一昨日のニューヨーク・ダウ1000ドルの急激な下落が、本当に意味する事
「やがて明るみに出る、倒産・間際の日本の金融機関」、
http://alternativereport1.seesaa.net/article/149136712.html
「崩壊に向かう世界経済」、
http://alternativereport1.seesaa.net/article/148806841.html
「仕組まれた現在の金融恐慌」、
http://alternativereport1.seesaa.net/article/148495063.html
「ギリシア国債の強引な格下げの、意味するもの」、
http://alternativereport1.seesaa.net/article/148139688.html
「銀行預金、年金、生命保険の全てを失った日本人が激怒した場合、軍隊で制圧すると言う米軍の軍事戦略」、
http://alternativereport1.seesaa.net/article/147987972.html
「国債は紙クズになる?」、参照。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/147484213.html
一昨日、ニューヨークのダウが一気に、1000ドル下落した。一時的な下落で、持ち直し、結局300ドルの下落で「済んだ」。市場関係者と、マスコミは必死に「人為的な入力ミスによる、下落」と説明している。コンピューターのプログラム売買が圧倒的「量」を占め、優秀な株式自動売買ソフト=プログラムを開発したものが投機で利益を上げ、金融投機屋がプログラマーと同義語になっている世界の金融市場で、「手作業の入力が市場の動きを左右できる」等々という「言い訳」は、ウソを超えて茶番である。自動車のエンジンの中には人間が入っていて、必死でペダルを踏んでいるから自動車は走る、と説明されて、だれが信用するのか? 自動車事故は、エンジンの中に居る人間が、うっかりペダルを踏み外したために起こった、と説明されて、誰が納得するのであろうか?
世界中に潜んでいるデリバティヴ・ヘッジファンド取引の巨額な不良債権と、それを買い取り破産状態になった世界各国の国債が紙クズに「既になっている」ため、紙幣=ペーパーマネーが全くの信用を失っている、手始めに株から紙クズ化の動きが出て来た。ボクシングの試合開始と同時に、繰り出された最初のジャブが、一昨日の急激なダウの下落である。
こうして歴史上、何度も繰り返されてきた、金融恐慌と、それに続く戦争。恐慌が大規模になればなる程、戦争は世界大戦に発展する。恐慌のたびに、金融システムの欠陥が問題視され、その後、改善が繰り返されて来たにも関わらず、相変わらず恐慌から人類は逃れられていない。恐慌が、なぜ、戦争に発展するのか、「もっともらしい経済学者達の説明にも、関わらず、本当は戦争の原因等、人類には何一つ分かっていない」。恐慌が戦争に発展する「理由が分かっているのであれば」、なぜ、それを相変わらず阻止できないのか? 第二次世界大戦の原因となった1929年のウォール街の大暴落から、100年近く経過し、世界中に「経済学を専門とする大学教授が数十万人存在しているにも、関わらず」。
貨幣の本質は、暴力である。商品売買の「仲介役」が貨幣である、などといった経済学的な「機能の」説明は、全くの嘘である。
自動車のタイヤは「人間を運搬する」のが機能である。タイヤは「人間の運搬役」である、と説明して、タイヤを説明した事になるのだろうか? タイヤの本質は、ゴムである。天然ゴム、または合成ゴムである。自動車のタイヤは「人間を運搬する」のが機能である、と説明して、ゴムの組成・分子構造の「説明になっているのだろうか?」 商品売買の「仲介役」が貨幣である、などと説明して、貨幣と金融市場を説明した事になるのであろうか?
貨幣の本質は、暴力である。金融市場とは、人間同士が暴力を振るい合う、古代ローマ帝国の円形競技場が発展した、殺戮の場である。殺戮が過熱すれば、円形競技場の観客まで全て巻き込んで殺害行為が競技場の外に、あふれ出す。金融投機が加熱すれば、世界中が戦争=暴力に巻き込まれる理由は、そこにある。
人間の本質的な能力に学習能力がある。
赤ん坊は、大人達が話をするのを「口まね」しながら言葉を学習して行く。
この「まね」をする能力が学習能力の基本になる。「まねる→まねぶ→まなぶ」と古い日本語は変化して来た。
古代社会以前、有史以前から、人間が生きて生活している社会・共同体の中で、この本質的な能力がトラブルを起こして来た。
お互いに「まね」をし合う事でお互いが次第に似てくる現象が起こり、自分と他人の「区別がつかない」混同状況が出て来る。
やがて「自分は自分であり他人と違う」という明確化のために、 他人を憎悪し排除しようとする近親憎悪が起こる。親と一体化して育ってきた子供が、親と自分を区別するために親を憎悪し、自分と親を切り離そうとする「反抗期」が、心理学では、この現象に該当する。
1つのファッションが流行すると皆が同じファッションを「まね」し始め、皆が「同じ」になって来る。自分と同じファッションをしている人間を人間は決して好きにはならない。「誰もみな同じカッコウをして」と憎しみの感情を抱く。
アラン・ドロンが主演した「太陽がいっぱい」という映画では、金持ちの青年と常にいっしょに遊び行動している貧しい青年が、金持ちの青年の「まね」をしている内に、自分がその金持ちの青年だと混同し始める。「自分が2人いるのはおかしい」と考え始めた青年は、最後には金持ちの青年を殺害する。近親憎悪の典型である。
精神分析学では、お互いが「鏡に写ったソックリな状況」という意味で「鏡像段階」と呼んでいる。
この「鏡像段階」は、社会全体に相互憎悪を引き起こす。
有史以前から、この相互憎悪が「万人の万人に対する殺し合い」に発展し、共同体が壊滅する事態がたびたび起こって来た。そうした経験を「積んだ」人間社会は、1つの解決策を発見した。
「万人の万人に対する殺し合い」を万人の1人に対する殺人へと集中させ、「殺意を発散解消」させる事にした。リンチ殺人であり、魔女狩りであり、それを定式化したものが延々と続いて来た「イケニエ」の儀式である。
2010年現在でも、皆がサラリーマンとなり「同じ生き方」をする「鏡像段階」の現代社会で、定期的に特定の芸能人の私生活を暴き、悪人として「祭り上げ」、徹底的に叩くリンチ報道がマスコミによって行われている。
皆がサラリーマンという「鏡像段階」社会の相互憎悪、殺意を「1ヶ所に集中させ、解消させて」いる。
この集団リンチ=イケニエの儀式の残虐さを少しでも緩和するため、イケニエはやがて「イケニエの羊」として動物に置き換えられ、さらに人形等を破壊するシンボル的な殺害に置き換えられた。それを最も抽象的な「ただのお話」にまで「文明化」し、「リンチの生々しさ」を忘れさせながら「リンチによるストレス解消と社会秩序の安定」を入手出来るように「公式化」したものが、キリストの十字架ハリツケというリンチ殺人の「物語」である。
実際のリンチ殺人であれば、そのストレス解消効果は1年位は保てるが、キリスト教は単なる「リンチ物語」でしかないため、その効果は長続きしない。毎週教会に行かなければ、その憎悪、殺意感情のコントロール効果は持続しない。キリスト教社会で、「毎週教会に通わない人間は不信心から悪事を行う」と噂される事には、合理的な根拠があった。
哲学者ニーチェが著書「ツァラトゥストラかく語りき」で「神は死んだ」と言った時、ニーチェは、キリスト教の持つ、この暴力コントロール機能がもはや機能しなくなり始めた事を指摘していた。暴力コントロール機能が作用しなくなれば、当然、暴力が噴出す。
ニーチェは、晩年の著書「権力への意志」の中で、「万人の万人に対する殺し合い」が復活する事を予言した。ニーチェ は、アドルフ・ヒトラーの出現を予言し的中させた。
現在の市場経済では、この機能しなくなったキリスト教に代わり、貨幣が暴力コントロール機能を担っている。
以下に、拙稿から引用する。
「魔女狩り、リンチ裁判を経済化しただけの市場経済原理」
聖書に出てくるキリストの話のアウトラインは、以下のようになっている。
イエス・キリストという無私の人間がおり、争い事があれば仲裁をし、病人がいれば治して健康に戻し、言わば人間の社会生活参加の「不具合」を直し、社会全体の「コミュニケーション過程」を円滑にする役割を果たしている人物がいた。しかもそのキリストという人物は、私欲が無く、おいしい物を食べたい、豊かな生活がしたい等の欲望が無く無私であり、言わば人間としての生活の「質」を楽しむ事が「一切」無かった。しかし、やがて権力者に妬まれキリストは死刑にされる。市民は、キリストを見捨て積極的にキリストの死刑に協力するか、もしくは見殺しにする。
暗黙の、社会的リンチ殺人である。
死刑の後、皆は「無実の善人を死刑にした」という「罪の意識」を持ち、内心「恐怖」を感じる。そして死んだはずのキリストが復活する。皆はパニックになり怯える。キリストは「権力者」のように皆に「命令」し、説教して言う。「あなた達はみな罪人である。卑劣な人間である。今後は深く反省し謙虚になり、争い事をせず私欲を捨て隣人を愛しなさい」。現在においても刑務所に入った殺人犯人が深く反省し、謙虚でおとなしい人間に変わる事は良くある。自分の行った事を反省し温和な人間に成る。それと同じ事態がキリストの「十字架=リンチ殺人」によってもたらされる。社会全体が謙虚になり、争いの無い平和な状態がもたらされる。「社会全体のコミュニケーション過程が完全に円滑な状態になる」。
人間として生活を楽しむという「質」の面では、既に「全く死んでいた」キリストは、その完成形態として実際に「死に」、その結果、絶対的な権力者として復活し人々に謙虚さを命令し、「社会全体のコミュニケーション過程の円滑さ」を完全に実現するのである。
ヨーロッパ中世社会では、このキリストのような存在に成ろうと日々、研鑽努力し修行し、キリスト教を深く理解し、イエス・キリストに「近い存在」に成れば成るほど高い社会的地位と富が手に入った。階級社会が作られた。
現代社会の市場経済において、もしも塩を生産している業者が自動車が欲しいと考え、物々交換しようと考えたら極めて大変な事になる。自動車を売りたいと考え、しかも何百キロもの塩が欲しいという人物を世界中探し回らなくてはならない。しかし、貨幣が存在するおかげで、塩何百トンは即座に何十万円という通貨に姿を変え、その通貨で自由に自動車を買う事が出来る。商品社会のコミュニケーション過程が「円滑」に行く。紙幣は紙であるが、それを紙としてメモ用紙に使う人間はいない。アルミで作られた1円硬貨を溶かし、鍋等のアルミ製品を作れば犯罪になる。通貨は「質」の面で死んでいる。そして通貨があれば何でも買う事が出来る。通貨は、商品社会の中での絶対的な「権力者」である。
通貨はその「質」を利用するという面では、完全に「死んでいる」。死ぬ事により、通貨があれば何でも買えるという絶対的な権力者として復活する。そして 「社会全体の商品のコミュニケーション過程の円滑さ」を完全に実現する。人間として生活を楽しむという「質」の面では、既に「全く死んでいた」キリストは、その完成形態として実際に「死に」、その結果、絶対的な権力者として復活し人々に謙虚さを命令し、「社会全体のコミュニケーション過程の円滑さ」を完全に実現するのである。
ヨーロッパ中世社会では、修行等を「積み」、イエス・キリストに近い存在であればある程、高い社会的地位と富が得られた。階級社会が作られた。同様に、現在社会ではビジネスで成功を「積み」、通貨をたくさん持てば持つ程、高い社会的地位と豊かな生活が保証される。階級社会が作られる。
キリスト教が社会の中で果たしていた「システムの中核の」役割と、通貨が現代社会で果たしている役割は同一である。キリスト教が作り出した社会階級のシステムと、通貨の作り出した社会階級のシステムは同一である。
全く同じ建築方法と間取りを持つAという家からBという家に引越し、Aという家が「古い時代遅れの建築方法で立てられている」と非難し、Bという家は「最新式の時代の最先端の方法で建築されている」と自慢しているのが「市場経済」の信奉者である。
現代の市場経済、銀行等の金融組織は、決して「客観的、科学的」なものではない。キリスト教という「一風変わった新興カルト宗教」が、市場経済と名前を変えただけである。オウム真理教が「名前を変えた」だけで信用出来るであろうか?ヨーロッパ中世1000年の暗黒時代が、「市場経済」と名前を変えただけで信用出来るであろうか?
ガン細胞=通貨の持っているカルト宗教の要素、階級社会=権力発生メカニズム、実物経済から遊離して通貨だけを無限に作り出せる増殖機能、質的には悪質な商品でも値段が高ければ高質と勘違いする、あるいは量的にお金を多く持っている事を、「頭が良い=金儲けがうまい」と相手の知能、文化水準の高さと同一視し、勘違いする物象化機能等、1つ1つ「手術で摘出除去」しなくてはならない。
以上、引用終わり。
自動車のタイヤが、「人間を運搬する」という機能を持ち得るのは、タイヤの原料であるゴムの分子構造が、土、あるいはアスファルトの道路の分子構造の凹凸と、構造的に合致し、道路の凹の部分にはゴムの分子構造の凸が、凸の部分には凹が、しっかり対応し、喰い込むためである。貨幣が商品売買の仲介役として機能し得るのは、市場経済=商品の売買の「社会の中で行使される暴力を、貨幣が上手に社会全体に持ち運ぶ、暴力の体現者となっているためである」。
通貨の行使とは暴力の行使である。
人々が、デパートで買い物をすると、絶大な権力・暴力を行使する王様に対する奴隷のようになぜ店員は頭を下げるのだろうか。貨幣の行使は暴力の行使であるからだ。
会社の上司に仕事の事で怒鳴られ=精神的暴力を受けた後、買い物で大量の商品を買い、貨幣を使い尽くし、ストレスを発散させる事が出来るのは、上司から受けた暴力を貨幣の行使という暴力の行使で発散させている事になる。「殴られたから殴り返している」のである。
経済恐慌が来、紙幣が紙クズになると紙幣は使えなくなる。貨幣の暴力コントロール機能も失われる。コントロール出来なくなった暴力は爆発する。
経済恐慌の次には、必ず戦争・世界大戦というコントロール不能の暴力の爆発=「万人の万人に対する殺し合い」が始まる。
金融恐慌・国家破産とは、この暴力コントロール機能の暴発である。
現代の金融システムに代換して、地域通貨=新しい通貨を考案すれば「問題は解決する」等々という議論は、貨幣の本質を何も理解していない所から出てくる無知の産物である。
米国で長年市民運動を行って来たアーネスト・カレンバックは、その著書「エコトピア・レポート」東京創元社、の中で、環境保護の観点から最も望ましい人間の共同体生活の在り方を描き出している。そしてその巻末には、自律した経済圏を持つ地域同士が、定期的に「殺人に近い」すさまじいゲームを開催している様子を描いている。現在のサッカー等より過激なケガ人続出のスポーツで、暴力を発散させコントロールしている。
貨幣が定期的に戦争という暴力を引き起こす、その危険な機能を貨幣から奪い、金融恐慌を「起こさない、新通貨制度が、仮に出来上がった場合」、貨幣の暴力コントロール機能を奪った以上、その代替機能を社会は、どこかで別の形で作らなければならない事に、人類の理想社会を目指したカレンバックは気付いている。
人類の歴史は戦争の歴史である。暴力をどう抑止しコントロールするか、金融恐慌は、その課題を、人類に突きつけている。
参考文献:
●ジョルジュ・バタイユ「呪われた部分」ちくま書房
●モーリス・ブランショの著書
●経済人類学者マーシャル・サーリンズの著書
●ジャック・ラカン「2人であることの病」朝日出版社
●中村生雄「祭祀と供儀」法蔵館