芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

見えない放射能には、神経が麻痺

2011年06月12日 | Weblog
ヴィザを発給する側の領事部が求めるavailabilityとundertaking について、そういわれたと言う、ヴィザ業務をする外郭団体の女性事務員は、たどたどしい日本語で、その両語の説明をするのであるが、よくわからなかったので、一応、私が理解したつもりのことを大学にメールした。
私自身は、私の履歴書をヴィザ申請用紙と共に提出しているが、その履歴に基づいて大学が選んだ理由がいる必要だと言うのが、availabilityであり、undertaking は、大学が私を責任を持って引き受けるということらしい。しかし、大学が私に着いてどこまで責任を持つべきかなど、細かいことは判らないから、今度言った時に、領事部と直接話してもらうしかないのではないか。
日本でも国内で外国人を雇う時に、そのような引き受け書を提出して入国を許可してもらっているのかどうか判らない。入国管理局かなんかに聞けば判るかもしれない。
放射能禍は、福島だけの問題のように矮小化されて、その周辺の都道府県は放射能値は人体に安全かのような報道が毎日なされているが、蓄積量が量られていない。だから、静岡のお茶ののような放射能値が出て来るのだ。同じ宮城県人として気になるのは、福島原発から直ぐ近くの仙台湾にある松島の牡蠣が放射能汚染していないかどうかである。石巻女川も同じであるが、その辺の沖合の放射能値を測らずに、漁業復旧などあり得ないのではないか。水揚げした魚から高放射能値が出たというのでは、復興どころか復旧しても無駄になる。原発という人災をいつまでも放置していては、放射能が垂れ流され続けるので、先ず、来年のことではなく、強権でそれを直ぐ止めるべきであろう。垂れ流させておいて、電力に原発が必要という原発族の議論では、普通一般人には許せないのではないか。