徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

大阪の地名と成り立ち ⑩ -船場ー

2010年01月25日 11時00分20秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

商人の町を代表するところが、「船場」です。
昭和34,5年ごろ、まだ白黒テレビだった頃に、視聴率が60%を超えたコメディが、この船場を舞台に制作され、これで船場という地名が全国区になったのです。

毎日放送制作の「番頭はんと丁稚どん」がそれで、船場の商家における家族関係や主従関係、そして商いの仕組みや考え方、伝統や風習、言葉つかいなどを、お笑いと涙の人情喜劇です。
ここで強調されたのが、信用の上に築かれた商売でなくてはならないということで、船場の商人哲学が、誰にでも分かるように演じられていました。

  
   「船場センタービル」 屋上は、高速道路、東大阪線が走っています。

船場という地名は、豊臣秀吉の大阪城築城によって生まれました。
大阪城の掘割で掘り出された大量の土砂は、大阪城の上町台地の西側の低湿地帯に埋め立てられ、そこに新たに造成されたのが「船場」だったのです。

北は土佐堀川、東は東横堀川、南は長堀川、西は西横掘川に囲まれた地域で、船場という名前の由来は、諸説あります。
船着き場説、戦場説、洗馬説、千波説、などがあるのですが、特定は出来ないようです。

「船場」が「繊維問屋の町」として賑わい始めたのは、大阪紡績株式会社(現 東洋紡)が明治15年(1882年)に操業を開始してから、綿花を扱う業者が続々と船場に集まり、「船場八社」と総称される有力糸商が軒をつらね活況を呈し、繊維関連の取引が急増しました。

今、この地で代表的な建造物に「船場センタービル」があります。
この商業ビルは、大阪市を東西に結ぶ幹線道路の「中央大通り」に沿う形で、地下には、市営地下鉄中央線が、そして屋上には、阪神高速13号東大阪線が走っています。

       「綿業会館」

もうひとつ、船場を代表する建物があります。
三休橋筋に面して建つ「綿業会館」で、ルネッサンス風の歴史的建造物で、2003年に重要文化財に、また2007年には近代化産業遺産に指定されています。
1931年に「日本綿業倶楽部」として建てられたものです。


大阪の地名と成り立ち ⑨ -十三(じゅうそう)-

2010年01月22日 16時02分30秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

どこの地方でも、その土地独特の呼び名の地名があるものです。
大阪も例外ではなく、大阪以外の人には読めない地名や駅名があります。
「十三(じゅうそう)」もその一つなのではないでしょうか?

「放出」、「喜連瓜破」、「私市」、「柴島」、「弥刀」、「土師ノ里」、「上牧」などがそうですが、どれだけ読めますか?  (正解は、最後に記載しています)

「十三」の地名の由来は、条理制説、渡し説、堤説、十三塚説、重蔵説があります。
条理制説は、古代の条理制では土地を細かく方形に区切られ、条と里の単位で配列されていました。 ○○郡○○条○○里○○坪と表記され、十三は、西成郡の十三条にあたっていたからと考えられていました。
しかし、今の十三の地域は淀川の河口であり、当時は湿地帯で田んぼを整備するような所ではないと思われます。
川の堤防が出来たのが明治29年以降だそうで、それまで川が氾濫すればなすままになっていたと考えられ、古代に整備されていたとは到底考えられないのではないでしょうか?

渡し説は、淀川の上流から数えて「十三番目」の渡しがあったから。
堤説は、十三とは淀川の堤防のことで、もとは十三(つつみ)と呼ばれていたから。
十三塚説は、戦国時代の武将を供養する「十三塚」が建立してあったから。
重蔵説は、淀川の対岸に重蔵(=十三)という名の長者が、船をつないだ場所だから。
どの説が有力か、決定的なものはありません。

   
  阪急電鉄 十三駅 左から 神戸線 宝塚線 京都線のそれぞれの駅表示

十三と言えば、戦前は、淀川の北岸沿いに武田薬品を中心として大小の工場が集まっていました。
戦後は、阪急電鉄の駅があり、特に駅の南西部には飲酒店、パチンコ店などの歓楽街を形成しています。
「十三駅」
は、阪急電鉄の重要な駅で、京都本線、宝塚本線、神戸本線の3線が梅田を出ると、十三駅でそれぞれに分かれている分岐点です。

冒頭の読みは、下記の通りです。
「はなてん」「きれうりわり」「きさいち」「くにじま」「みと」「はじのさと」「かんまき」
 


大阪の地名と成り立ち ⑧ -御堂筋ー

2010年01月20日 11時29分25秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

今日20日は、「大寒」です。
一年で一番寒い日と言われているのですが、今日の気温は大阪では16℃と予報されています。
この気温は、昨年の平均気温では、3月末から4月の初めの気温なのです。
つい2,3日前は、氷点下の日もあったことを思えば、最近の気温の変化は、例年以上に大きいようです。  

ちなみに、年平均気温で最高気温の最低値は8.7℃、最低気温の最低値は、1.9℃です。これは2月3日ごろまでで、それ以降は、上昇してゆくのですが、2月3日は節分、2月4日は立春で、この頃までは、なんやかやと言っても、寒い日が続くようです。

  
     現在の御堂筋                  
 開通時の御堂筋

大阪の代表的な道路と言えば「御堂筋」しかないというほど、有名です。
大阪をモチーフとした歌では、圧倒的に御堂筋が多いそうです。
それだけに、御堂筋が「大阪の顔」なのでしょう。

この「御堂筋」は、第7代の大阪市長 関 一氏で、御堂筋が完成したのが、昭和12年(1937年)のことです。
大正末から昭和初期にかけての大阪は、人口、面積、工業生産額において東京を上回る全国一の都市でした。
この最盛期に市勢拡大を図り、地下鉄の建設、大阪湾の整備拡充、中央卸売市場の開設、全国初の自治体立大学(現大阪市立大学)の創設等々、現在の大阪の基盤を築いたといっても過言ではありません。

反対に云えば、これ以降の市長さんがあまりにも、大阪の発展に寄与出来なかった、否しなかったのではないかと思わざるを得ません。

交通運輸の円滑化、交通量の増大を見越して建設されたもので、江戸時代には「淀屋橋筋」と呼ばれる道幅6mの狭いものを、43.6mに拡大しました。
梅田から難波まで、全長4027mで全6車線の幹線道路で、その下には地下鉄を並行して建設しました。

   
  
 地下鉄工事        昭和8年ころ、阪急百貨店の左が梅田停留所

大阪の地下鉄は、東京に次いで建設されたのですが、公設としては、全国初です。
梅田、心斎橋間が昭和8年に、難波までは昭和10年に完成しました。
同時に、電柱を全部地下に埋めました。

ところで、「御堂筋」の御堂は、どこから云われるようになったのでしょうか?
本願寺津村別館(北御堂)が提供した境内地に道路を通したことで、難波別院(南御堂)と沿道に面し、北御堂と南御堂を結ぶことから「御堂筋」と幹線全体の名称となったそうです。

その上、道路の両方の建物を百尺(約31m)の高さ制限を設けたことで、外観は整然とした道路となり、関市長がパリなどを模範としたということです。
平成7年(1995年)には、建物を4m後退することを条件に軒高50m、最大高さ60mまでに緩和されました。

御堂筋は、日本の道100選の一つで、二つの国道で繋がっています。
梅田阪神前から梅田新道までが国道176号線、梅田新道から難波西口までが国道25号線です。 なお、梅田新道では、東側からは、国道1号線の終点となり、西側への国道2号線の始点でもあります。

御堂筋のイチョウ並木の黄葉は、大阪の秋の風情として、まさに大阪のシンボルです。


大阪の地名と成り立ち ⑦ -坂から阪へー

2010年01月18日 08時54分11秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

いつから、大坂が大阪に変わったのでしょうか?

大阪駅が、当初は堂島が建設候補地だったことは、以前に述べました。
地元の反対や土地買収の費用不足などから、地価の安い梅田に築かれたのですが、この時の名称が「大阪停留所」と記載されてあったそうです。

江戸時代の多くの書物には「大坂」と書かれていました。
いつから「大阪」に統一されるようになったのか、はっきりしないのが実情なようです。

  昨年11月に描きました。
                              ”柿” F6号        

江戸時代後期には、すでに「坂」は不吉な文字とされて、一部には「阪」が使われていたそうです。
これは、文化5年(1808年)刊行の「摂葉落穂集」などにも「阪」が書かれ、不吉とは「坂」を分解すると「土(つち)」に「返る」となり、死を想像させるというものです。

地名表記が統一管理されるようになったのは、明治以降で、それまでは、字の読めない人も多く、耳で聞いた音が重視されたので、表記はかなり自由だったのです。
その流れが明治になっても引き継いでいたのですが、明治10年代中頃には「阪」に統一されたようです。

その理由は、未だにはっきりしないのですが、公印に「阪」が使われたから、これに右へならえしたという説や「坂」が「士族の反乱」のイメージがあるからだとも、諸説あります。
「士族の反乱」のイメージとは、これも「坂」を分解すると「士(さむらい)」が「反す」となるというものです。
これらは、あとでこじつけた解釈なのではないでしょうか?

いずれにしても、「大阪」と固定化されたのは、明治10年代だったろうということで、はっきりした意味合いは分からないというのが実情なようです。


大阪の地名と成り立ち ⑥ -なにわから大坂へー

2010年01月17日 08時33分59秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

昨年からの続きです。
大阪一帯が「なにわ」と呼ばれたのは、以前に「難波宮」のことで書きましたので、大体のことは、読んで頂ければ、お分かりのことと思います。

では、その「なにわ」がいつから、なぜ「大坂」になったのでしょうか?

おおよそ、「大阪城」を築いた秀吉が、この城を「難波城」ではなく「大坂城」と名付けたのかが、キーワードとなるのではないでしょうか?
この時の「大坂城」は「阪」ではなく「坂」でした。

しかし、それより以前の明応5年(1496年)に、浄土真宗の中興の祖と呼ばれる「蓮如」が文に「大坂という所在は、住吉より・・・・」と書かれ、蓮如がこの年に建立したのが石山本願寺となり、浄土真宗の本山となりました。

この石山本願寺が勢力を増大するに従い、小さな範囲でしかなかった「大坂」が、広域範囲を「難波」に代わって「大坂」が一般に取って代わっていったものと思われています。

  昨年2月23日撮影 ”大阪城”

「大坂」の地名の起こりについては、上町台地の坂を意味していた「大江の坂」と呼ばれていたことに由来されるという説や書物によっては「小坂」とか「尾坂」とか書かれ「おさか」と読まれていたこともあったのですが、「大坂」の地名に「大きな坂」の意味はないのではないのでしょうか?

織田信長と10年以上もの戦い続けた石山本願寺は、天正8年(1580年)に敗北して焼失しました。
2年後に信長は本能寺で亡くなりましたが、「大坂」の地勢を絶賛していた信長の意思を継いで、秀吉は石山本願寺跡地に城を築き、ここを「大坂城」と命名することで、主君信長に抗い続けた本願寺勢力を完全に制圧したことを広く世に知らしめる意味もあったようです。

ここに「なにわ」が「大坂」に完全に移行したのです。
(この内容は、主にベスト新書、若一光司氏著の「大阪地名の由来を歩く」を参照しました。)

 


今 梅田は・・・・

2009年12月26日 15時10分37秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

 昨日、所要があり梅田にでました。
JR大阪駅周辺や阪急百貨店は、変貌の真っ最中です。
あらゆる所が、工事中で、行くたびに通路は迷路になっているようです。

大阪駅の工事もいよいよ佳境に入り、駅を覆いかぶさるドームも姿が見えてきたようです。
下記の写真は(11月末現在の大阪駅の様子)、”ゴリモンな日々”から拝借させて頂きました。

  
                                                                      完成予想図

   新北ビルのロゴ

詳しくは、下記からご覧ください。 
http://gorimon.com/blog/sb.cgi?month=200911

昨日の様子は下記の通りです。僕が撮れる範囲での撮影ですので、あまり上手くは撮れていませんが・・・・・

  
   アクティ大阪の大丸 増床工事     北ビルを、阪急歩道橋から

  
  阪急百貨店、建て替え工事の北棟        阪急百貨店のコンコース
  阪神百貨店とつながる歩道橋から    天井は、コンクリートがむき出しです。

大阪駅の新北ビルは平成23年春(2011年)に竣工予定。
ドームは、2011年冬の竣工予定。
 大阪駅開発プロジェクトのHPは、
  http://www.2011osaka.com/ 

阪急百貨店は、1年遅れの2012年にグランドオープンだそうです。

 http://www.h2o-retailing.co.jp/gp10/tatekae.html


大阪の地名と成り立ち ⑤ -ナンバ2-

2009年11月28日 16時54分13秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

昭和10年(1935年)に梅田・難波間に地下鉄が、その2年後に御堂筋が開通したことによって、難波は急速に発展し、難波や道頓堀、心斎橋にかけての繁華街一帯を「ミナミ」と呼ばれ、大阪有数のにぎわいを誇っています。

「ミナミ」という呼称は、江戸時代初期からあったようで、当初は島之内界隈のみであったものが、江戸中期に道頓堀周辺が含まれ、大正期には千日前、昭和になって難波周辺が発達しました。

江戸中期に道頓堀が出来、その道頓堀川の両岸に芝居小屋とか遊所が出来、この一帯は、これ以降上方芸能を中心とした歓楽地として多くの人を集めるようになりました。

  
  道頓堀にかかる橋 戎橋から。     ナンバの新名所 なんばパークス
  今宮戎に通じる橋でこの名前が。    かってここに難波球場がありました。

道頓堀の歴史は、安井道頓が秀吉から下賜された土地の開発のために、堀を造ったことから始まります。
その道頓の死亡し、後を継いだ従弟の安井道卜(どうぼく)らが、元和元年(1615年)に道頓堀を完成させました。
道卜は、さらにここ周辺に市街地を建設し、芝居小屋や遊所を誘致し、最盛期には、歌舞伎が六座、浄瑠璃が五座、その他、小屋などが十数座がひしめくほどの、芸能街に成長しました。

道頓堀の北岸には宗右衛門町、南岸には九郎右衛門町の花街などを形成してゆきました。
この「宗右衛門町」は、道頓堀の開削に功績のあった山口屋宗右衛門の名に由来します。
「そうえもんちょう」が本来の呼称なのですが。大阪人は「そえもんちょう」と呼んでいます。

  
  ミナミの象徴的であった新歌舞伎座    法善寺横丁にある水掛不動さん
 今は、取り壊しを待つばかりに。       かって千日念仏を行ったので、ここを
                            千日前と呼ばれるようになりました。

心斎橋は、この橋をかけた岡田心斎から、この名がつけられたそうです。
ちなみに、道頓堀五座と呼ばれた浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座はすべて姿が消し、芸能の街ではなくなったのですが、その代りに、「食い倒れ」という名前のとおり、おびただしい飲食店やド派手な看板が密集し、大阪の食道楽の名前と活力を感じさせる街として、今でもあり続けています。


大阪の地名と成り立ち④ -ナンバ①-

2009年11月24日 17時11分58秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

大阪の呼称の「なにわ」について書いてきました。
ここで、気になるのは「なにわ」「なんば」、どう違うのでしょうか?

大阪を「浪速」とか「浪花」とか呼んできましたが、それらが「難波」と同じなのでしょうか?

大阪を代表する繁華街は「キタ」と「ミナミ」の2地域があります。
御堂筋の北端には梅田の周辺が「キタ」、南端には”なんば”や”道頓堀””心斎橋”の周辺を「ミナミ」と呼んでいますが、どちらも明確な境界線はありません。

大阪人からすれば「ミナミ」は「ざっくばらんな庶民的な街で原色の似合うラテン系」に対して「キタ」は「すこしすましたビジネス的な街で中間色的で都会的」というイメージです。

 

 「難波(なんば)駅」は6つあります。
南海、近鉄、JR、地下鉄御堂筋線、同四ツ橋線、同千日前線、の6路線で、すべて
ナンバと呼びます。近鉄は大阪難波駅と呼んでいます。

これらのターミナル駅がある場所は、「難波(なんば)」を冠した住居表示となっています。
このあたりは、昔、旧西成郡難波(なんば)村だったのが大阪の古称である「難波(なにわ)」の漢字表記が、いつか自然に「なんば」と読まれるようになったのではと思われます。(ベスト新書、若一光司著、大阪、地名の由来を歩く を参照しました)

ここは江戸時代は、摂津国西成郡難波村で下難波村と上難波村に分かれていました。 上難波村は今の南船場に位置し、下難波村は、東横堀川、長堀川以南の島之内にあったのですが、元禄時代に合併したそうです。

江戸時代の呼称は、ナンバであったと思われ、それが漢字の「難波(なにわ)」にあてはめられたのではないかというのが、一般的なようです。

万葉集には、「那爾波(なにわ)」とか「奈爾波」とか書かれているのですが、これを「ナンバ」と呼ぶのには無理があるとも言われています。

  

神戸は、兵庫では「こうべ」、三重県では「かんべ」、鳥取では「かんど」、岡山では「ジンゴ」とか「コウト」とか「ゴウト」とか訓(よ)む地方もあります。

同じ「ン」でありながら「m」「n」音を聞き分けることは、日本の自然なみやびなのかも知れません。
近鉄の大阪難波駅の駅標板は「NANBA」ではなく「NAMBA」となっています。

言葉というものの伝達は、口コミがほとんどであり、そこに方言などが入り混じり、地方によっては、違う発音に変化していったものと思われます。
「なんば」も「なにわ」も漢字から長い年月をかけて、表現が入り混じってきたのかも知れません。
言語学者でもありませんので、違っているかも知れません。


大阪の地名と成り立ち ③ -難波宮③-

2009年11月22日 10時45分39秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

なぜ、難波と呼ぶようになったのか、諸説があります。

前回には、この語源を「日本書紀」の「神武東征伝説」にこの地を浪速と名づけ、それが訛って変化して「難波」になったという説を書きました。

「古事記」には、「浪速の渡」と記されているのが、起源とも言われています。

その他に、「魚の豊富な漁場である大阪湾を<魚庭(なにわ)>と表現したのがはじまり」という説もあります。
「魚」は昔、「いお」とも呼ばれ「副食物としての魚」という意味では、「魚(な)」であり、漁場を庭と考え「魚庭(なにわ)」となったと云うものです

こんな考えもあります、難波の「ナ」は古代朝鮮語で「太陽」を表しており、「ニハ」は朝鮮語で「口、門、出口」という意味なので、「難波」とは「日の出る場所」という意味になります。
奈良時代以前に日本の中心は、大阪であったという考えから出ています。
つまり、日本の歴史の始まりは「日下(くさか)」にあるというものなのです。
大阪市の東にある東大阪市に「日下」という地名があります。
「日下」をなぜ「くさか」と読むのかとの説の中に、その考えの起源があります。

ある民族研究家によれば、「ヒノモト」は「草香」にかかる枕詞だったのではないかということから、「ヒノモトの草香」という云い方をしていたと考えられています。

「日下」は、太陽が昇るまさに「下」の位置のあり、下は、「もと」とも読めるので「ひのもと」と読み、それが転じて「ひのもと=日本」となったというのです。

現在の大阪が「日の出る場所」であり、それが「難波」と呼ばれたとになります。

 


大阪の地名と成り立ち ② -難波宮②-

2009年11月18日 11時30分11秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

大阪の人は、古くは、大阪にも都があったことをご存じの方も多いのですが、他府県の方には、あまり御存じのない方もおられるようです。

でも、その都が2度も大阪にあったということは、案外大阪の方でもご存じないのではないでしょうか?

でも、この説も案外不確かなものなのですが・・・
最初に都があったのは、大化の改新直後に孝徳天皇によって築かれたというもので、この時に築かれた都は「前期難波宮」(長柄豊崎宮)と言われ、日本古来の建造物と想像されておりますが、都として実体を備えていたのか疑問視されています。

しかし、実際に長柄とか豊崎という地名は、大阪駅の北側から淀川あたりにありますが、その後の調査では、前期難波宮跡も、現在の難波宮跡公園とほぼ同じ場所とされているそうです。

その1世紀後の天平16年(744年)に恭仁京(くにきょうー京都府木津川市)から、再び?大阪の地に都が遷され、これを「後期難波宮」と呼ばれています。

  今日の絵は、「京都 永観堂の多宝塔」です F8号

この天平年間は、災害や疫病がはやり、聖武天皇は、たびたび遷都を行っており、難波宮も1年ほどで紫香楽宮(しがらきのみやー滋賀県甲賀市)から平城京へと都が戻されました。

そもそも、この地を古くから「難波」と呼ばれたのは、どうしてなのでしょうか?
その根拠とされているのが「日本書記」の「神武東征伝説」なのだそうです。
そこには・・・・
「まさになにわ崎にいたるとき、速き潮ありてはなはだ急きに会いぬ、よって浪速国となす。また浪華という。いま難波という」という記述があることが、由来とされています。

他にも多くの説があります。
それについては、次回に述べます。