徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

阪急電車あれこれ ⑧ ー節税か、脱税かー

2016年04月16日 19時35分59秒 | 鉄道のよもやま話

今月14日以来、M5以上の地震が熊本や大分で多発しています。
地震の怖さと不安は、経験した者しか分からない恐怖心があります。
一刻も早い復興を願い、被災者の方々にお見舞い申し上げます。

    ◇    ◇    ◇

阪急電鉄が所有していない阪急電車があることをご存じでしょうか・・・
今、阪急は、話題になっているタックスヘイブンを活用して、鉄道リース会社のエスアンドエイチ(S&H)レイルウェイに車両を売却しています。

    阪急8300系

8300系は8000系違いは、車両長さ19㍍に対して、18.9㍍と違うのは地下鉄堺筋線に乗り入れることを考慮してとのことだけではなく、それ以外に、この8300系は阪急が所有していない車両という大きな違いがあります。

元々は阪急の所有なのですが、8300系84両の全車両をエスアンドヘィチレイルウエイに売却したために、阪急の所有ではありません。
このエスアンドエイチレイルウェイは、ケイマン諸島にある英国領にあり、法人税や所得税の制度がありません。

     


ここに売却することで一時的に多額の利益を得ることが出来、車両が阪急の固定資産ではなくなり減価償却も不要となります。

エスアンドエイチレイルウエイに支払うリース料は全額経費となり、資金調達と節税を同時に実現できます。

これが、節税というのか、脱税というのか、考えが分かれるところですが、法的には問題はないと言われています。
しかし、これが多くの会社で同じように節税という名目で行うと、本来、日本政府に入る税金が少なくなり、このため一般国民に負担がかかるとなれば、本末転倒です。
世界で問題されているように、阪急だけではなく、これらを利用する多くの企業や富裕層に、禁止か何らかの制限することを法的に決めることが望まれます。

なお、阪急がこれほどの資金(売却費用102億円と言われています)が必要としたのは、ある傘下の企業(中堅ゼネコン企業)への金融支援のためと言われています。

           * この記事には、一部推測のところがありますので念のために申し添えます。


阪急電車のあれこれ  ⑦ 意外性と不思議 -その2-

2016年03月22日 09時15分59秒 | 鉄道のよもやま話

京都本線、宝塚本線、神戸本線がそれぞれ並行して走っている梅田~十三間は、私鉄では唯一の三複線区間です。
ここの不思議は、この梅田~十三間には、中津駅がありますが、京都本線だけには中津駅がありません。
そこを出ると淀川を渡りますが、京都本線だけが橋梁が高くなっています。

     
   元々新京阪線だった京都ー淡路ー天神橋が阪急京都線となり、後日淡路ー十三間、千里線が
   出来ました。

 

長く不思議とは思っていても深く調べることはなかったのですが・・・
その謎を知るには、この三複線区間が出来た経緯を知らなくてはなりませんでした。

まず京都本線ができた経緯から離さなくてはなりません。
大正時代末期は、梅田~十三間には、神戸線は宝塚線の線路を併用する形で運行されていました。
しかし、輸送量が増加してきたため、新しく神戸線の専用軌道を増設されることとなり、1925年(大正15年)に宝塚線と神戸線が独立路線となりました。

その後、新京阪線が阪急京都線となると宝塚線に乗り入れる形で京都線と宝塚線が併用されてきましたが、それも昭和になると乗客需要に追いつけず、新しく京都線を独立させる計画となりました。

  
   1段高くなった京都線           右には宝塚線の中津駅、左は京都線が通過


しかし、工事に入る前の1953年(昭和28年)大阪を襲った台風13号で、計画を大幅に見直されることになりました。
つまり、当初、台風で氾濫することはないと思われていたのが、この台風で新淀川を始めその支流が同時に氾濫し、付近一帯、大参事を引き起こし、新淀川のの水面が従来より予想より高くなり、新橋梁は増水に備えて1.8㍍高く設定されることになり、その上、他の2路線より、この地盤が軟弱なため、工事は難航しました。

このようにして、他の2路線より高い橋梁が出来たのが、1959年(昭和34年)でした。

では、この京都線に中津駅を作らなかったのは、なぜでしょうか。
それは、簡単なことでした。
つまり、駅を設置するだけの土地がなかったということです。
それでなくとも、神戸線や宝塚線の中津駅も、実に狭く、特急が駅を通過するにも徐行しているほどです。

 


阪急電車のあれこれ  ⑥  意外性と不思議 ーその1ー

2016年03月09日 09時08分26秒 | 鉄道のよもやま話

前回に阪急電鉄の日本初について述べましたが、前回以外にも世界初もあります。
自動改札機の導入は、世界初だそうです。
1967年(昭和42年)千里ニュータウンの北の玄関口として開業した北千里駅に設置されました。

  
  世界初 自動改札機は”北千里駅”      歩く歩道は日本初 阪急梅田駅コンコース内
                      


梅田駅の「動く歩道」は、自動改札機が導入された同じ年に、日本初としてお目見えしました。
これにも理由があり、阪急梅田駅は、JR大阪駅の北側に追いやられ、南側にある阪急百貨店とのアクセスが悪く、利用する乗客の負担を低減させる配慮からと言われています。

阪急電車には、毎日乗っている人でも、案外知られていない意外な面があります。
電車内の吊り広告は、乗客にとって情報を得ると同時に暇つぶしにもなっているところがあります。
色々な吊り広告のなかに、阪急電車には、週刊誌の広告がないことをご存じでしょうか・・・



      
     吊り広告の費用 平日7日間 1450枚で B3で約120万円 期日によって価格はマチマチ。
  吊り広告以外の車内広告の提示場所は、色々ありますが、費用もマチマチ、効果もマチマチ?   

 

1週間ごとに代わる週刊誌の吊り広告は、収入源として魅力のあるものですが、阪急電車は、ふさわしくないとして一切、週刊誌の吊り広告はしていません。
というのも、沿線には、小学校を初めとする多くの教育施設があり、他にも阪急が誘致した住宅街、娯楽施設、商業施設があり、公序良俗に反する内容が含まれ、電車内という公共の場にふさわしくないということで阪急電車では週刊誌の吊り広告はしていません。
 


阪急電車のあれこれ ⑤  沿線の開発で乗客増を図る

2016年02月29日 19時45分27秒 | 鉄道のよもやま話

創業当時の沿線は、大阪梅田から有馬の温泉と箕面の滝を結ぶということで出発しました。
沿線には、これといった観光地も行楽地もありませんでした。
なければ、作るというのが小林一三の取り組みでした。

明治43年(1910年)箕面有馬電気軌道が開始されると、その3か月後には池田市に分譲住宅の販売を行っています。
日本で初めて開発された分譲住宅の販売です。
その後も桜井、豊中、西宮北口、岡本など次々と住宅街が経営され、阪急沿線にふさわしい住宅都市を形成し、乗客を増やしてゆきました。

  
   現 宝塚大劇場と阪急電車今津線         1930年頃の大劇場公演  


他にも日本で初めてがあります。
明治44年5月には、宝塚駅に宝塚新温泉つくると、大正3年(1914年)には宝塚唱歌隊(後の宝塚歌劇団)による公演を開始した。

   
 2012年 阪急ビル 地上12階地下2階が阪急百貨店   1929年 創業当時の阪急百貨店


 
   
  現在(2015年12月撮影)の阪急中央コンコース     2005年頃の中央コンコース 



昭和4年(1929年)4月には梅田駅に日本発のターミナル・デパートの阪急百貨店を開業しました。

このように、鉄道事業を中心とした、住宅街、商業施設、娯楽施設などを経営し、相乗効果で利益を上げるという手法を取りました。
この手法は、他の私鉄各社の手本ともなりました。
東京急行電鉄の創業者 五島慶太がが、小林の商法を取り入れ、田園調布に住宅地を開発し、東横百貨店(現・東急百貨店)を渋谷に開業しました。

特に阪急の場合は、やみくもに手を広げたわけではなく、イメージを大切にし、高級感を維持しながらサービスを追求しました。

だからこそ、いまだに阪急沿線一帯は、関西の人々に高い支持を受けているようです。
 


阪急電車あれこれ ④ ー社名の変遷ー

2016年02月14日 10時22分37秒 | 鉄道のよもやま話

1907年(明治43年)3月10日に箕面有馬電気軌道という社名で梅田~宝塚間と石橋~箕面間で運輸営業を開始しました。

   
     開業時の切符                  開業時の路線図   




当時専務として小林一三が次に目をつけたのが神戸でした。
灘循環電気軌道が持つ西宮~神戸間の線路特許を阪神電鉄と競合の上獲得した箕面有馬電気軌道は、これによって阪神間の都市輸送を得たことから、1918年(大正7年)に社名を阪神急行電鉄と変更しました

            

ここに「阪急」という名前の由来が生まれました。

1936年(昭和11年)三宮まで延伸し、実質的に梅田~三宮(神戸)間が開通し、今の神戸線が完成しました。

その阪急が京都まで路線を伸ばしたのは、1943年(昭和18年)十三~京都西院までの路線を持つ京阪鉄道と合併し、社名を京阪神急行電鉄とした時です。

ここに、京都~大阪~神戸の三都市を結ぶ総延長220㌔㍍の路線が誕生しました。
もともと京阪の路線だった新京阪は、阪急京都線となり大阪・梅田を拠点にほゞ現在の路線に近い営業路線となりました。

1973年(昭和48年)4月1日、「阪急電鉄」に社名を変更し、それまで略称としていた「阪急」が正式に社名となりました。

  
  新型1000系 2013年神戸線  1000系と共通設計の1300系 2014年京都線

その後、2005年4月1日、阪急ホールディングスと社名を変え、翌年には阪神電気鉄道と合併(については当ブログの阪神電鉄あれこれを参照)して、阪急阪神ホールディングと社名を変更しました。

 


JR西日本を主にダイヤ改正を見る・・・・

2016年02月10日 19時12分17秒 | 鉄道のよもやま話

来る3月26日、全国のJR各社は、例年通りダイヤ改正が行われます。
目玉は、北海道新幹線、新青森~新函館北斗間 開業に伴うダイヤです。
先日、青函トンネル内で停電し、トラブルを起こしました。 先行きが案じられますが・・・
東京~新函館北斗間を4時間2分で、4時間を切ることが出来ませんでした。

  
                                  北海道新幹線のロゴ 

 

この北海道新幹線の開業に伴い上野~札幌間の寝台特急「カシオペア」が運転取りやめとなります。
上野発が3月19日、札幌発は3月20日の列車が最終運転となります。

北陸新幹線「はくたか」の一部の列車の所要時間が短縮され、東京~金沢間の3時間6分が3時間4分になります。

北海道新幹線の2分を縮められないのに対して、北陸新幹線が2分短縮すること、ダイヤの難しいところなのでしょう。

  
   北陸新幹線                    特急「はるか」 

 

 

特急電車では、「サンダーバード」が1往復増発、「はるか」は、昼間時間帯に6往復増発し、新しいホームが完成した高槻駅に一部の列車が新規停車します。

その他、JR神戸線は、新駅が開業します。
灘駅と六甲道の間に普通停車の「摩耶駅」、姫路と御着の間には快速と普通が停車する「東姫路駅」が開業します。

 

  
       摩耶駅                       東姫路駅  

また、JR京都線、神戸線の新快速と快速の運転間隔の均等化や深夜時間帯の関西空港から大阪駅方面へ、今まで天王寺駅止まりを大阪駅まで伸ばすなどアクセスが改善されます。
これって外国人が増えている関係での処置なのでしょうか・・・


阪急電車のあれこれ ③ - 歴史と小林一三 -

2016年01月29日 10時35分30秒 | 鉄道のよもやま話

創業100年を2010年(平成22年)に迎えた阪急電車の歴史は1907年(明治40年)から始まりました
その時は箕面有馬電気軌道として創立され、その3年後の1910年3月10日、梅田~宝塚間と石橋~箕面間の運輸営業を開始しました。

なぜ、ここに鉄道を施設したのでしょうか?
これは、阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)が国有化されるということで、その株主たちが代替路線とすべく事業を立ち上げたことに起因します。

その時は、大阪と有馬、箕面を結ぶ予定でしたが、思うように資金が集まらず、それを救ったのが、阪鶴鉄道の監査役だった小林一三でした。

    
    小林一三 (阪鶴鉄道専務のころ)
          明治43年の梅田停留所  

 

小林一三は、1873年(明治6年)1月 山梨県に生まれ、青春時代は文学青年として新聞社へ就職しました。
が、その望みが叶わず現在の三井住友銀行(当時の三井銀行)に転職し、ここで運命を変える出会いがありました。

その人物は、岩下清周で、彼は、ここの三井銀行を辞め北浜銀行を設立した人物で、その薦めで証券会社の支配人になります。(明治40年)
所が、ここも気が進まず、再び岩下清周に阪鶴鉄道入りを薦められ、ここで腰を落ち着けます。

  
    明治43年ころ 神崎川を渡る        宝塚停留所  


新会社設立の資金が集まらなかったところ、小林は、北浜銀行に株式の大部分を引き受けさせ、自身はその新会社箕面有馬軌道の専務となり、手腕を振るい、数々の新事業をも起こし、今日の阪急電車の基礎を築きました。

  

  昭和9年6月に切り替える前の梅田停留所 現在はJRが高架を走っていますが、当時は阪急が高架で 
  した。 この切り替え工事には、国と色々と問題が起こりましたが・・・            
  当時、この工事の指揮を取った小林は会長となっており、61歳でした。             



その間、社名も何度か変え、路線を増やし、沿線に住宅街や宝塚歌劇場、世界初のターミナルデパートなどを造りました。
その間のいきさつなどは後日に・・・


阪急電車のあれこれ  ② - マルーン色 -

2016年01月18日 13時33分16秒 | 鉄道のよもやま話

多くの私鉄の車体の色は、多彩な色彩を競っていますが、阪急電車は前身の箕面有馬電気軌道時代から、一貫して守り続けているのが、車体の色です。

その色を見ただけで、阪急電車とすぐに認識できます。
その車体の色が「マルーン」です。
これはフランス語の「マロン」の英語表現で、気品のある濃い赤茶色のことです。
栗色、あづき色、チョコーレート色、焦げ茶色、ワインレッド等々と言われ、いずれも阪急のブランドイメージの「阪急マルーン」と言われています。

このマルーン色の車両が初めて登場したのは、箕面有馬電気軌道時代の1910年(明治43年)のことで、梅田~宝塚間、石橋~箕面間の開業時に投入された「I型電車」でした。

  
  創業時の車両 I 型              創業時の車内   

 

この時、小林一三がこだわったのは、電車は単なる移動手段ではなく、乗客がくつろぐ居心地の良い空間であるということでした。
それには、まず外観からして見た目の高級感を出すことでした。
その色が「マルーン色」だったのです。
そして、特急も普通車も同じ色で、乗客によって差別しないということを現しているのです。

内装も木の質感にこだわり、温かみのある空間を演出し、座席には毛足の長いゴールデンオリーブ色のパイル織物を採用するなど細部にこだわり抜いた車両をつくり上げました。

この小林一三のこだわりが100年以上も受け継がれてきました。
それには、沿線の支持が強くあったこともこの色が続いた理由でもあるのです。

  
   新型車両 1000系           1000系の車内   

車両をステンレスボディを採用しようと検討された時、このことを聞きつけた沿線住民から抗議運動が起こり、結局、変更の話は沙汰やみになったということです。
つまり、これだけマルーンが沿線の住民に愛されていたと言うことなのでしょう。


                 阪急梅田駅 ”阪急マリーン”が勢揃い



阪急電車のあれこれ  ①  ーダイヤモンドクロスの思いー

2016年01月15日 20時22分35秒 | 鉄道のよもやま話

昨年は阪神電車のあれこれを書きました。
今年は、阪急電車について書いてゆきます。

昔、阪急電車沿線には住んでいませんでしたが、阪急電車については、色々と思い出があります。
一番の印象は、西宮北口のダイヤモンドクロスです。
神戸線と今津線とクロスするときの電車の音が、電車好きの一つの要因になったのかも知れません。

  
    当時のダイヤモンドクロス                 その時の線路と駅の配置

 

あまり頻繁には行かなかったのですが、あのリズミカルな音が聞けると思うと何かワクワクした覚えがあります
それも1984年(昭和59年)に、このダイヤモンドクロスはなくなりました。
というのも、乗客数の増加に伴い、神戸線を10両編成にするためにはホームを拡張しなくてはならず、立体交差や地下での交差も検討されたようですが、西宮車庫からの入出庫など電車を止めずに工事をするには、スペース(宝塚方面の土地の取得が出来なかった)や技術的な問題があったようです。
つまり、最終的には設備投資の費用対効果が悪いと判断したのでしょう。

  

  
       下方が宝塚方面行き 上方が今津行き
             現在の西宮北口駅 線路図               今津線 北 宝塚方面行きホーム

そこで分断というあまり乗客の利便性などを考えると良くない方法となりました。
現在、今津線が分断され、神戸線ホームと今津線(北)線ホームは橋上駅であるが、今津線(南)は1つのホームで、そこは高架駅となっています。

 
           
  今津線 南 今津方面行きホーム                 旧 阪急社章

 

阪急の印象は、このダイヤモンドクロス以外にも阪急電車の車両の色とか小林一三のことなどあれこれ思いつくまま書いていきたいと思います。

  
      現在の西宮北口駅構内図                      現在の阪急社章

 


 


阪神電車のあれこれ -7-

2015年12月09日 16時58分18秒 | 鉄道のよもやま話

今まで、阪神電車の成り立ちから、村上ファンド問題について書いてきましたが、今回は本来の車両について書きます。
戦後の阪神電車は、新性能開発の歴史でもありました。

まず、日本鉄道界における新性能車の先駆けとして、特急用大型高性能車3011形が、1954年(昭和29年)に発表されました。
3011形は、阪神初の大型車(長さ約19m、幅2,8m)で且つ日本鉄道界における新性能車の先駆けでした。

軽量張殻構造車体、カルダン駆動方式(モーターを車体に釣り振動が少ない)クロスシートとか車内空調など新技術が多くありました。

    
   3011形                    ジエットカー   

「ジエットカー」の愛称を持つ各駅停車用高性能車5001形が1958年(昭和33年)に登場します。
当時、日本最高加速度(加速4.5キロ/時/秒 減速5.0キロ/時/秒)を誇っています。
これは、阪神電車路線の駅間が短く、同時に普通車の特急・急行の待機待ちが多く加速性が必要だったことがあり、前にも書きましたが、これが「待たず乗れる」のキャッチフレーズが生まれた要因です。

1959年(昭和34年)には、ステンレスカーのはしりである普通系量産車5201形が登場しました。

  
  ステンレスカー             現在の阪神電車車両        


1982年(昭和52年)には、日本で最初の全車両冷房車となりました。

今は、阪神電車本線の全線立体交差化に向けて工事中で、踏切のなくなる日も近いことでしょう。

  
         甲子園駅改造 2016年(平成28年)に 完成予定

  甲子園駅~武庫川駅間の連続立体交差化工事は2018年(平成30年)完成予定。