2013/06/20
ぽかぽか春庭@アート散歩>春庭の現代ゲージツ入門(3)会田誠vs児童ポルノ被害と性暴力を考える会
ゲージツと障害者問題というのは、近年では、「日本てんかん協会による筒井康隆への抗議、筒井の断筆宣言」が一番有名であるけれど、ほかにもいろいろあったのだろうと思います。
筒井の『無人警察』が問題であるのは、第一に角川書店編纂発行の『高校国語Ⅰ』に収録された文章であった、という点だと私は考えます。国語教科書という「生徒が自分では選択できない本」に掲載し、この作の読解がカリキュラムに入れば、生徒はこの文章を読まないでいる自由がない。選択の自由のないところが問題なのであって、てんかんについての記述がどうであるかは、筒井の文筆家としての力量の問題です。
今回の「児童ポルノ被害と性暴力を考える会」が取り上げた、会田誠の「犬」シリーズや食用人造人間美味ちゃんシリーズも、見たら不快に感じる人は必ずいると思います。不快に感じる人もいるであろうことが想定されている絵画として制作されているのですから。
犬(雪月花)シリーズより「雪」(見ようと思う人だけ、以下のサイトへ)
http://blog.goo.ne.jp/nipponianipponn/e/b011f52efc5559c4337cad0084a5196d
この作品を見ようと思わない人でもつい見てしまう可能性のある、テレビコマーシャルとか、渋谷駅前交差点の上の電子広告板に出したら、非難するのもわかる。しかし、今回は、作品は基本的に見たい人だけが入場する美術館での公開であり、しかも18禁部屋という分離した展示室を設けての展示です。
「ポ~考える会」は、美術館という公共的空間での公開がけしからぬ、という主張をしています。この「18禁部屋隔離展示」という措置に対してまで文句をつけたいのであるなら、それは検閲の思想と変わりない。芸術への規制は、思想検閲への第一歩になると、私は危惧します。
「ポ~考える会」にそんな検閲権力があるとは思わない。この会に所属する大学の講師をしている先生方も、それくらいはわかっていての行動だろう。つまり一連の抗議行動は、この会の知名度を上げる目的があった、というなら、私も納得です。
本気でこれらの絵を「児童ポルノである」、と断定するなら、それは、5月29日に議員立法(自民・公明両党と日本維新の会)により衆議院に提出された「児童ポルノ禁止法」改正案が、とめどなく「出版、表現の規制」になだれ込もうとしていることに、手を貸すだけの結果に終わる。
また、公的な場所である美術館での公開はけしからぬというなら、クールベの「眠り」やバルチュスの「ギターのレッスン」などのきわどい表現の芸術作品に対して、これまで「世間様」がとってきた態度と同じことだ、というだけですんでしまう。
クールベ「眠り」

バルチュス「ギターレッスン」

会田誠は「わだばバルチュスになりたい」というタイトルのパロディっぽい絵を描いています。
バルチュスは、インタビューにこたえて、1930年代のヨーロッパ美術界に物議をかもした絵を発表したことに関して「ヨーロッパで有名になるには、スキャンダラスであることが重要だった」という意味のことばを述べています。(2001芸術新潮6月号)
会田誠が「バルチュス」になりたいと言うとき、たぶん、絵の技法やら主題やらを踏襲したいなんぞということではなく、「絵がスキャンダルをまきおこすほど、絵を見て貰える機会がふえる」という単純なことが一番に来るだろうと、私は思います。
だとしたら、「ポ~考える会」による非難は、大歓迎のスキャンダル。会田自身にデメリットはないスキャンダルだからです。
私は、作品の表現に関して、出版や上演を法的に排除することには賛成しない。
法で規制を始めたら、とめどなく思想・表現の検閲になだれ込んでいく。それが国家というものだから。
私たちは、「近代国家」という共同体の在り方をもう一度考えなければならないところまで来ているのに、「振り出しに戻る」みたいな検閲に手を貸したくない。
こんなささやかな文章でも、誤解する人もいるので、「児童ポルノ」を肯定しているのではないことは明言しておきましょう。表現、思想や出版の自由について述べている。
会田誠の作品を非難する論評の報道に関して、「ポ~考える会」へのさまざまなマスコミ報道が出ました。ポ~会側と美術館側、両者の主張を同比重で扱うという態度を取ったところ、美術館側に添っているところ、「ポ~考える会」側に立つところ、それぞれでした。
サヨクっぽいとされる出版物のうち、「週間金曜日」は、「ポ~考える会」に立っての編集。「ポ~考える会」と性暴力問題に論陣を張る落合恵子との関わりがあるのかもしれない。AERAは、「現代の肖像」で取り上げて、会田を持ち上げている。AERAは売れりゃいいんだろうけど。
さて、この勝負、いまのところ森美術館の勝ち。一連の報道のおかげで展覧会の知名度があがり、森美術館は、開館以来最高の入場者数を記録しました。消費社会では、売れたもんは正義。
美術作品に抗議するなら、「ポ~考える会」側も、椹木野衣レベルの美術批評ができる人をそろえて論戦張るべきところ、ちょっと論述が雑駁すぎた。むろん、抗議するのは言論の自由で、どんどんケチつけたらよい。ただ、ケチの付け方が粗雑であれば、そのケチくささは自分へと跳ね返る。
「ポ~考える会」への反論として出された会田の言い分。会期中は森美術館への配慮なのか、おとなしい発言のみ。
会田誠ツィッター「だんまりを決め込むつもりはありません。必要とあらば出向き、誠心誠意お答えするつもりです」
同「『犬』は『お芸術とポルノの境界は果たして自明のものなのか?』という問いのための試薬のようなものです。問いをより先鋭化するため、切断や動物扱いという絶対悪の図像を選択しました。多くの人が指摘する通り、このたびの喧々囂々の議論は、最初から作品に内在していたものでしょう」
このツx-トを見た限りでは、「ポ~考える会」は、会田誠の「最初から作品に内在していた試薬」を顕在化する役割をまんまとおわされた。会田誠の望んでいた「外在化」を果たしてあげだのだと言えます。
会期終了の3月31日以後、会田誠からさらなるリアクションがあるのか、と期待していたのですが、特に一般の話題になるような反論、私は見ていません。
会田誠は本人が主張しているように天才です。天才を相手にするには、「ポ~考える会」の面々、ちょいと役者が小粒すぎた、というのが、私の感想です。
脚注として、「ポ~考える会」の主張をコピーしておきます。
「これらの作品は、残虐な児童ポルノであるだけでなく、きわめて下劣な性差別であるとともに障がい者差別でもあります。このようなものが、同人誌にこっそり掲載されているのではなく、森美術館という公共的な美術館で堂々と展示され、しかも、各界から絶賛されているというのは、異常としか言いようがありません。すでにNHKの「日曜美術館」で肯定的に取り上げられ、最新の『美術手帖』(2013年1月号)では特集さえ組まれています。
私たちは、森美術館に対して1月25日付で抗議文を送付するとともに、多くの団体・個人と協力してこの問題を広く世論に訴えていきたいと考えています。またこの問題を国際的にも訴えていきたいと考えていますので、みなさんのご協力を求めたいと思います。」
今回の会田誠VS「ポ~考える会」の試合、博物館美術館がどのような作品を収集し展示するのかということの法的根拠「博物館」法に照らして、また、美術館博物館と学芸員の社会的責任やら倫理観にてらして、「アウトと受け取る人もいようが、ぎり、セーフ」ってことでしょう。
「ポ~考える会」のみなさん。残念ながら、君らの負け。これからは与党の提出する「児童ポルノ規制法」が「表現検閲」になだれ込むのを監視する方に力を注いでほしい。「ポ~考える会」の面々が非常に真面目に児童の福祉や障害者の問題を考えていることは、メンバーのうちの名前がわかった人たちのプロフィールや活動歴をチェックして理解出来ました。
児童の福祉も女性の尊厳も障害者が平等に生きていく権利も、大切なことであり、私も私のやり方でこれらの問題に関わっていくつもりでいます。しかし、会田誠をやり玉にあげて、これらの作品を「児童ポルノ」かどうか、ということを争点とするなら、もう少し『お芸術とポルノの境界は果たして自明のものなのか?』という会田誠からの問いかけにバシッと、答えてないと、説得力が薄くなります。
「ポ~考える会」のこれからの活躍をお祈り申し上げます。(今、就活中の4年生のもとへ毎日届けられているオイノリメールのようですが、たまたま文面が似てしまっただけです)
<つづく>
ぽかぽか春庭@アート散歩>春庭の現代ゲージツ入門(3)会田誠vs児童ポルノ被害と性暴力を考える会
ゲージツと障害者問題というのは、近年では、「日本てんかん協会による筒井康隆への抗議、筒井の断筆宣言」が一番有名であるけれど、ほかにもいろいろあったのだろうと思います。
筒井の『無人警察』が問題であるのは、第一に角川書店編纂発行の『高校国語Ⅰ』に収録された文章であった、という点だと私は考えます。国語教科書という「生徒が自分では選択できない本」に掲載し、この作の読解がカリキュラムに入れば、生徒はこの文章を読まないでいる自由がない。選択の自由のないところが問題なのであって、てんかんについての記述がどうであるかは、筒井の文筆家としての力量の問題です。
今回の「児童ポルノ被害と性暴力を考える会」が取り上げた、会田誠の「犬」シリーズや食用人造人間美味ちゃんシリーズも、見たら不快に感じる人は必ずいると思います。不快に感じる人もいるであろうことが想定されている絵画として制作されているのですから。
犬(雪月花)シリーズより「雪」(見ようと思う人だけ、以下のサイトへ)
http://blog.goo.ne.jp/nipponianipponn/e/b011f52efc5559c4337cad0084a5196d
この作品を見ようと思わない人でもつい見てしまう可能性のある、テレビコマーシャルとか、渋谷駅前交差点の上の電子広告板に出したら、非難するのもわかる。しかし、今回は、作品は基本的に見たい人だけが入場する美術館での公開であり、しかも18禁部屋という分離した展示室を設けての展示です。
「ポ~考える会」は、美術館という公共的空間での公開がけしからぬ、という主張をしています。この「18禁部屋隔離展示」という措置に対してまで文句をつけたいのであるなら、それは検閲の思想と変わりない。芸術への規制は、思想検閲への第一歩になると、私は危惧します。
「ポ~考える会」にそんな検閲権力があるとは思わない。この会に所属する大学の講師をしている先生方も、それくらいはわかっていての行動だろう。つまり一連の抗議行動は、この会の知名度を上げる目的があった、というなら、私も納得です。
本気でこれらの絵を「児童ポルノである」、と断定するなら、それは、5月29日に議員立法(自民・公明両党と日本維新の会)により衆議院に提出された「児童ポルノ禁止法」改正案が、とめどなく「出版、表現の規制」になだれ込もうとしていることに、手を貸すだけの結果に終わる。
また、公的な場所である美術館での公開はけしからぬというなら、クールベの「眠り」やバルチュスの「ギターのレッスン」などのきわどい表現の芸術作品に対して、これまで「世間様」がとってきた態度と同じことだ、というだけですんでしまう。
クールベ「眠り」

バルチュス「ギターレッスン」

会田誠は「わだばバルチュスになりたい」というタイトルのパロディっぽい絵を描いています。
バルチュスは、インタビューにこたえて、1930年代のヨーロッパ美術界に物議をかもした絵を発表したことに関して「ヨーロッパで有名になるには、スキャンダラスであることが重要だった」という意味のことばを述べています。(2001芸術新潮6月号)
会田誠が「バルチュス」になりたいと言うとき、たぶん、絵の技法やら主題やらを踏襲したいなんぞということではなく、「絵がスキャンダルをまきおこすほど、絵を見て貰える機会がふえる」という単純なことが一番に来るだろうと、私は思います。
だとしたら、「ポ~考える会」による非難は、大歓迎のスキャンダル。会田自身にデメリットはないスキャンダルだからです。
私は、作品の表現に関して、出版や上演を法的に排除することには賛成しない。
法で規制を始めたら、とめどなく思想・表現の検閲になだれ込んでいく。それが国家というものだから。
私たちは、「近代国家」という共同体の在り方をもう一度考えなければならないところまで来ているのに、「振り出しに戻る」みたいな検閲に手を貸したくない。
こんなささやかな文章でも、誤解する人もいるので、「児童ポルノ」を肯定しているのではないことは明言しておきましょう。表現、思想や出版の自由について述べている。
会田誠の作品を非難する論評の報道に関して、「ポ~考える会」へのさまざまなマスコミ報道が出ました。ポ~会側と美術館側、両者の主張を同比重で扱うという態度を取ったところ、美術館側に添っているところ、「ポ~考える会」側に立つところ、それぞれでした。
サヨクっぽいとされる出版物のうち、「週間金曜日」は、「ポ~考える会」に立っての編集。「ポ~考える会」と性暴力問題に論陣を張る落合恵子との関わりがあるのかもしれない。AERAは、「現代の肖像」で取り上げて、会田を持ち上げている。AERAは売れりゃいいんだろうけど。
さて、この勝負、いまのところ森美術館の勝ち。一連の報道のおかげで展覧会の知名度があがり、森美術館は、開館以来最高の入場者数を記録しました。消費社会では、売れたもんは正義。
美術作品に抗議するなら、「ポ~考える会」側も、椹木野衣レベルの美術批評ができる人をそろえて論戦張るべきところ、ちょっと論述が雑駁すぎた。むろん、抗議するのは言論の自由で、どんどんケチつけたらよい。ただ、ケチの付け方が粗雑であれば、そのケチくささは自分へと跳ね返る。
「ポ~考える会」への反論として出された会田の言い分。会期中は森美術館への配慮なのか、おとなしい発言のみ。
会田誠ツィッター「だんまりを決め込むつもりはありません。必要とあらば出向き、誠心誠意お答えするつもりです」
同「『犬』は『お芸術とポルノの境界は果たして自明のものなのか?』という問いのための試薬のようなものです。問いをより先鋭化するため、切断や動物扱いという絶対悪の図像を選択しました。多くの人が指摘する通り、このたびの喧々囂々の議論は、最初から作品に内在していたものでしょう」
このツx-トを見た限りでは、「ポ~考える会」は、会田誠の「最初から作品に内在していた試薬」を顕在化する役割をまんまとおわされた。会田誠の望んでいた「外在化」を果たしてあげだのだと言えます。
会期終了の3月31日以後、会田誠からさらなるリアクションがあるのか、と期待していたのですが、特に一般の話題になるような反論、私は見ていません。
会田誠は本人が主張しているように天才です。天才を相手にするには、「ポ~考える会」の面々、ちょいと役者が小粒すぎた、というのが、私の感想です。
脚注として、「ポ~考える会」の主張をコピーしておきます。
「これらの作品は、残虐な児童ポルノであるだけでなく、きわめて下劣な性差別であるとともに障がい者差別でもあります。このようなものが、同人誌にこっそり掲載されているのではなく、森美術館という公共的な美術館で堂々と展示され、しかも、各界から絶賛されているというのは、異常としか言いようがありません。すでにNHKの「日曜美術館」で肯定的に取り上げられ、最新の『美術手帖』(2013年1月号)では特集さえ組まれています。
私たちは、森美術館に対して1月25日付で抗議文を送付するとともに、多くの団体・個人と協力してこの問題を広く世論に訴えていきたいと考えています。またこの問題を国際的にも訴えていきたいと考えていますので、みなさんのご協力を求めたいと思います。」
今回の会田誠VS「ポ~考える会」の試合、博物館美術館がどのような作品を収集し展示するのかということの法的根拠「博物館」法に照らして、また、美術館博物館と学芸員の社会的責任やら倫理観にてらして、「アウトと受け取る人もいようが、ぎり、セーフ」ってことでしょう。
「ポ~考える会」のみなさん。残念ながら、君らの負け。これからは与党の提出する「児童ポルノ規制法」が「表現検閲」になだれ込むのを監視する方に力を注いでほしい。「ポ~考える会」の面々が非常に真面目に児童の福祉や障害者の問題を考えていることは、メンバーのうちの名前がわかった人たちのプロフィールや活動歴をチェックして理解出来ました。
児童の福祉も女性の尊厳も障害者が平等に生きていく権利も、大切なことであり、私も私のやり方でこれらの問題に関わっていくつもりでいます。しかし、会田誠をやり玉にあげて、これらの作品を「児童ポルノ」かどうか、ということを争点とするなら、もう少し『お芸術とポルノの境界は果たして自明のものなのか?』という会田誠からの問いかけにバシッと、答えてないと、説得力が薄くなります。
「ポ~考える会」のこれからの活躍をお祈り申し上げます。(今、就活中の4年生のもとへ毎日届けられているオイノリメールのようですが、たまたま文面が似てしまっただけです)
<つづく>