2013/12/01
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>明かりを灯す人(1)キルギスの電気どろぼう
弱っちくてダメダメで、できるだけズルして楽したいと思っていて、しかも自分ばかりが不運でちっともよいことに巡り合わないと文句たらたら、、、、こんな生活を続けている自分を、ちょっとは反省させてくれる人に出会うことがあります。リアルライフで出会う友のこともあるし、映画や本の中で出会うこともあります。
最近出会った、3人の「私の心に明かりを灯してくれた人」を紹介するシリーズです。
キルギスの映画『明かりを灯す人』(テレビ放映を録画しました)。私は、キルギス語の映画を初めて見ました。(以下、ネタバレ含む紹介です)
キルギス映画『明かりを灯す人(キルギス語タイトル Свет-аке)』。
アクタン・アリム・クバト監督は、ロシア語タイトル“SVET-AKE”の“SVET”は、「光/明り」を文字通り意味するとともに、「世界/世間」や「兄弟」を意味する、と述べています。
アクタン・アリム・クバト監督は、前作(1998『あの娘と自転車に乗って』、2001『旅立ちの汽笛』)までは、ロシア名アクタン・アブディカリコフと名乗っていました。ロシア名からキルギス名に変えたのは、監督の「キルギス社会に生きる」という決意表明かと思います。監督自身は「自分の世界観や外観を変える」ため、と述べており、アリムは産みの父の姓であり、クバトは養子として育ててくれた父親の姓だそうです。
1991年のソビエト連邦崩壊、キルギスタン独立を経て、キルギスの人々は今なお厳しい生活を強いられています。監督は「みんなに笑顔をもたらす人物を描きたかった」と語っています。監督自身が演じている主人公「明かり屋」は、素朴な村の純朴な電気工です。アクタン・アリム・クバトさんの顔立ちは、朝青龍にそっくりですが、「朝青龍が穏やかな人格者になったらこんな顔」という風貌です。
村人たちは、だれも彼の本名を呼ばず、「明かり屋」と呼びます。「明かり屋」さんは村の電気配線工事いっさいを受け持っていますが、村人にとって電気製品といっても、家の中に電球ひとつの「明かり」か、せいぜいニュースを聞くラジオくらい。テレビはまだまだ高値の花。だから、電気工の彼は「明かり屋さん」です。
明かり屋さんは、ときに電気代が払えない人のためにブレーカーをいじくり、無料で電気がつくように細工したりします。だから、英語版のタイトルは『Light Theif でんきどろぼう』。
彼にとって、電気は天の恵です。遊牧の民にとって大地は天のものであって、誰かの所有物ではありません。川の水をだれでも自由に汲めるように、電気の恵みを誰でも使えるようにするのが彼の願い。そのために風車を回して発電することを夢見ています。村では風が弱い日もあるけれど、谷間ではいつも強い風が吹いているので、谷間に風車を並べれば、村で使う電気はまかなえる、と計画しています。
そんな「明かり屋さん」の夢も、しっかりものの妻バルメット(演:タアライカン・アバゾバ )に言わせると「村の人に笑われているだけ」
明かり屋さんの夢は、もうひとつあります。息子がほしい。愛する妻とのあいだに4人もの娘ができたけれど、息子に恵まれなかったのは、どうやら自分の子種が悪いのかもしれないと疑っています。酔っ払ったあげく親友マンスール(演:スタンベック・トイチュバエフ)に「俺の妻と寝て、息子を作って欲しい」と頼んだりします。
明かり屋さんは近所の男の子と心通わせ合い、高い木から降りられなくなった男の子を助けてやったりもします。男の子は、明かり屋さんが高い電柱に登って遠くを見渡す姿に憧れて、木に登ったのです。木から山の向こうが見渡せるのかと思って。
政変続きで安定しない政治、資源もなく独立しても少しも発展しない経済。そんなキルギスに変化の時代がやってきます。中国資本が入り込み、荒涼として耕作地もない村の土地を囲いこもうとし始めたのです。村長のエセンは村の伝統の暮らしを守ろうとし、土地の買収話を持ってきたベクザット(演:アスカット・スライマノフ)に反対します。べクザットは、村出身の成功者で国会議員の椅子を狙っています。
明かり屋は、中国の投資家が村の土地を買収するという話には、賛成できません。エセン村長と明かり屋が語り合うシーン。1分以上カメラが固定されていて、素早いカット切り替えの画面に慣れた目には「ゆうゆうとした川の流れのようなシーン」と感じました。

しかし、エセン村長の突然の死から、村がきしみ始めます。ベクザットは中国資本の導入を進めようとし、明かり屋さんの親友のマンスールを「進歩派」として村長に据えます。
ベクザットとマンスールが、中国人資本家をもてなす席に同席を強いられた明かり屋さんは、その「接待」の内容に驚き、騒動を起こします。その後の明かり屋さんの運命は、、、、、。

左はじにぽつねんと座っている明かり屋さん
キルギスの厳しい社会状況がよくわかる映画であり、それゆえに監督が未来に願いをこめて映画をとったことがわかる映画です。ラスト、風車がまわり、裸電球に明かりがともされるシーンがあります。か細い明かりかもしれませんが、きっと未来には大きな光となるのでしょう。
ラスト、エンドクレジットの前には、「私の孫たちへ、彼らが幸せでありますように」という文字が浮かび上がりました。
明かり屋さん、私の心にも明かりを灯してくれました。
<つづく>
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>明かりを灯す人(1)キルギスの電気どろぼう
弱っちくてダメダメで、できるだけズルして楽したいと思っていて、しかも自分ばかりが不運でちっともよいことに巡り合わないと文句たらたら、、、、こんな生活を続けている自分を、ちょっとは反省させてくれる人に出会うことがあります。リアルライフで出会う友のこともあるし、映画や本の中で出会うこともあります。
最近出会った、3人の「私の心に明かりを灯してくれた人」を紹介するシリーズです。
キルギスの映画『明かりを灯す人』(テレビ放映を録画しました)。私は、キルギス語の映画を初めて見ました。(以下、ネタバレ含む紹介です)
キルギス映画『明かりを灯す人(キルギス語タイトル Свет-аке)』。
アクタン・アリム・クバト監督は、ロシア語タイトル“SVET-AKE”の“SVET”は、「光/明り」を文字通り意味するとともに、「世界/世間」や「兄弟」を意味する、と述べています。
アクタン・アリム・クバト監督は、前作(1998『あの娘と自転車に乗って』、2001『旅立ちの汽笛』)までは、ロシア名アクタン・アブディカリコフと名乗っていました。ロシア名からキルギス名に変えたのは、監督の「キルギス社会に生きる」という決意表明かと思います。監督自身は「自分の世界観や外観を変える」ため、と述べており、アリムは産みの父の姓であり、クバトは養子として育ててくれた父親の姓だそうです。
1991年のソビエト連邦崩壊、キルギスタン独立を経て、キルギスの人々は今なお厳しい生活を強いられています。監督は「みんなに笑顔をもたらす人物を描きたかった」と語っています。監督自身が演じている主人公「明かり屋」は、素朴な村の純朴な電気工です。アクタン・アリム・クバトさんの顔立ちは、朝青龍にそっくりですが、「朝青龍が穏やかな人格者になったらこんな顔」という風貌です。
村人たちは、だれも彼の本名を呼ばず、「明かり屋」と呼びます。「明かり屋」さんは村の電気配線工事いっさいを受け持っていますが、村人にとって電気製品といっても、家の中に電球ひとつの「明かり」か、せいぜいニュースを聞くラジオくらい。テレビはまだまだ高値の花。だから、電気工の彼は「明かり屋さん」です。
明かり屋さんは、ときに電気代が払えない人のためにブレーカーをいじくり、無料で電気がつくように細工したりします。だから、英語版のタイトルは『Light Theif でんきどろぼう』。
彼にとって、電気は天の恵です。遊牧の民にとって大地は天のものであって、誰かの所有物ではありません。川の水をだれでも自由に汲めるように、電気の恵みを誰でも使えるようにするのが彼の願い。そのために風車を回して発電することを夢見ています。村では風が弱い日もあるけれど、谷間ではいつも強い風が吹いているので、谷間に風車を並べれば、村で使う電気はまかなえる、と計画しています。
そんな「明かり屋さん」の夢も、しっかりものの妻バルメット(演:タアライカン・アバゾバ )に言わせると「村の人に笑われているだけ」
明かり屋さんの夢は、もうひとつあります。息子がほしい。愛する妻とのあいだに4人もの娘ができたけれど、息子に恵まれなかったのは、どうやら自分の子種が悪いのかもしれないと疑っています。酔っ払ったあげく親友マンスール(演:スタンベック・トイチュバエフ)に「俺の妻と寝て、息子を作って欲しい」と頼んだりします。
明かり屋さんは近所の男の子と心通わせ合い、高い木から降りられなくなった男の子を助けてやったりもします。男の子は、明かり屋さんが高い電柱に登って遠くを見渡す姿に憧れて、木に登ったのです。木から山の向こうが見渡せるのかと思って。
政変続きで安定しない政治、資源もなく独立しても少しも発展しない経済。そんなキルギスに変化の時代がやってきます。中国資本が入り込み、荒涼として耕作地もない村の土地を囲いこもうとし始めたのです。村長のエセンは村の伝統の暮らしを守ろうとし、土地の買収話を持ってきたベクザット(演:アスカット・スライマノフ)に反対します。べクザットは、村出身の成功者で国会議員の椅子を狙っています。
明かり屋は、中国の投資家が村の土地を買収するという話には、賛成できません。エセン村長と明かり屋が語り合うシーン。1分以上カメラが固定されていて、素早いカット切り替えの画面に慣れた目には「ゆうゆうとした川の流れのようなシーン」と感じました。

しかし、エセン村長の突然の死から、村がきしみ始めます。ベクザットは中国資本の導入を進めようとし、明かり屋さんの親友のマンスールを「進歩派」として村長に据えます。
ベクザットとマンスールが、中国人資本家をもてなす席に同席を強いられた明かり屋さんは、その「接待」の内容に驚き、騒動を起こします。その後の明かり屋さんの運命は、、、、、。

左はじにぽつねんと座っている明かり屋さん
キルギスの厳しい社会状況がよくわかる映画であり、それゆえに監督が未来に願いをこめて映画をとったことがわかる映画です。ラスト、風車がまわり、裸電球に明かりがともされるシーンがあります。か細い明かりかもしれませんが、きっと未来には大きな光となるのでしょう。
ラスト、エンドクレジットの前には、「私の孫たちへ、彼らが幸せでありますように」という文字が浮かび上がりました。
明かり屋さん、私の心にも明かりを灯してくれました。
<つづく>