年08月24日 | 音楽
 ザルツブルク最終日はモーツァルトの「皇帝ティトの慈悲」を観た。これはピーター・セラーズの演出、テオドール・クルレンツィスの指揮、そしてセストを歌ったマリアンヌ・クレバッサの歌唱の3点で傑出した上演だった。

 まずセラーズの演出から。これは読み替え演出の範疇を超えて、このオペラにモーツァルトの他の楽曲を挿入するという、一歩踏み込んだものだった。挿入された曲は「大ミサ曲 ハ短調」から数曲、「アダージョとフーガ ハ短調」そして「フリーメイソンのための葬送音楽」。いずれも登場人物の感情表現を補強するため。

 これはひじょうに効果的だった。舞台の雰囲気が瞬時に変わった。あるときは喜びに溢れ、また悲痛な感情が高まり、あるいは沈鬱なムードに包まれた。

 いうまでもないが、このオペラが書かれた1791年(モーツァルト最後の年)には、モーツァルトは多忙を極めた。詳細は省くが、モーツァルトはこのオペラに推敲を加える余裕がなかった。わたしは今回の上演を観た後、もしモーツァルトにこのオペラを再演する機会があったとしたら、同じことをしたかもしれないと想像した。パスティッチョ・オペラの例を考えれば、挿入曲の選択は異なるにしても、これは十分あり得る手だと思った。

 演出についてもう一言。今回の演出では、セストは(人違いをせずに)皇帝ティトを襲い、重傷を負わせる筋書きになっていた。台本では、皇帝ティトだと思って襲った相手は、じつは別人だったという馬鹿馬鹿しい筋書きだが、それを避けた。わたしはこれも歓迎すべきことだった。

 次にクルレンツィスの指揮について。クルレンツィスが指揮するピリオド楽器オーケストラ‘ムジカエテルナ’の演奏は、生気に溢れ、尋常ならざるドラマトゥルギーを持っていた。1小節たりとも機械的に拍を刻むことがなく、また休符の一つひとつも、それが4分休符か8分休符かという観点ではなく、ドラマの進行として、あるいは登場人物の心理として、どの程度の長さが必要かという観点で捉えられていた。

 その結果、モーツァルトのスコアから、今までだれも想像したことがないような音楽を引き出していた。わたしは圧倒された。

 最後にセストを歌ったクレバッサについて。ズボン役の不自然さがなく、また歌唱技術が驚くほど高い。シャープな歌唱でセストの苦悩を歌いきった。今回の上演ではセストが主役だった。
(2017.8.17.フェルゼンライトシューレ)
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