都道府県庁の所在地としてどのようにして決められたのでしょうか?
その主流は、城下町と天領が中心に決められました。
最も多数を占めるのが、県内最大の城下町が選ばれました。
23都市がこのケースです。
大分は、幕末は小藩であったのですが、大友宗麟の居館があったので選ばれたそうです。
岐阜も尾張藩領だったのですが、かっては、織田信長の居城のあった城下町でした。
天領では、東京や大阪、京都は当然重要都市として決められたと思われますが、静岡や甲府は、元大名領であったが、移転等で天領になっていました。
奈良、横浜、新潟、大津、神戸、長崎などの天領の諸都市も、単に幕府領だったと言うだけではなく、近隣の天領支配の中心的都市という性格を持っていました。
例えば、大津代官所は近江国内各地に散在する天領を監督しており、その組織がそのまま県庁へ移行しました。
水彩画2008年の作品
”昼下がり” F8号
奈良に対する大和郡山、大津に対する彦根、神戸に対する姫路といった選択肢もあったようです。
これら、大きな藩の城下町、天領の重要都市というケースには、いずれも全県的な交通の要所にあり、また県の公共施設としての使用可能な建物も多かったので、スムーズに県政がスタートしたようです。
それ以外には、統廃合に際して地域間バランスをとるために決められた場合や他に有力な候補があったにも関わらず、県庁としての建物がないために県庁にならなかったところもあります。
前者の都市には、青森、千葉、宮崎など、後者は高崎、浦和、長野などです。
こうして決まった県庁所在地は、明治17年の栃木県庁の宇都宮移転以降は、変更されたことがありません。