福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんに「福聚講・10月高野山・信貴山巡拝記録」をつくっていただきました。その4

2010-10-10 | 開催報告/巡礼記録
午前9時30分、高原先達に従って孔雀堂_御影堂_愛染堂_三昧堂などを回り、御真言を挙げる。そして、表通りに出て浪切不動尊_徳川家霊台_女人堂を訪ね、参拝した。
午後12時50分、中本名玉堂で、昼食をとり、同店のご厚意で、マイクロバスで高野山駅に送られたのである。

この日も、気温は、19.8度と暖かく、汗ばむほどだった。湯北さんと別れ、高原先達一行は、高野山を降り、南海電鉄で天王寺。午後4時45分、JR大和路快速に乗り換えて、王寺駅に着いた。午後5時30分。2代のタクシーに分乗して、目指す信貴山に向かった。途中で岡村氏が大阪に立ち寄ると別れる。。


午後5時40分、大和の名刹といわれる信貴山 朝護孫子寺に着いた。一番最初に、われわれを迎えてくれたのは、張り子の大虎だった。愛嬌のある虎で、この寺のマスコットである。

立派な構えの玉蔵院の宿坊に、旅装を解いた。此処の院主様である野沢密孝師は、高原先達の求聞持行の支具を援助して以来の縁といい、懇切丁寧な歓迎を受けた。院主様自ら、信貴山 朝護孫子寺の沿革や,玉蔵院の縁起を紹介して戴いた。以下に述べる。

「玉蔵院は、鎌倉時代に、興教大師・覚鑁(かくばん)上人が、信貴山に参籠された時、毘沙門天から、摩訶不思議な玉「如意宝珠」を授けられ、この寺に収められたことから、玉蔵院と呼ばれるようになつた。

また、信貴山は、毘沙門天が、我が国で最初にご出現になった霊地で、毘沙門様の総本山といわれる。聖徳太子が、寅の年・寅の日・寅の刻に、毘沙門天を感得し、587年守屋氏を、討伐に行く途中、信貴山に示現して戦勝を祈願して効験があり、討ち果たす事が出来たという。聖徳太子は、自ら毘沙門天を、勧請して、信ずべき、貴ぶべき山=信貴山と名付けて、お堂を建立したと伝えられている。

毘沙門天は、金光明経にも出てくる護国の佛様で、それによると毘沙門天は、怨敵退散、福徳授与、所願成就、鎮護国家の誓願を立てられているという。そして毘沙門経によれば毘沙門様は日に三度福を持て余して焼いているという。人々に福を授けたくとも人々が福を享けるに必要な五種の心を持ってないためである。「五種の心」とは、①父母孝養のため②功徳善根のため③国土豊饒のため④一切衆生のため⑤無上菩提のための心である。此の心をひとびとが持ってないため福を三度も焼いているというのである。しかし信貴山は、古来多くの信者を集め、長い歴史を経て今日に至っている。また、毘沙門天は、七福神の中でも福の多い神様といわれていて、家内安全・商売繁盛・開運長久・心願成就の大般若経の御祈祷が毎日行われている。」
これらの事を、野沢院主様から教えて戴いた。

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