平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

ソナチネ 死が日常の男の悲劇

2010年06月17日 | 邦画
 麻雀屋の主人をクレーンで括りつけて3分だけ海に沈めることにする村川(ビートたけし)。しかし沖縄行きの話をしているうちに3分立っていることを忘れて、クレーンを上げてみると麻雀屋の主人は溺死している。
 対立するやくざを手榴弾で車ごと吹っ飛ばして殺す。
 その時に村川は「バカ野郎、車を吹っ飛ばしてどうやって帰るんだ?」

 村川のまわりは<死>がいっぱいで、<死>に麻痺している。
 村川にとって<死>は日常でしかない。
 普通の人間にとって<死>は怖いもの。
 人の命は地球より重いとして、何よりも尊重されるもの。
 しかし村川にはそんな<死>に対する想いはない。
 麻痺している<死>に対する感性。
 そんな彼は仲間が殺されても悲しんだり、泣きわめいたりしない。
 憤りはあるのかもしれないが、その炎は小さい。
 通常のヤクザ映画だったら、仲間が殺されて主人公が敵地に単身乗り込んでいくのは最大の見せ場。
 マシンガンをぶっ放して観客はスカッとする。見栄を切って啖呵を吐いて。
 しかし北野武監督はそれをやらない。
 マシンガンを持って単身敵地に乗り込むが、機関銃をぶっ放すシーンは建物の外からのロング撮影。窓から機関銃の火花と銃声が聞こえるだけ。
 北野監督の主眼はマシンガンをぶっ放してカタルシスを得ることにはなく、<死>に麻痺してしまった男の空虚を描くことにあるのだ。
 生きることに喜びも悲しみも、怒りも憎しみも抱けなくなってしまった男の悲劇。
 そんな男はもはや死ぬしかない。他人の手で死ねないのなら自分で死を選ぶしかない。

 そして、そんな男が唯一救われた時間が仲間と過ごしたバカな時間だ。
 落とし穴を作って落としてみたり、花火で戦争ごっこ(途中で実弾で打ち合う)をしたり、相撲をしたり。
 この時間だけ村川は<笑う>という感情を少し得ることができた。

 心が枯れ果てて砂漠になってしまった男の空虚。
 そこには大きなドラマはない。
 その心の中のように乾いて、果てしなく静かだ。


コメント
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