日々の恐怖 2月28日 大阪の夜の雨
5年前の夏です。
雨の夜でした。
残業が長引いて、私は人通りもない帰り道を急いでいました。
近道の路地に入ると、年老いた風の男女二人連れが、ゆっくりとこちら側へ向かってきました。
お爺さんが銀色の自転車を押し、その後ろからお婆さんがお爺さんに傘を差しかけて、自分は少し濡れながら歩いています。
譲り合ってようやく傘同士がすれ違えるような狭い路地なので、私は立ち止まって道を譲りました。
するとお爺さんが、
「 ○○病院はどこかいな?」
と私に尋ねてきました。
ここに長く住んでいる私でしたが、心当たりの病院がありません。
困って後ろのお婆さんを見ると、片手を拝むように目の前にした後、私が歩いて来た方を指差し、もう一度拝むように頭を下げました。
“ ああ、このお爺さんはきっと少し呆けているんだな。
そういえば、着ているものもパジャマみたいだし・・・。”
そう思って私は、お婆さんの指差すまま、
「 あっちです。」
とお爺さんに告げました。
「 おおきにな。
あっちやな。
ホンマに、オカンは何さらしとんのや。
オカンおらへんかったら、ワシ道全然分からへんがな。
ホンマおおきに。」
ブツブツ言いながらお爺さんは歩き出し、お婆さんはまた私にお辞儀をしながら後に続きました。
“ きっと呆けてしまって、奥さんがついて来ている事にも気がつかないのだ!”
何となく可哀想に思えて、何気なく振り返ってみると、そこにはお婆さんしかいませんでした。
お爺さんも、自転車も、どう目を凝らしても見えないのです。
その路地は大きな工場の裏手で、どこにも隠れるところはありません。
雨の夜とは言え、シルバーの自転車とネルっぽいパジャマだけを着たお爺さんを、見失うわけもありません。
お婆さんは傘を何も無い空間に差しかけて、自分は肩を濡らしたままゆっくりと歩いていきます。
その姿が路地の角を曲がって見えなくなるまで、私は怖くて動けませんでした。
童話・恐怖小説・写真絵画MAINページに戻る。
大峰正楓の童話・恐怖小説・写真絵画MAINページ