JR高山本線は98年夏の東京遠征+北陸遠征にて全線制覇している。この時は品川発の臨時167系大垣夜行で岐阜まで行き、岐阜から高山、猪谷で乗り継いで富山まで完乗している。なお、この時乗った167系大垣夜行が私にとっては最初で最後の大垣夜行乗車となっている。私が乗り歩きし出した時には既に373系ムーンライトながらが走っており、大垣夜行は臨時のみの存在となっており、ボックスシートが苦手な私はそれを避けてながらがダメなら北陸経由でえちごに乗って東京入りというルートを愛用していた。このため大垣夜行にはあまりお世話になっていない。この一度きりだ。ナイター観戦を途中で辞して品川で並んだ甲斐あって席につくことはできたが、席のない人がたくさんいて、通路やデッキに終夜人が溢れるという状態だった。
岐阜からは高山本線の道中となるが、お決まりのように気動車はキハ48で、朝方の列車だったため、結構つないでいた印象があり、座席の確保は楽勝だった。しかし、道中は非常に険しいものとなった。豪雨に晒され、途中運転抑止まで食らって北陸まで無事に辿り着けるか非常に不安な道中だった。高山本線は07年現在も台風の影響で部分的に運休しているが、確かに雨の災害は多そうな路線だ。抑止を食らいながらも何とか乗り継ぎながら猪谷までかなりの遅れを持って辿り着いた。猪谷に着く頃には天気は嘘のように回復し、接続待ちをしてくれていたJR西日本のキハ120気動車は何事もなかったように富山へ着いた。この後富山から高岡まで出て、高岡から氷見線に乗り、城端線も乗り潰す予定だったが、前日の夜行からの疲れと高山本線での気疲れもあって、城端線は断念してスーパー雷鳥に乗って帰阪している。
次に高山本線に乗ったのは太多線の乗り潰しをした98年9月の東京遠征の時で、この時はムーンライトながら乗車前に名古屋で鉄活動と言うことで、夕方太多線に乗って美濃太田まで行き、美濃太田から岐阜まで高山本線に乗っている。その次に乗ったのは04年9月5日の北陸遠征の時で、この時は能登半島攻めを行って、富山に泊まって翌朝高山本線を下って行き、猪谷から神岡鉄道の乗り潰しをして、再び猪谷に戻り、岐阜から東海道本線を乗り継いで、美濃赤坂まで初乗り入れしている。この時も富山からの道中は物凄い豪雨に晒され、猪谷に着いた時にはこの先どうなるのかと思わせるような大雨になっている。猪谷から神岡鉄道を往復して、再び高山本線に戻り、JR東海の気動車で高山へ。ここでも抑止こそなかったものの、対向列車の遅れなどで遅れが生じながらの道中となり、高山へ近づくほど雨はマシになっていたが、高山本線の道中は常に雨に降られる印象を持たざるを得ない状況となっていた。
この他05年9月4日の太多線乗り直しの際にも美濃太田から岐阜まで高山本線を利用しているし、06年12月29日の長良川鉄道乗り潰しの際にも岐阜から美濃太田まで高山本線を往復利用している。このように高山本線ローカル列車には何度も乗っているが、看板列車の特急ひだにはまだ一度も乗車したことがない。次は特急ひだでゆったりした旅を楽しんでみたいものだ。