昨日、日本山妙法寺にオリッサ出身のインド人と結婚して住んでいる日本人女性に会わせると、学長が車を用意してくれたので、先ず、その車でセーワグラムのマハートマー・ガーンディーの住んでいた家に案内して貰い、ガーンディーとそのあとからきたカストゥルバ夫人の住んでいた家を見た。ここに来るのはこれで3回目である。
それから、日本山妙法寺に行ったが、その女性は日本に帰っていて留守であった。この境内も広くかつ立派で、ここを訪れるのは、去年の9月以来二回目である。その前、1969年に来たときは、まだこの寺もストーパもなかったが、熱心な日蓮宗の坊さんが町中をうちわ太鼓を叩いて廻っていたので、それについて一緒にうちわ太鼓を叩いて歩いた。ささい上人といったか。69年の三月頃に来た時は、ヒンディー語科の大学後輩で清君という学部の学生とインドをカルカッタからコモリン岬を経てここに来たのであった。
やはり、ヒンディー語科出身の清好延氏は、当時カルカッタの三菱商事支店にいて、食事をご馳走になった縁で、3月11日の地震で避難した時にたまたまその葬式に出席したので、その弟にあたる清君とは久しぶりに会えた。
その清継延君は、お兄さんのいるカルカッタから帰国して新日鉄に勤めたと聞いたが、もう退職しているようだ。
それから、日本山妙法寺に行ったが、その女性は日本に帰っていて留守であった。この境内も広くかつ立派で、ここを訪れるのは、去年の9月以来二回目である。その前、1969年に来たときは、まだこの寺もストーパもなかったが、熱心な日蓮宗の坊さんが町中をうちわ太鼓を叩いて廻っていたので、それについて一緒にうちわ太鼓を叩いて歩いた。ささい上人といったか。69年の三月頃に来た時は、ヒンディー語科の大学後輩で清君という学部の学生とインドをカルカッタからコモリン岬を経てここに来たのであった。
やはり、ヒンディー語科出身の清好延氏は、当時カルカッタの三菱商事支店にいて、食事をご馳走になった縁で、3月11日の地震で避難した時にたまたまその葬式に出席したので、その弟にあたる清君とは久しぶりに会えた。
その清継延君は、お兄さんのいるカルカッタから帰国して新日鉄に勤めたと聞いたが、もう退職しているようだ。