良弁僧正は持統天皇3年(689年)うまれ、宝亀四年(773)閏十一月十六日85歳で遷化とされます。(本朝高僧傳・東大寺別当次第)。奈良時代の華厳・法相宗の僧。八宗要綱には「(華厳宗は)日本に流伝するに道璿律師を以てその始祖となす。律師は香象大師に稟け、律師良弁僧正に授く・・」とあります。東大寺開山。百済系渡来人の後裔。近江あるいは相模出身と伝ります。2歳のときワシにさらわれて,奈良の春日神社のスギの木に捨てられ(元亨釈書等)、その後、義淵に師事して法相宗を学ぶ。728年(神亀5)に聖武天皇の皇太子基親王の冥福を祈る金鐘山房の智行僧の一人に選ばれ,740年(天平12)大安寺審祥を講師として華厳経を講讃,これを聖武天皇が聴講され、金鐘寺が東大寺となり盧舎那大仏造像の地となる機縁となる。初代東大寺別当に任ぜられた。晩年は石山寺造営、相模大山寺造営,773年(宝亀4)閏11月16日入滅。《続日本紀》には「宝亀4年11月24日に僧正良弁卒す」とし,使者を派遣して弔問したと記しています(宝亀四年(七七三)閏十一月甲子【廿四】》○甲子。僧正良弁卒。遣使弔之)。東大寺開山堂には「良弁僧正坐像」(国宝)が安置されています。東大寺では、毎年12月16日を「良弁忌」として法要が営まれ、それに合わせて国宝良弁像や法華堂の秘仏「執金剛神立像」などの秘仏が開扉されるようです。浄瑠璃義太夫に『二月堂良弁杉の由来』があり、歌舞伎にも「良弁杉由来. 二月堂」となっています。伊勢原市の大山寺の開基も言われています。
「本朝高僧傳」「和州東大寺沙門良辨傳 ・・釈良辨。姓浅部氏、相州の人、或るが曰く、百済人、江州志賀の人と。観音に祈りて得る。襁褓に在る時、母出でて桑を採る。児を樹下に置く。大鷲攪去し南都春日祠前に放つ。義淵僧正、神祠に詣でて偶々拾得し之を養ふ。五歳、學に就く。心地英發、一隅を挙げて既に三隅を知る。長髪を具すに及んで法相を以て授く。學解増進、諸部を該貫す。天平五年、聖武帝、添上郡に羂索院を建つ。辨、時に郡に在り、一小院を構ひ安居読経す。一夜執金剛衆光を発して殿を照らす。又誦経の聲宮中に徹す。中使、命を承り聲を跡ねて院に達す。辨曰く、常に聖安を祝して伽藍営を祈る。臣僧愚願恐くは叡慮に達すと。中使、以聞す。帝其の奏を喜び、羂索院を賜ひ宮符粮を給す。造営已に成り、金鐘寺と號す。嘗って大乗心を発し華厳を興さんと願ふ。偶相知感に因り、偶畿内を巡る。舟淀河に泝る。或る人曰く、世にも稀有なこと有り。南都良辨僧正歳丗餘、學は僚輩に超へ、帝師と為って擢す。昔霊鷲の攫ふ所也、義淵僧正収取鞠養す。今国宝成り。母聞きて之を疑ふ。乃ち東大に征き辨の出を伺ふ。書を投げて事を告ぐ。辨曰、我行止、偏に嫗の言の如し。尚拠否有り。母曰く、我昔子無く、之を観音に祈る。而して吾子を得る、因って小像を刻み児の衣頸に繫く、知らず有諸。辨嗚咽して曰く、吾七歳の時、親を思ひ輟む。先師像を以て我に授けて曰く、吾汝を得し時、像衣頸に在り、是父母の繫る所なり。汝父母を思ば此の像を膽禮すべしと。是を以て奉持し未だ嘗て身を離さず。即ち出して母に呈す。母子相得。悲喜泣涙。舎を寺の側に構へ終世孝養す。辨宝亀四年十一月十六日所住に於いて化す。宇陀郡赤尾山林に葬す。春秋八十有五。辨器洪恢、智福両全、大法を聖主及び皇后に付す。又實忠、良興・良慧・忠慧等神足八人あり。各の東大を管し華厳を弘む。
賛じて曰く、大法興るは必ず勝因ありて存す焉。辨公の霊鷲は大経初興の善介なり。而して是れ華厳会上根熟の成す所也。當時金鷲菩薩の称、あるは蓋し又宜當矣」