一遍上人
一遍上人は延応元年(1239).2月15日、伊予にお生まれになり、正応2年(1289).8月23日、播磨で死去されています。遍路をしていると一遍上人の旧跡に多く出会い懐かしい方です。
36歳のとき (1274) 四天王寺、高野山に詣でたのち、熊野本宮証誠殿に参籠していたところ,「信,不信をえらばず,浄,不浄をきらはず,その札(念仏札)をくばるべし」という神勅を相承し、念仏賦算の時宗が成立した、とされます。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加しています。建治2年(1276年)には鹿児島神宮で神詠「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶに生まれこそすれ」を受けています。その後、四天王寺、聖徳太子廟、当麻寺、石清水八幡宮、書写山圓教寺、厳島神社、岩屋寺、繁多寺、大山祇神社等まさに神仏一体でお参りを重ねられています。さらに正応2年(1289年)には大山祇神社の社人等にまねかれ再度大山祇神社に参詣し魚鳥の生贄を止めるよう懇請したりしています。その後摂津観音堂(後の真光寺)で旧暦8月23日入滅されました。遊行は15年半に及び、世寿51歳でした。
一遍上人、別願和讃
身を観ずれば水の泡 消えぬる後は人もなし
命をおもへば月の影 出で入る息にぞとどまらぬ
人天善所の質をば をしめどもみなたもたれず
地獄鬼畜のくるしみは いとへども又受けやすし
眼のまへのかたちは 盲て見ゆる色もなし
耳のほとりの言の葉は 聾てきく声ぞなき
香をかぎ味なむること 只しばらくのほどぞかし
息のあやつり絶えぬれば この身に残る功能なし
過去遠々のむかしより 今日今時にいたるまで
おもひと思ふ事はみな 叶はねばこそかなしけれ
聖道・浄土の法門を 悟りとさとる人はみな
生死の妄念つきずして 輪廻の業とぞなりにける
善悪不二の道理には そむきはてたる心にて
邪正一如とおもひなす 冥の知見ぞはづかしき
煩悩すなはち菩提ぞと 聞きて罪をばつくれども
生死すなはち涅槃とは いへども命ををしむかな
自性清浄法身は 如々常住の仏なり
迷ひも悟りもなきゆゑに しるもしらぬも益ぞなき
万行円備の報身は 理智冥合の仏なり
境智ふたつもなき故に 心念口称に益ぞなき
断悪修善の応身は 随縁治病の仏なり
十悪五逆の罪人に 無縁出離の益ぞなき
名号酬因の報身は 凡夫出離の仏なり
十方衆生の願なれば 独りももるる過(とが)ぞなき
別願超世の名号は 他力不思議の力にて
口にまかせてとなふれば 声に生死の罪きえぬ
始の一念よりほかに 最後の十念なけれども
念をかさねて始とし 念のつくるを終とす
おもひ尽きなんその後に はじめおはりはなけれども
仏も衆生もひとつにて 南無阿弥陀仏とぞ申すべき
はやく万事をなげ捨てて 一心に弥陀を憑(たの)みつつ
南無阿弥陀仏と息たゆる これぞおもひの限りなる
この時極楽世界より 弥陀・観音・大勢至
無数恒沙の大聖衆 行者の前に顕現し
一時に御手を授けつつ 来迎引接(いんじょう)たれ給ふ
即ち金蓮台にのり 仏の後にしたがひて
須臾の間に経る程に 安養(あんにょう)浄土に往生す
行者蓮台よりおりて 五体を地になげ頂礼(ちょうらい)し
すなわち菩薩に従ひて 漸く仏所到らしむ
大宝宮殿に詣でては 仏の説法聴聞し
玉樹楼にのぼりては 遥かに他方界をみる
安養界(あんにょうかい)に到りては 穢国に還りて済度せん
慈悲誓願かぎりなく 長時に慈恩を報ずべし