2013/06/16
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばの知恵の輪・色の世界(7)色の形は色即是空
「色」は古今集には、それこそ「いろいろと」出てきます。
(紀貫之) 君恋ふる涙しなくは 唐衣むねのあたりは色燃えなまし古今集572
(紀貫之)色もなき心を人にそめしより うつろはむとは思ほえなくに古今集729
(小野小町)色見えでうつろふものは 世の中の人の心の花にぞありける古今集797
平安の「ふみ交わし合う仲」の恋人たちは、相手の顔を見るまえに、まず相手の「色好み」はどんなふうか、手紙の紙の選びよう、文字の散らしよう、添えてある枝や花の色具合、すべてから推測します。好みがあうとわかってOKならば、顔も知らないまま、まずは会う。「会う」とはすなわちベッドイン。会っての後に、もっと恋しくなるかどうかは、相手しだいでした。相手の「色好み」と合わなければ、それっきり「後朝のふみ」もぞんざいになるのです。
「色好み」というのも若い人には伝わらない和語になっています。平安時代の色好みと江戸時代の色好みはだいぶニュアンスが違っていますが。
もとの漢字「色」とは、どのような意味をあらわしていたのでしょうか。
小学生向けに象形文字の成り立ちなどを教える漢字の本が出版されています。
私は、留学生向けの「漢字のもとの形」を示し英語で説明が書かれている参考書を利用しています。「鳥」という漢字は、こういう鳥の絵からできている、とか、「美しい」という漢字は、羊の顔の絵から出来上がった「羊」と「大きい」を組み合わせて、古代の中国人にとって「羊が大きいこと」が「うつくしい」ことであったとか説明しています。
「色」の解説には、あれま、説明をどうしようと一瞬考えてしまいました。
「色」という漢字の語形のもとになった絵は。
「男と女が、後背位で重なり合う姿」だったのです。下の巴は、ひざまずいている人、上のクのところはその上に覆い被さっている人です。
「色」の意味説明、英語解説では、第一義が「Sex」
小学館『現代漢語例解辞典』の説明では「ひざまずく人の上に人がいるさまで、男女間の情欲の意をあらわす」とあります。大修館の『現代漢和』では「ひざまずく人の形。ひざまずく人の上に人があるさまから男女の情愛の意味を表す。転じて顔色、いろどりの意味を表す」
甲骨文字では、人の姿には見えないですけれどね。元の絵文字はちゃんと人が重なり合ってみえました。
ウィキショナリの引用。
女子高校で平安古典文学など学んでいたころ、先生は「色好みというと好色のことかと短絡する人もいるだろうが、そうではない。色好みとは、恋愛の情趣をよく解することを言うのだよ」と強調していました。「色好み」を「風流・風雅な方面に関心や理解があること」という典雅な意味合いのほうに引き寄せていました。
そして、「情事を好むこと。また、その人。好色漢」とか「遊女などを買うこと」という、江戸文学ではおなじみの意味のほうはスルーされました。女子高校生にとって、そっちの方が重要だったのに。
6月13日木曜日の漢字の授業で、「色」を教えたとき、「あえて」字源にはふれずに書き順の説明、音読み訓読みの熟語の説明で先に進もうとしたら、オーストラリアのジェイさんは「先生、恋人たちの説明もしてください」と、字源の説明を要求しました。「This kanji represents two lovers hold each other. It also shows the color of love showing on their faces,so it become used to mean colore.」という英文解説をすでに予習していたのでした。
「あらま、お望みとあらば」と、わかりやすい絵文字にして説明したら、日本人女性と結婚しているジェイさんは満足げに書き取りをはじめ、未婚の美人タジキスタン人は顔を赤らめていました。
授業で実際に「色」の解説をしたのは、今回が初めてだったのです。いつもは書き順だけ説明したら、さっさと先に進みます。
はい、この字の訓読みは「いろ」です、colerをふたつ重ねると、「いろいろな」になって、many colows=various。various flowerは、「いろいろな花」です。なんてことで終わりにしてきたのですが。
ま、全員成人のクラスですし、ジェイさんのほか、チュニジアの学生はセネガル人と結婚しているので、問題はないでしょう。昨今の授業ではうかつな発言はソッコー「セクハラ発言」と見なされるので、学生が自分から言い出すまで「あなたは結婚していますか」と訊ねることもできません。結婚しているかどうかというプライバシーに関することはこちらからは聞けないのです。モンゴルの学生は子どもがふたりいる母親であることを自分から話してくれたので、問題なかったですが、未婚の女性に結婚の話題は
、本人が言い出さない限りタブーです。
岩波古語辞典(2版)では、色の語釈として「もとは色彩、顔色の意。転じて美しい色彩、女の容色。それに惹きつけられる性質の意から色情、その対象となる異性、遊女、常任。また色彩の意から心のつや、趣、様子、きざしの意に使う。別に仏教用語の色(シキ)形相の翻訳語」とあります。この語釈は、「色彩という意味がもとになって男女の情愛という意味が派生した」という解釈です。平安古典文学などから語義を解釈するとそうなるのでしょう。
しかし、江戸時代の「色好み=男女の情交」というほうが、「色」という漢字の原義には忠実だったのです。
漢字の原義を知ってみると、もともとは「後背位で重なり合う男と女」だったものが、のちに「いろどり」「色彩」を表すようになった、というほうが本当だと思います。
さて、仏教用語の「色即是空」は、般若心経に出てくる経文のなかで、もっともよく知られ流布した語句のひとつです。
「色(シキ)」は、「万物、この世にあるすべて」を表す語です。
(大辞泉)この世にある一切の物質的なものは、そのまま空(くう)であるということ
(大辞林)この世にあるすべてのもの(色)は,因と縁によって存在しているだけで,固有の本質をもっていない(空)という,仏教の基本的な教義(岩波国語)この世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空であり普遍のものではないという意味
(岩波古語)物質的存在はみな、因縁によって生じたもので、本来そのままの実有ではない。
「色」を重ねた「いろいろ」がいつごろ成立した語なのかは、調べていませんが、「いろいろ」と言う語は、万葉集にはすでに「さまざまな色彩」という意味で使われています。
大伴家持の長歌。長いので、最後の二行だけ読んで下さい。
(万葉集4254)蜻蛉島 大和の国を 天雲に 磐舟浮べ 艫に舳に 真櫂しじ貫き い漕ぎつつ 国見しせして 天降りまし 払ひ平げ 千代重ね いや継ぎ継ぎに 知らし来る 天の日継と 神ながら 我が大君の 天の下 治めたまへば もののふの 八十伴の男を 撫でたまひ 整へたまひ 食す国も 四方の人をも あぶさはず 恵みたまへば いにしへゆ なかりし瑞 度まねく 申したまひぬ 手抱きて 事なき御代と 天地 日月とともに 万代に 記し継がむぞ やすみしし 我が大君 秋の花 しが色々に 見したまひ 明らめたまひ 酒みづき 栄ゆる今日の あやに貴さ
反歌4255: 秋の花 種々(くさぐさ)にあれど色ごとに見し明らむる今日の貴さ
「我が大君 秋の花しがいろいろに 見したまひ」というのは、我が大王が、秋の花が色とりどりに咲いているのを見て~」という意味。
古今集の「いろいろ」
詠み人知らず 縁なるひとつ草とぞ春はみし秋は色々の花にぞありける
『源氏物語・澪標』には、「いろいろ」が「さまざまな、あれこれの」という意味で使われています。光源氏が明石にわび住まいし、住吉の神様にさまざまな祈りをささげる、という場面
「君は、夢にも知りたまはず、 夜一夜、いろいろのことをせさせたまふ。まことに、神の喜びたまふべきことを、し尽くして、来し方の御願にもうち添へ、ありがたきまで、遊びののしり明かしたまふ。」
古典にあらわされる「いろいろ」も、ほんとうにいろいろです。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばの知恵の輪・色の世界(7)色の形は色即是空
「色」は古今集には、それこそ「いろいろと」出てきます。
(紀貫之) 君恋ふる涙しなくは 唐衣むねのあたりは色燃えなまし古今集572
(紀貫之)色もなき心を人にそめしより うつろはむとは思ほえなくに古今集729
(小野小町)色見えでうつろふものは 世の中の人の心の花にぞありける古今集797
平安の「ふみ交わし合う仲」の恋人たちは、相手の顔を見るまえに、まず相手の「色好み」はどんなふうか、手紙の紙の選びよう、文字の散らしよう、添えてある枝や花の色具合、すべてから推測します。好みがあうとわかってOKならば、顔も知らないまま、まずは会う。「会う」とはすなわちベッドイン。会っての後に、もっと恋しくなるかどうかは、相手しだいでした。相手の「色好み」と合わなければ、それっきり「後朝のふみ」もぞんざいになるのです。
「色好み」というのも若い人には伝わらない和語になっています。平安時代の色好みと江戸時代の色好みはだいぶニュアンスが違っていますが。
もとの漢字「色」とは、どのような意味をあらわしていたのでしょうか。
小学生向けに象形文字の成り立ちなどを教える漢字の本が出版されています。
私は、留学生向けの「漢字のもとの形」を示し英語で説明が書かれている参考書を利用しています。「鳥」という漢字は、こういう鳥の絵からできている、とか、「美しい」という漢字は、羊の顔の絵から出来上がった「羊」と「大きい」を組み合わせて、古代の中国人にとって「羊が大きいこと」が「うつくしい」ことであったとか説明しています。
「色」の解説には、あれま、説明をどうしようと一瞬考えてしまいました。
「色」という漢字の語形のもとになった絵は。
「男と女が、後背位で重なり合う姿」だったのです。下の巴は、ひざまずいている人、上のクのところはその上に覆い被さっている人です。
「色」の意味説明、英語解説では、第一義が「Sex」
小学館『現代漢語例解辞典』の説明では「ひざまずく人の上に人がいるさまで、男女間の情欲の意をあらわす」とあります。大修館の『現代漢和』では「ひざまずく人の形。ひざまずく人の上に人があるさまから男女の情愛の意味を表す。転じて顔色、いろどりの意味を表す」
甲骨文字では、人の姿には見えないですけれどね。元の絵文字はちゃんと人が重なり合ってみえました。
ウィキショナリの引用。
女子高校で平安古典文学など学んでいたころ、先生は「色好みというと好色のことかと短絡する人もいるだろうが、そうではない。色好みとは、恋愛の情趣をよく解することを言うのだよ」と強調していました。「色好み」を「風流・風雅な方面に関心や理解があること」という典雅な意味合いのほうに引き寄せていました。
そして、「情事を好むこと。また、その人。好色漢」とか「遊女などを買うこと」という、江戸文学ではおなじみの意味のほうはスルーされました。女子高校生にとって、そっちの方が重要だったのに。
6月13日木曜日の漢字の授業で、「色」を教えたとき、「あえて」字源にはふれずに書き順の説明、音読み訓読みの熟語の説明で先に進もうとしたら、オーストラリアのジェイさんは「先生、恋人たちの説明もしてください」と、字源の説明を要求しました。「This kanji represents two lovers hold each other. It also shows the color of love showing on their faces,so it become used to mean colore.」という英文解説をすでに予習していたのでした。
「あらま、お望みとあらば」と、わかりやすい絵文字にして説明したら、日本人女性と結婚しているジェイさんは満足げに書き取りをはじめ、未婚の美人タジキスタン人は顔を赤らめていました。
授業で実際に「色」の解説をしたのは、今回が初めてだったのです。いつもは書き順だけ説明したら、さっさと先に進みます。
はい、この字の訓読みは「いろ」です、colerをふたつ重ねると、「いろいろな」になって、many colows=various。various flowerは、「いろいろな花」です。なんてことで終わりにしてきたのですが。
ま、全員成人のクラスですし、ジェイさんのほか、チュニジアの学生はセネガル人と結婚しているので、問題はないでしょう。昨今の授業ではうかつな発言はソッコー「セクハラ発言」と見なされるので、学生が自分から言い出すまで「あなたは結婚していますか」と訊ねることもできません。結婚しているかどうかというプライバシーに関することはこちらからは聞けないのです。モンゴルの学生は子どもがふたりいる母親であることを自分から話してくれたので、問題なかったですが、未婚の女性に結婚の話題は
、本人が言い出さない限りタブーです。
岩波古語辞典(2版)では、色の語釈として「もとは色彩、顔色の意。転じて美しい色彩、女の容色。それに惹きつけられる性質の意から色情、その対象となる異性、遊女、常任。また色彩の意から心のつや、趣、様子、きざしの意に使う。別に仏教用語の色(シキ)形相の翻訳語」とあります。この語釈は、「色彩という意味がもとになって男女の情愛という意味が派生した」という解釈です。平安古典文学などから語義を解釈するとそうなるのでしょう。
しかし、江戸時代の「色好み=男女の情交」というほうが、「色」という漢字の原義には忠実だったのです。
漢字の原義を知ってみると、もともとは「後背位で重なり合う男と女」だったものが、のちに「いろどり」「色彩」を表すようになった、というほうが本当だと思います。
さて、仏教用語の「色即是空」は、般若心経に出てくる経文のなかで、もっともよく知られ流布した語句のひとつです。
「色(シキ)」は、「万物、この世にあるすべて」を表す語です。
(大辞泉)この世にある一切の物質的なものは、そのまま空(くう)であるということ
(大辞林)この世にあるすべてのもの(色)は,因と縁によって存在しているだけで,固有の本質をもっていない(空)という,仏教の基本的な教義(岩波国語)この世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空であり普遍のものではないという意味
(岩波古語)物質的存在はみな、因縁によって生じたもので、本来そのままの実有ではない。
「色」を重ねた「いろいろ」がいつごろ成立した語なのかは、調べていませんが、「いろいろ」と言う語は、万葉集にはすでに「さまざまな色彩」という意味で使われています。
大伴家持の長歌。長いので、最後の二行だけ読んで下さい。
(万葉集4254)蜻蛉島 大和の国を 天雲に 磐舟浮べ 艫に舳に 真櫂しじ貫き い漕ぎつつ 国見しせして 天降りまし 払ひ平げ 千代重ね いや継ぎ継ぎに 知らし来る 天の日継と 神ながら 我が大君の 天の下 治めたまへば もののふの 八十伴の男を 撫でたまひ 整へたまひ 食す国も 四方の人をも あぶさはず 恵みたまへば いにしへゆ なかりし瑞 度まねく 申したまひぬ 手抱きて 事なき御代と 天地 日月とともに 万代に 記し継がむぞ やすみしし 我が大君 秋の花 しが色々に 見したまひ 明らめたまひ 酒みづき 栄ゆる今日の あやに貴さ
反歌4255: 秋の花 種々(くさぐさ)にあれど色ごとに見し明らむる今日の貴さ
「我が大君 秋の花しがいろいろに 見したまひ」というのは、我が大王が、秋の花が色とりどりに咲いているのを見て~」という意味。
古今集の「いろいろ」
詠み人知らず 縁なるひとつ草とぞ春はみし秋は色々の花にぞありける
『源氏物語・澪標』には、「いろいろ」が「さまざまな、あれこれの」という意味で使われています。光源氏が明石にわび住まいし、住吉の神様にさまざまな祈りをささげる、という場面
「君は、夢にも知りたまはず、 夜一夜、いろいろのことをせさせたまふ。まことに、神の喜びたまふべきことを、し尽くして、来し方の御願にもうち添へ、ありがたきまで、遊びののしり明かしたまふ。」
古典にあらわされる「いろいろ」も、ほんとうにいろいろです。
<つづく>