今日は一粒万倍日 . . . 本文を読む
以下の伝教大師から弟子の泰範にあてた手紙にあります。
弘仁三年812 十月二十七日に伝教大師が奈良よりの帰りに乙訓寺に大師をお尋ねになったことが分かります。交流は細やかであったということです。
「比叡山老僧㝡澄敬白
應に灌頂を受法する事
右㝡澄去月二十七日(弘仁三年十月二十七日)頭陀の次を以て乙訓寺に宿し空海阿闍梨に頂謁す。教誨慇懃具に三部の尊像を示され又曼荼羅を見しむ。倶に高雄に期す。㝡 . . . 本文を読む
今日は花山法皇御生誕の日です。花山院は968年11月29日(安和元年10月26日) に御生誕になっています。冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。17歳で即位19歳で仏門に入り退位しています。大鏡などに御出家のいきさつが書かれていますがそれよりも法皇は西国・坂東・秩父霊場の開祖としての方が有名です。どの霊場 . . . 本文を読む
弘仁三年812十月二十六日伝教大師は弘法大師に金剛頂経の借覧を申し入れています。(例の理趣釈経借覧事件がおこるのは翌年十一月です。)
「弟子 㝡澄和南
奉請本経の事
金剛頂真実大教王経一部三巻
右本経の奉請を為すこと件の如し。来年四月以前に寫し畢りて即ち奉上せん。
敢て損失せじ。 謹みて和南。
弘仁三年十月二十六日 弟子㝡澄状上
乙訓真言院側」(「伝教大師消息」より) . . . 本文を読む
第二十六番 下かげもり 萬松山圓融寺。御堂三間四面南向。
本尊聖觀音 立像御長五寸七分(17㎝) 恵心僧都御作
抑當山は空を凌ぎ雪を挿む高山林木合抱、秩郡に標たり。其道羊腸枝をよぢ岩根を踏で登る。檜ばらの 奥いと闇きに漏來る月日の影を便り、とくとくの雫に渇を助て、仰て石上に踞すれば月宮の桂も折べく 伏て深谷をのぞめば金輪の際も量りつべし。南は武甲山に隣り、西の方龍河山に向ふ。尚 . . . 本文を読む
Q, 魔障が起こった時の対治方法如何?A,修行中も臨終のときも異常現象が何度おこっても心を動かさなければ魔障はそのうち消える。(当方も阿波太龍寺で求聞持を行じた時、深夜本堂の鐸が鳴ったり、廊下に大岩が落ちる大音声が聞こえたり、見たこともない大蛇が御堂の下にきたり、行中に天井で大きな音がしたり,深夜に岩の上で行をしていると後ろで枯れ木を次々踏みしだいてこちらに向かってくる足音がしたりしましたが、其の . . . 本文を読む
第二十五番 久那 岩谷山久昌寺。御堂三間四面東向。
本尊聖觀音 立像御長一尺四寸(42㎝) 行基菩薩御作
今は昔、此久那の巌洞に鬼こもれりとて、あかねさす晝さへ木樵艸刈も行通はず、鳥羽玉の夜は麓の里 も戸を閉て、芦垣の間近き隣にだに音信も無く、恐あへり。斯て年を經たるに、或時行脚の僧來て此山の木立常ならず、定て霊地なるべし、里人に嚮導せよと云へば、あなおそろし命二つもてらん人社 . . . 本文を読む
第二十四番 しらきやま光智山法泉寺。御堂三間四面南向。
本尊聖觀音 立像御長七寸一分(約70㎝) 作者不知
原夫當山は、毘盧遮那の佛勅に依て、加賀の白山を勸請せしとぞ。本尊も彼山より現來し給へり。熟其來由を尋に、越の大徳泰澄常に加賀の白山に詣ん事を欲し給へど、未時至らずや有けん、彼此と障る事有て志願をとげ給はず。然るに霊亀二年(716)天女現て、明年加州白山の岑に至るべしと告さ . . . 本文を読む
第二十三番 をがさか松風山音樂寺。御堂五間四面南向。
本尊聖觀音 立像御長一尺六寸(48㎝) 慈覺大師御作
當山の原始は、天長年中(9世紀)慈覺大師關東所々の霊地を開闢し給ふ折から、此地の不常をみ給まひ、此尊像を彫刻し給ひ、路を開きて堂宇を建させ給ふ時、余多の小男鹿來て案内し奉りし故、小鹿坂の名有。其後數百歳を經て、亨徳二年癸酉(1453)、諸州逆浪起て浪煙天を焦げる時、このあ . . . 本文を読む
第二十三番 をがさか松風山音樂寺。御堂五間四面南向。
本尊聖觀音 立像御長一尺六寸(48㎝) 慈覺大師御作
當山の原始は、天長年中(9世紀)慈覺大師關東所々の霊地を開闢し給ふ折から、此地の不常をみ給まひ、此尊像を彫刻し給ひ、路を開きて堂宇を建させ給ふ時、余多の小男鹿來て案内し奉りし故、小鹿坂の名有。其後數百歳を經て、亨徳二年癸酉(1453)、諸州逆浪起て浪煙天を焦げる時、このあ . . . 本文を読む
高野春秋に
(延喜二十一年十月)「二十三日、天皇、中納言扶閑卿(注1)及び観賢僧都をして檜皮色装束幷に袙蔑子鞋等特大師号諡号の勅書を斎持して往かしむ。」
なおこれに先立つこと七日、観賢が大師号を求めることを乞ています。「高野大師御廣傳」には「・・至醍醐天皇御宇時、延喜十八年十月十六日。権大僧都法眼和尚位観賢。請賜諡号大師位・・」とでてきます。
(注1)扶閑卿・・藤原扶幹?
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「高野春秋」「(治安三年1023)「冬十月二十二日、御堂殿下登御。是れ所謂咸夢已来、拝殿及び御廟橋造替、幷に今般真金法華経手寫墨書理趣経丗巻を納め,之を供養して往生覩史の直因と為んと欲する也。御法事法華八講、導師は三井寺心譽僧正、翌日理趣三昧、導師検校峯杲、着座權中納言時光、僧綱延寿、供奉一長者濟信、別当相輿、供奉僧定基、永昭律師、教圓僧都也。政所河南地を以て永く國役を停め寺定の賜 . . . 本文を読む
秩父三十四観音霊験記圓通傳 巻第四
第二十二番 西陽山榮福寺。御堂五間四面南向。
本尊聖觀音 立像御長一尺九寸(58㎝) 弘法大師御作
當山は人皇五十三代淳和天皇の西の院と申奉る御弟、三品式部郷伊豫親王事に坐せられ、河原寺に出て餓死給ひし御菩提を祈給はんが為(伊予親王の変。伊予親王は、桓武天皇の第3皇子。母は右大臣藤原是公の娘・藤原吉子。平城天皇に対する謀反の . . . 本文を読む
祈ることそれ自体がもはや結果
古来祈願は叶えないケースが多いことは確かです。いつの世も人々は祈りに懐疑的になります。しかし結論は「祈り続けさえすれば確かに霊験はある」「祈ること即結果である」と云う事です。
四国61番香園寺中興の祖・山岡瑞円師の本「人格的生活をめざして」(昭和8年香園寺子安遍照会発行)に、師が荒れ果てた寺で肺病に伏せっていて「仏が人を救うなどとそんなことがあるも . . . 本文を読む
最近色々な人のケースを見ていると道のごみ一つを拾うことができるのも、電車で妊婦さんに席を譲ることができるのもましてやボランチア活動ができるのも先祖の遺徳・導きでできるだということに気が付きました。先祖、父母が善行をしている家庭ではそれが子孫に伝わって子孫も善行をできるようになっているのです。先祖の遺徳で子孫は善行もできるのです。突然善行ができるわけではありません。つまり先祖の遺徳・導きがないと善行 . . . 本文を読む